蘇る薫のいぶせきを

「…ヒナリ」

は、と千紘の声で目が覚めた。茫然自失としすぎて、何か別のものが宿っていたような感覚がした。心が浮かんで、まるで私から離れてしまったかのような。途端に感情が帰ってきて、状況を整理しようと思考を巡らせるけど、よくわからない。糸屑が絡まり合ってもつれてしまったみたいに、どこからなにを考えたら良いのかの判断がつかなくて、ただ感情だけが突き走り右往左往していた。

もう一度名前を呼ばれてようやく、目の前の千紘と向き合うことが出来た。でも、…これは、千紘?傘のなかの、暗く重く、濁った瞳は、私をちらりとも見ることがない。傘を畳んでその場に落とし、私の腰元へと伸ばされた手は、ただ自分のボールを手に取るだけ。それを地面に置くと、あっという間にリーフィアの姿に戻ってしまう。鼻先で開閉ボタンを押すと、赤い光が彼を包み、ボールは閉じる。…全てが淡々とした、まるで別人のようだった。

ボールが閉じる寸前、ちひろ、と掠れた声を上げたけれど、それもきっと届いていないだろう。普段の千紘なら、どんな小さな声も拾い上げる聴覚を持っているのに。無視されてる、んだろう。おかしい、なにか、おかしい…。けれど私もまだ上手に気持ちが戻ってきていないらしく、呆然としたままそのボールを拾い上げるだけで、深く思うことができなかった。雨音に、すべての思考を掻き消される。

「ヒナリちゃん、大丈夫…?」

「…だいじょうぶ、だよ」

ふわふわと浮かんでいた心が、ようやく地面に着地する。振り返って漣に微笑むと、なんだか苦しそうに表情を歪めていて、でも口元は笑っていた。彼方も理央も、祐月もやはり、上手く表情を作れていなかった。

「ギャラドスさん、どうなっちゃうんだろう…」

それが怖かった。このみずうみで生きていくことは出来るんだろうか。それとも、ここを離れて生きるのだろうか。そうだとしても、ギャラドスは空も飛べないし、まさか陸を這ってどこかへ行くわけにもいかない。それとも、四面楚歌となった彼の選ぶ道は。

「死にたいって思いますよ。きっとね」

…やはり、祐月はこういった感情に察しが良い。特に、負の感情に対して。彼はそう呟くと、ふと私を見て笑った。くすりと小首を傾げたその笑い方は、私を試しているかのようだった。これを、あなたはどう思いますか。言葉はなくとも、そんな声が聞こえてくる。それに反応してつい、表情が険しくなっていたのだろう。祐月はまたへらりと笑って、言った。

「そんな顔しないでください、ヒナリさん。…ただ、あのギャラドスの感情は、痛いほどに伝わってきます。死を望む気持ちが」

ギャラドスへと再び目をやると、さっきと何一つ状況は変わっていなかった。雨に打たれ、抵抗など何もせず、ただ憎しみをぶつける的となって、そこにいる。無言のまま、罰を受けるかのように、そこにいる。

死にたい…だとか。私だって、ワカバに閉じ込められていた時、死にたいなあ、と思ったことは確かにあった。彼方には決して言えないけれど。でもそれは全然本気じゃなくて、ただの気の迷い。実際そういうモノを用意したこともなかったし、本当に死ぬなんてことは全然理解していなかったし、今もそうだ。

死ぬって、なんだろう。私はそれを簡単に定義できるほど、大人ではない。大人になったとしても、できそうにない。きっと、ほんとうに死ぬまでこうだとは言い切れないものなのだと、今はそれしか思うことができない。けれど、祐月は、このギャラドスは、死にたい、と確かに思った。自分の死を、強く意識して、望んだ。その気持ちが胸の中にあった。それだけは避けようもない事実で、ほんとうのことなのだ。

私には何ができるんだろうか。何か、してもいいんだろうか。ほんとうのことなんかちっとも理解していない私が介入して、無理矢理助けて、それで彼は幸せになるのだろうか。ひとの気持ちなんか、私には全然分からない。でも私の気持ちなら、私の今の思いなら、分かる。正しいのかは分からない、それでも、生きてほしい。生きて、欲しい。それが偽善だったとしても、私は生きてほしい、と、この胸で、こころで、思っている。それもまた、避けようもない事実で、ほんとうのことだ。

結局は、ほんとうの思い同士、我儘同士のぶつけ合い。死にたい。生きて。どちらも真実。喧嘩をしないで上手くやるには、介入しないのが一番だ。でも、それを超える何かが――誰かへの思いがあってしまうから。それを、悪だとは、言いたくない。

ギャラドスのモンスターボールは、まだ破壊されず私の手中にある。あの子は今、曲がりなりにも私の手持ちなのだ。ここを離れることができたら、彼は一先ず、この静かに思考を奪われる状態から逃れることができる。けれど、それを彼が望むのか否か。決めるのは彼だ。今、ここで動かないと、何か大切なものを逃してしまう気がした。

雨音が、煩い。傘を閉じて、くるりと向きを変えると、皆の表情を見回す。彼らは私のその態度だけで全てを察してくれたようだ。言葉は最早、なくていい。視線を五人合わせて、頷く。

「…漣。病み上がりで申し訳ないけど、またお願い」

「勿論。ヒナリちゃんの為とあらば」

「理央はコイキング達への威嚇として、一緒に来て」

「りょーうかい。戦う必要がないといいけど」

「彼方と祐月はここで、誰か来たら追い払うようにお願い。ただし相手に怪我はさせないで」

「はい。万が一何かあったら呼んでください」

「分かった。無茶はしないでね、ヒナリ」

「千紘は、聞こえてる?…ボールの中でいいから、一緒にいて」

静かに指示が行き渡ると、私はそっと傘を地面に置いた。それを真似るかのように、皆も同じように傘を並べると、それぞれの元の姿に戻って動き出してゆく。彼方たちは湖の入り口へと向かい、私たちは湖畔へと向かう。ラプラスの姿に戻った漣の背中に跨って、パチリスの姿の理央がその頭に乗っかれば、いざ。コイキングたちの怪訝な視線に耐えながら、ギャラドスの元へと進んで行く。電気タイプの理央がいるおかげか、それとも別の理由かはわからないけれど。コイキングたちは何もしてこなかった。むしろ、私たちが進む道を空けてくれているようだ。あいつを連れて、早くどこかへ行けとでも言いたげな様子。逆に心が痛かった。

「ギャラドス、さん」

それほど大きい声ではなかったけれど、十分だった。ギャラドスは私の声に、ゆっくりと振り向く。私がボールを差し出すと、彼はちょうど捕まえたときと同じように、頭を下げた。壊す意思は、なさそうだ。
帰っておいで、ギャラドスさん。あなたの世界はもう、壊れてしまった。

目を閉じて、ただ開閉スイッチを押すだけ。それだけの動作。それだけで、彼は一先ず死を免れたのだった。赤い光の中にギャラドスが取り込まれると、ふっと力が抜けそうになった。これからどうするか、それは後で考えよう。今は私たちを取り囲む、この大勢のコイキングたちの中から抜け出すことのほうが先決だ。ギャラドスのボールを、胸の中で抱きしめて、心の声を掛ける。
あなたは十分、立ち向かった。逃げなかった。だからもう、いいんだよ。よく、がんばったね。

雨が、徐々に雪に変わりつつあるようだ。白く冷たい感覚が、私たちを包んでいく。手のひらに収まったボールの中から、啜り泣く声が聞こえたような気がした。
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