蘇る薫のいぶせきを

チョウジタウンチョウジジム地下、巨大プール。ヤナギさんは、何も言わないままここに案内すると、壁にもたれ掛かって私をじっと眺め始めた。私の聴力のことは、ある程度伝えることにした。どぎまぎと拙いながらも、ポケモンとの会話が出来ることを告げたけれど、ヤナギさんはただ「そうか」と頷くのみ。…なんだ、こんなにもあっさりと、受け止めてもらえることだったのか。相当な勇気を持ってのことだったから、何だか拍子抜けして、変な気分。でも、変に驚かれないことが、とても楽だなと思った。

ともかく、今はギャラドスのことが一番だ。視線は痛いけれど、なんとかボールの開閉スイッチを押せば、…紅い大きな竜と対面する。気圧されるほどの大きさを持ったいきものだとは思えないほどの、かよわさだった。

…何から話したらいいんだろう。でも、下手な同情は、したくない。あのコイキングたちを貶めたりとか、可哀想にとか、そういうのも、言いたくない。

「ギャラドスさん」

『……っ、』

ぱちりと瞬きで反応したギャラドス。瞳と瞳が、交わる。

「……よく、がんばったね、ギャラドスさん」

ただ、その苦しみと絶望を、認めてあげることしかできない。私は、部外者だ。ただあの状況に居合わせただけの、赤の他人だ。そんな私に、同じ気持ちを完全に理解してあげられることなんて出来ないのだから。

触れようとして両手を伸ばしかけたはいいけれど、私とギャラドスの、この微妙な距離感に邪魔をされる。もう足先は水面に触れそうなほどだ、これ以上はどうにもできない…と、戸惑っていたとき。音もなく、水面が揺れる。ギャラドスが首から下までを沈め、私たちのいる陸地へと近寄ってきてくれたのだった。威嚇の特性すら持つ巨大なギャラドスの顔面だけれど、今はそれよりも、慈しみの念のほうが強かった。互いに瞳を閉じると、ごつごつしいその頬を、そっとひと撫でした。分厚い甲羅越しには、私の手の感触なんてほとんど伝わらないのだろうけれど、それでも、思いだけは伝わって欲しかった。

瞳を、開く。真紅ばかりの視界だ。…ギャラドス自身は、この色を屈辱の色だと言っていたけれど。今私は素直に、きれいだ、と思った。彼もそんな私の表情を見てか、鋭い瞳を覆う瞼をハの字に下げて、少し困ったように笑っていた。

「…これから、どうしたい?」

唐突かなとは思いながらも、おずおずと口を開く。一番話しておかなければならないのは、このことだった。あのときは、死すら意識していたかもしれないけれど、今となっては、どう思っているのだろう。ギャラドスは迷っているらしい、ついさっきまで私を真っ直ぐ見てくれていた顔を少し逸らして、斜め下を向いてしまっている。…やっぱり、唐突だったのだろう。私は続けた。

「…もしも、このまま私の手持ちで良いというのなら、私はあなたを歓迎する。私の仲間たちは、皆優しくて楽しい子ばかりだし。でも、あなたがここじゃない、どこか別の場所で生きようとするのなら、私はあなたをそこまで送り届ける。…あなたの意思を、尊重します」

『…、……』

そして、沈黙が帰ってくる。時々角の先から垂れ落ちる雫の音だけが、秒針のように時を刻んでいる。ギャラドスの答えを、じっと待つけれど。その表情は、じっと考えているというよりも、狼狽えているほうが大きいように見えた。視線を右往左往させて、自信無さげに俯く姿は、まるで親とはぐれた迷子の子供のようで。事実、そうなのだと思う。未熟なまま進化を遂げたせいで、心が体に追いついていないのだろう。

何か言おうと、口を開こうとした、とき。鞄につけていたモンスターボールが、ゆらり、と勢いをつけて揺れ動いた。無闇に暴れるというよりも、意図して鞄から転がり落ちようとしている――一番後ろにつけたボール。ことりと防水床へ転げ落ちた衝撃で、開閉スイッチが押される。彼は、…祐月は、赤い光の中から現れたと思うとすぐに、ひとの容姿と姿を変えた。着地するときの風で、ふわりとなびく髪。それが彼の肩に落ち着くと、彼はこちらを向かないまま、私の名前をそっと呼んだ。

