蘇る薫のいぶせきを
なんどか、とても長い夢を見ていたようだた。あれからギャラドスはヤナギさんの元を経由し、竜の里へ送られていったという。彼が私の手元を離れた瞬間、一気に体と心が現実に引き戻された心地がした。ゆめとうつつの差分だろうか、疲れがどっと身体に押し寄せてきているらしい。
今日一日だけはいっそ…と、ポケモンセンターの一室でゆっくりと過ごしていた。元気がまだ有り余っているらしい彼方は、せっかく雪が降ってるんだから!と無理矢理漣と理央とを引っ張って雪合戦に連れ込んでいたけれど、毛布の中から抜け出せなかった私は珍しく昼過ぎに起床。ブランチとなってしまった朝ごはんを食べたあとは、いつか読もうと買っておいた本を読み耽っていた。祐月は私と違っていつも通りに起きていたみたいだけど、その間に普段なかなか出来ない荷物の整理だとかをしてくれていたようだ。私が起きてからは、向かい合ってそれぞれの読書をしていたりもしたけれど、今はもう夕方。夕飯の支度を始めていた。だから私もたまには手伝おうと立ち上がったのだけれど、僕一人で大丈夫だと断られてしまった。
そして、もうひとり――千紘は、あれからまだ変わらないようだ。ご飯のたびにボールの開閉スイッチを押して無理矢理に外に出してはいるのだけれど、どうにも様子がおかしい。ひとの姿になろうとしないのだ。リーフィアの姿のまま、ぷいと視線を逸らされてしまう。皆で人間と同じご飯を食べるのが常となっている私たちだけど、ここ数日千紘だけはポケモンフーズを食べていた。しかも、ほとんど量を食べていないようだし。一体、どうしてしまったというのだろう。
今も、普段ならこんなにもシチューの匂いが漂い始めていれば真っ先に飛んできて尻尾を振っているというのに、未だテーブルの上に鎮座するモンスターボールの中で眠っている。一度そのことが頭に浮かぶと、もう本の世界には戻れなくなってしまった。西日に照らされた本を閉じ、祐月の背中を眺めて、呟く。朝はなんとなく昨日のことを思い出し声をかけるのも憚っていたけれど、何事もなかったように話し掛けてくる祐月の様子に、私もすっかり気を休めていたのだった。
「千紘、どうしちゃったのかなあ…」
「……、」
蛇口から水の流れる音が止まる。やはり、祐月も気にしていたらしい。軽く布巾で手を拭うと、祐月は振り返って少し困ったような笑みを浮かべた。
「あのギャラドスが、湖に帰ろうとしたときでしたね。明らかに様子がおかしくなりだしたのは」
やっぱり、ただでさえひとの感情に敏感な祐月が気づかないはずがない。それ以前も返事がいつも以上に曖昧だったり、ロケット団戦では勝手に出てきたりと、らしくない行動が目立っていた。けれどあのときを境に、千紘の中で何かが変わってしまったように見えた。体調が悪いとか、そういう風には見えない。けど、何か、違う。ぼんやりと、常に己の思うがままの行動をして、迷いなんてほとんどない千紘があのとき確かに、迷っていた。不安を浮かべていた。けれどここ数日ドタバタしていたりで、上手く向き合える時間が取れずにいる。
「あのギャラドスが責められていたとき。千紘くん、すごく動揺しているように見えました。何か衝撃を受けているような」
「うん、それは、私も気付いてた…」
一緒にいられない、消えなくちゃいけない。そんな僅かな呟きが、コイキングの言葉たちの中に埋もれていたのは知っている。僅かだ、それでも私たちを不安にさせるには十分すぎる言葉だ。あの光景を見て、一体千紘は何を思ったんだろう。何が、彼に衝撃を与えたんだろう。
しばらく、沈黙してしばらく思案に耽る。ことことと、シチューが煮える音だけが鮮明だ。だけど、祐月はふとその火を消した。そして私の前へと座ると、少し遠い、かなしい微笑みを浮かべて言った。
「ヒナリさん、…これは、あくまで僕の想像です。事実無根です。それでも、少しだけ聞いてもらえますか」
