蘇る薫のいぶせきを

それから一晩掛けて、雪の降り積もるチョウジタウンとその周辺を全員で探し周っていた。手はかじかんで、足先も冷たい。きっと鼻も真っ赤になっていることだろう。それで千紘、千紘とずっと呼んで駆け回っているのだから、周囲に怪訝な顔をされるのは当然だ。でもそれすらどうでもいいと思えた。だって、千紘がいない。大切な千紘が、いないのだ。雪に取られ疲弊した脚はそろそろ限界だと叫んでいるけれど、千紘のことを思うとまた熱が宿る。そうして、全身を酷使して探し回るしかなかった。

「ヒナリ、…あとは、いかりの湖のほうだけ…!」

もう一度五人が集まると、理央が白い息に塗れながらそう告げた。…いかりの湖。真夜中で、しかも人があまり踏み入らないから積雪が街中より分厚いし、危険だと避けていた場所だけれど、そこに千紘がいるのなら危険なんてどうでもいい。皆その意思は同じなようで、足場にだけは気をつけて、という理央の言葉を合図に皆が踏み出した。

草むらも、雪も、すべてを掻き分けてただ探す。絶対ここにいるはずなのだ、もうここにしか場所はないのだ。けれど一向に千紘の姿は見当たらないまま、随分と月も高くなってしまった。最後に見た時計が何時だったかと思い出そうとしたけれど、それすらも目に入っていなかったことを思い出して、自分の余裕のなさを笑った。

もう少し、森の奥まで進んでみよう。そうしてずんずん、雪の中で眠る鋭い草の葉で脚の傷が増えていくのも気にせずに進む。すると、…いた!湖面に映る、もう一人の自分を見つめながら佇む、薄黄色の髪の彼が!

「ちひろ…っ!」

「……、ヒナリ?」

名前を叫ぶと、千紘ははっと振り向く。覚束ない足取りで何とか近寄ろうとするけれど、…近寄っても、いいのだろうか。だって、千紘は私に黙って、私の元をいなくなった。つまりは、もう、一緒に居たくないってこと、なのかな。探し回っていたときには、そんなことを考える余裕もなかった。けれど、こうしていざ向き合うと。

虚ろな黄金色の瞳が、私を真っ直ぐ見つめる。何も語らない、どこか呆然とした瞳。そして咄嗟に思った、…これは、誰?目の前にいるのは千紘のはずなのに、千紘とは違う誰かのような感覚が、するのだ。これは、千紘。いつものマントにいつもの髪に、いつもの表情を浮かべている千紘なのに、なぜ、私はこんなにも今怖いと感じているのだろう。なぜ、真っ直ぐに顔を見れず、俯いているのだろう。

さく、さく。千紘が、雪を踏む音。こちらへ、やってきているようだ。どうして、どうしてやっと見つけたのに、仲間なのに、大切な千紘なのに、こんなにも心臓が激しく恐怖を訴えているのだろう。そんな思いとは裏腹に、無意識は私の目を逸らさせ、自分の両腕を抱き締め動けずに震えさせていた。足音が、止まる。視線の先の、彼のブーツの爪先を見つめることしか、出来ない。

…さくり。彼の足が、私へと踏み出す。さくり。私の足が、後ろへと下がる。さく、さく。雪が、砕かれていく。ふたりの足跡が刻まれる。そうして追い詰められるうちに、背中にぶつかる硬い感覚。同時に、はらりと白い粉のような雪が落ちてきて、どうやら木の幹に追いやられていたようだと気が付いた。木と、私とをそのまま抱くように、千紘はまたもう一歩私のほうへと踏み込んでくる。行き場をなくした私はもう、へにゃりと力をなくして座り込むことしか出来なかった。

「…ヒナリ、ね、え、ヒナリ」

影が、降る。千紘も、立て膝をして座り込むと、私の手首を掴む。抵抗など、出来なかった。力が強いわけではない、ただ、心がついていかないのだ。両手首が、千紘の右手のうちに収まり、膝の上で固定される。何も、出来ない。

「ヒナリ、おれ、ね。わからな、ど、して、こんなきもちが、する、のか、どして、おれ、こんなに…こんなに、だれかを、こわしたいのか」

金属の滑る音。それにはっと目を覚まされて、彼の左手を見れば、そこには出会ったときに彼が所持していた、短刀。鋭利な刃の輝きが、白い世界に反射してきらりと目を刺す。 千紘は握り締めたその刃の面で、私の頬にそっと触れた。血は、まだ滲まない。けれど、角度を少しでも変えれば即座に、その表面が私の血で赤く濡れることは、容易に想像できた。

「…ヒナリ、でも、ヒナリだけ、しんじゃうのは、いやだから、くるしくなるから、だから、すぐに、おれも、しぬね。だから、ヒナリ、いっしょに、しのう?」

夜の森の闇と、雪の舞う白い湖を背景に、千紘はゆるりと金色の瞳を和らげる。…場違いなほど、綺麗だと思った、その時だった。恍惚と緩められていた彼の瞳が、ふと丸くなる。その視線の先には、私。私の瞳、だった。どうしたの、と思いながらも、何も言えずにいると、千紘の暗い小さな呟きが聞こえてきた。