「ヒナリさん。…同族のことは、同族に任せてみませんか?」

「……祐月、」

「貴女は優し過ぎるから。そこが良い所ですが、その優しさがこんなただの我儘な子供に向けられているのは、何となく腹立たしいんです。…なんて、まあ個人的な感情ですね」

我儘な子供…って。普段の彼がなかなか言いそうにもない言葉に戸惑いながらも、彼の横顔を眺める。薄い唇が、すぅ、と横に伸ばされる。長い睫毛の奥から覗く真紅の瞳は、射抜くようにギャラドスを見つめている。整った顔かたちが、どことなく怖くなる瞬間だった。ギャラドスもそれは同じようで、カツカツと怯える様子もなく歩み寄ってくる祐月に、水中に沈めていた身体をさらに沈めて、少し恐れているように見えた。それでも、祐月に容赦はない。冷淡に、でもどこか揶揄するような口調で、彼は笑った。

「"なんでこんなところで生きてるんだろう、いっそ殺してくれたらいいのに"、…といったところ、ですか?」

『……、』

「ああ、でも僕が代弁しても何も意味はないですね。自分の感情はちゃんと自分で言ってください。生憎僕は、恩も愛着もない他人に優しくする慈愛なんて持ち合わせていないので。貴方が未熟進化だろうが何だろうが、僕の知ったことじゃない。ねえ、ちいさなギャラドスさん」

笑顔が、綺麗だ。彼の斜め二歩ほど後ろから、ふたりの無言の対話を見詰める。なぜ、そこまできつく問い詰めるのだろう、…なんて、理由は何となく察しているのだけれど。ギャラドスは、沈黙を貫いていた。しかし、やがて視線に押し負けたかのように、ゆっくりと重い口が開かれる。それは、この場で初めて聞く、このギャラドスの声。そして、彼の本音。覚束ない、子供のような話し方だった。きっとこれが、この子の元々の話し方なのだろう。

『……、しに、たい…』

…ああ。やはり、そう思うんだね。ずっと、祐月の感覚と口を通してだったから、改めて身に沁みる。死を望むということの、その本当の意味は私には分からない。…けれど、でも。つい本音が、口から零れ落ちてしまっていた。

「それは、いやだよ…」

我儘を言ってごめんね。ふと声を上げた私に、ふたつのあかい視線がやってくる。顔を上げることができないで、ただ震えるだけの私を、ふたりは一体どんな表情で見ているのだろうか。私という、何も彼らのことを理解できていないようなやつが、口を挟んで良かったのだろうか。…でも、ほんとうにそう、思ってしまったから。お小言や綺麗事かもしれないけれど、ほんとうに思ったこと。今度ははっきりと、伝えたいと思った。

「いやだ、わたし、あなたが、しんじゃうの……」

拳を握り締めたまま、沈黙が続く。だけど不意に、はあ、と溜息が聞こえた。…祐月だ。でもそれは、落胆からのものというよりも、もう少しあたたかいもののような気がした。

「…ね。彼女は、どこまでも優しい人でしょう。そんな人と出逢えたから、僕は今ここにいるんですけどね」

彼の声の調子が、いつも私に話してくれるように穏やかになる。はっと顔を上げれば、本当にいつもの滲むような笑顔を浮かべていて、少し胸が熱くなった。

けれど、それも束の間。再びギャラドスの方へと向き直れば、口調はさっきまでの、やさしくもどこか突き放すものへ戻ってゆく。

「でも僕は、彼女のように優しくない。同情なんかもっての外、貴方のようなただの他人がどうなろうが気にしたことではない。…だから、僕が貴方に言えるのは、僕個人の感情だけです。僕の、勝手な感想だけ」

…一歩。水中に首から下を沈め、顔だけを水上に覗かせるギャラドスに、祐月が踏み出す。決してギャラドスからは目を逸らすことのないまま屈み込むと、真っ直ぐに紅同士をぶつける。

険しい表情同士が互いを睨み合ったまま、時が過ぎてゆく。けれど、先にその表情を緩めたのは、祐月のほうだった。

「大切なひとが、見つかればいいのにね、…って」

『……大切なひと、なんか』

「いないと言いたいんでしょう。実際いないですしね、今の貴方に。誰かを大切に思うよりも、悪意のほうが目に付くし、それに何より自分のことで精一杯でしょう。…だから。だからこそ、ゆっくりでいい、休んで、休みすぎて疲れたときに、自分以外に大切だと思えるものが見つかればいいのに。過去でも未来でもなく、今、そこにあるものが、見つかるといい。そして、大切なもののために強くなるといいと、…僕は、思います」