私がゆっくりと、重みをもって頷くと、祐月は西日に照らされる千紘のモンスターボールへと視線を逸らした。つられて、私もそれに倣う。もう、随分と傷まみれになったモンスターボール。その中で、彼は一体何を思っているのだろう。
「僕たちはあの時の湖で、死を目の当たりにしました」
「…そう、だね」
「僕が貴方たちに出会った時も、同じ。貴方たちは、僕の中に死を見ました。その時も、今思えば千紘くんの行動は少し変でした。今よりもずっと、僕の元にいようとしていた。千紘くんはその理由を、僕と彼は同じ匂いがするからと説明していました。当時は全く分かりませんでしたが、今、少し分かるような気がします。千紘くんならきっと、あのギャラドスにも同じ"匂い"を嗅ぎ取ったんじゃないかと思います」
それは、一体?祐月とギャラドス、そして千紘に共通する"匂い"、って、何。
尋ねようと口を開いた瞬間、祐月はその音を震わせた。
「死の匂い」
……死の、匂い。ああ、そう聞いて、納得してしまった。祐月は目の前で肉親の死を目の当たりにし、彼自身が何度も深く死を意識していた。ギャラドスはその身体でひとつの命を奪うこととなり、やはり彼も死を濃く想った。ふたりとも、残酷なまでに死と関わり合いが深いのだ。
それならば、千紘も?その胸に宿った兆しを代弁するかのように、祐月は続けた。オレンジ色の夕陽が眩しくて、煩い。
「千紘くんはもしかしたらヒナリさんたちと出会う前、何か死や命といったものと、深く関わったのかもしれない。でもそれなら、千紘くんは隠したりしないと思うんです。なんだかんだ、聞かれたことには正直に答えてくれますし、嘘をつかない子なので」
「祐月、」
「ひとは、極度の苦しみを、無理矢理消してしまうことがあるんだそうです。それで、自分で苦しかった記憶を……、とか、そんな話、あり得ませんよね。すみません、急に変な話しちゃって」
祐月は眉を下げて笑っていたけれど、その声は頭にあまり入ってこなかった。それよりも、目の前のモンスターボールの中にいる彼のことばかりが頭の中をぐるぐると占拠していた。千紘。確か、記憶をすこしだけ失くしていると言っていた。一体、その記憶の中に何があるの。知ってはいけない気がして、でも知らなくてはいけない気もして。
モンスターボールを、恐る恐る手に取る。そして、またカレー作りの続きに戻ろうとしていた祐月を呼び止めた。
「…ヒナリさん」
「待つだけじゃ駄目だよ、ね…。私から、ちゃんと話さなきゃ。…祐月、」
「はい。僕も一緒にいますから」
立ち上がると、できるだけ柔らかいカーペットの上に立つ。そしておずおずと、足元へとボールを放る。ボールはぱかりと二つに割れ、赤い光が飛び出る、…はずだった。しかし、ボールはただ開くだけ。赤い光は飛び出して来ず、無機質なボールの中身だけがカーペットの上に残った。
……あれ?
「……千紘が、いない?」
おかしい。どうして、いつから!身体がわなわなと震えだす、どうしよう、千紘がいない!頭が真っ白になっていく、色んな千紘の声が脳裏でぐちゃぐちゃになって、混乱を煽っていく。どうして、どうして…!ぺたんと情けなく座り込んでしまった私に、祐月が何か声を掛けているようだけれど、その声も上手く聞き取れない。涙よりも、怒りよりも、何も状況が理解できていないことが大きかった。
「ううーっ、部屋の中はあったかいね!ヒナリ、ただいまー!…ヒナリ?」
その声にはっと思考が帰ってくる。彼方たちがちょうど帰ってきたのだった。呆然とした私と深刻な顔をした祐月、そして空っぽになった千紘のモンスターボール。彼方たちは、瞬時に状況を把握したらしかった。咄嗟に彼方に縋り寄って、ぼたぼたと溢れ始めた涙と共に訴える。
「ヒナリ、」
「千紘が!…千紘を、探さなきゃ…っ!!」
外では、まだ雪が降り積もっている。それはまるで彼と出会った遺跡を思い出させる景色で、何とも皮肉だと思った。
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