それは、彼の経験から来る言葉なんだろうか。なら、珍しくきつい物言いをしていた理由も、なんとなく察しがついた。きっと、祐月自身によく似ているのだろう、このギャラドスは。似た者同士は、意外と相入れなかったりするものだ。

でも、優しくないと自称する割に、彼は優しいと、私はやはり思うのだ。水の音ひとつしない空間で、祐月は伸ばした手をそっと、おさないギャラドスの額に触れさせた。ギャラドスはそれに反応することもなく、ただじっと祐月を見上げている。そこにはただの嫌悪というよりも、忠告や戒めのような、奥に強さをたたえたものがあるように感じた。

『でも、そんなの、どうすれば、』

「…私たちじゃ、駄目なのかな、」

それはひとつの、私の願望だった。居場所になりたいと、素直に思ったのだ。けれどそれを遮るように口を挟んだのは、ずっと壁際で沈黙を貫いていたヤナギさんだった。

「それか、わたしにひとつ案があるぞ。…ギャラドスの行く場所だろう。人のあまり寄り付かない、来るとしても相当な強者で、多くの仲間にも恵まれるような場所が」

「そんな、理想郷みたいな場所が…?」

「理想郷か。確かに、あそこは理想郷だ。ドラゴンポケモンにとっての理想郷。フスベシティ、竜の里」

…なるほど、と溜息が出てしまった。話でしか聞いたことはないけれど、その内部は絶対に秘密、里の長老から認められたトレーナーでないと入れなくて、数多くのドラゴン使いが育った場所だとか。そういえば、ワタルさんもそこが出身だったというのを聞いたことがある。

ギャラドスはタイプこそ水と飛行の複合、ドラゴンタイプは持っていないが、タマゴグループはドラゴンに分類されているし、まさしく竜のようなその姿形から、一般的にドラゴンポケモンのように認知されている。多くのドラゴン使いの手持ちになっていることがその証拠だ。竜の里にいて、何らおかしくはないだろう。それに、人もあまり来ないような場所なら、これだけ噂になった赤いギャラドスでも騒がれることはないだろう。

「…どうする?ギャラドスさん。選択肢は、あなたにあるよ」

ギャラドスを振り返り、そう告げる。…やはり、私が勝手に決めることではないと思うのだ。彼自身に、選ばせたい。ギャラドスは、また迷っているようだった。ぶくぶくと沈んでいきそうな姿を、じっと見つめて、待つ。けれどやがて、水上にはっきりと顔を表す。覚悟が決まったようだった。

『…その、里へ。おれを、行かせてもらえますか』

「……分かった。ちょっぴり、残念」

『気持ちはとてもうれしいんです…、あなたのもとにいて、あなたのためになれるのなら…なんて、思わないことはないけど、でもおれ、大切なものを、自分で見つけたい。…だから、ごめんなさい、我儘を言わせてくれませんか』

…そう、そっか。そんな言い方されたら、頷かざるを得ないじゃないか。彼の意思は固い。真紅の瞳が、炎のようだ。やはり、未熟の色でも、屈辱の色でもないと思う。彼の赤色は、忍びやかな強さの色だと、今はっきりと思った。

「…ヒナリくん。ギャラドスは、何と?」

「竜の里へ、…お願いしても、良いですか」

「ああ。手配はわたしがしておこう。このように足を踏み入れてしまった以上、最早他人事とは思えんからな」

ヤナギさんの言葉に、ふ、と胸を撫で下ろす。…良かった。彼の大切な世界が、もう一度出来る機会が出来た。壊れてしまった世界と同じものをもう一度作ることは不可能だけど、彼自身が選んだ道の先で、どうか大切なものをもう一度見つけられますように、そして、しあわせになれますように。

ゆっくりとした動作で、ギャラドスはヤナギさんへ恭しく頭を垂れ、感謝を表しているようだった。立ち去ろうとしていたヤナギさんだけれど、ふと振り返ると頭を垂れ続けるギャラドスの様子を一瞥し、そっと笑っていた。
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