「、ヒナリ…?」

「ちひろ…、」

「ヒナリ、泣い、てる…?」

そう言われてはじめて、つう、と頬を伝う生暖かい感覚に気が付いた。力を失った千紘の手を振り払い慌てて拭うと、そこには紛れも無い、私の流した涙。私、いつの間に泣いてたんだろう。無意識に、恐怖が限界値まで達していたのだろうか。思い返してみれば、ただ目の前のことを理解するのに精一杯で、心の動きを上手く思い出すことができなかった。

私がきょとんとする間、千紘の瞳はどんどんと大きく見開かれ、感情が戻ってくる。絶望と、後悔が。ぺたんと力無く座り込み、わなわなと震え出す千紘を、私はただ唖然と見ていることしか出来なかった。こんなに表情を分かりやすく表す千紘、初めてだ。

「おれ、また、だれかを、こわそうと、ころそうとして、おれ…!おれ、ヒナリをっ、……!」

「ちひろ、…どう、したの…」

短刀が、とさりと雪の上に落ちた。千紘は、私の胸に顔を埋めて声を殺していた。徐々に何かが滲む感覚がして、ああ、彼は泣いているのだと思った。呆然としたまま、目の前の薄黄色の髪にそっと手を伸ばす。雪の混じったそれを、くしゃ、くしゃ、と、力ない動きで梳かすと、彼は少しだけ、薄黄色の中から視線を覗かせた。

夜の森のなか、琥珀色が、まぶしい。そして、驚くくらい優しく甘い口調で、ゆっくりと、ふるえながら。千紘は、言葉を紡いだ。

「…ヒナリ、おれ、ね…。まえに、おれが、ひとの姿に、なれるようになったとき、のこと、思い出したら、言うって言ったの、おぼえて、る…?」

「…うん、おぼえてるよ」

琥珀色が、涙に揺れる。その綺麗な瞳を拭おうとしたとき、彼はもう一度あの短刀を拾い上げた。刄が闇に、妖しく光る。それを雪中に、彼は勢い良く突き刺して叫んだ。

「俺、思い出した…っ!…俺は、あのとき。あのとき、おれ…っ!」

「ヒナリちゃん!!おい千紘、お前何持って…!?」

「……っ、千紘!!ヒナリを、ヒナリを離せええ!!」


「俺は、人を殺した……!」


…夜の森のざわめきが、一瞬にして消えた。葉が風で揺れている、揺れているのに音はしない。それだけではなかった。私も、やってきた彼方や漣たちも皆が皆、息を止めた。

「俺は人を、人を殺した…俺、向こうで、シンオウで、人間に捕まりそうになって、逃げてたら、あの刀で追い詰められて、それで、俺、死ぬって、嫌だって、思った…!そしたら、気がついたら、あの刀を奪って、腹を、刺してて…その時から俺、手も足も、人間みたいになってて、だから、俺は、人の姿で、人を殺した…。俺は、人を、殺したんだよ、ヒナリ」

優しい顔で泣きながら、千紘は語る。私の頬に落とした涙を拭う暇などないくらいに、とめどなく溢れてくるものだから、私の視界はどんどん霞んでいく。それでもやはり、千紘の声だけが脳内に反芻し続ける。殺した。命を、奪った。今私に触れている、この手が。

「あのギャラドスを見て俺、あの時のこと、思い出して、ほんとに、ほんとの意味で、分かった…!誰かを傷付けるって、死なせるって、怖いことだって!死んだら、動かない、食べない、喋らない、笑わないーー何も出来ない!すごくそれが、怖い。ヒナリがそうなったら、俺、すごく怖いって思う…そんなことを、俺は、したんだって」

「ちひろ、」

「なのに俺!…あの時、人間の腹が赤くなってった時、多分、気持ちいいって思った…壊すって、楽しいって…!俺、ヒナリを壊しても、気持ちいいって思ってしまったら、俺は、」

私の肩に顔を埋めると、声を押し殺しながら泣いた。漏れる嗚咽が身体中に響く。
私はただぼんやりと、されるがままでいることしか出来なかった。彼の背中に手を回そうにも、私はどうやら力の入れ方を忘れてしまったみたいで、動かすことすらままならないのだ。

「俺、また人を壊しそうに、殺しそうになって、しかも、大好きな、ヒナリを…。それで楽しいって、思おうとした…!だから、俺、いっぱいいっぱい怒られなきゃ。だれかを、死なせた奴は、怒られなきゃいけない、消えろって、いなくなれって、言われなきゃ。…なのに、俺、何にもそういうの言われてない、から」

不意に身体が浮遊する。すっと背中と足に腕を通して、千紘が私を抱き上げたのだった。混乱状態のまま彼は足を進めると、ふと立ち止まる。目の前で唖然とする彼方の前でのことだった。

「…ヒナリ。俺、悪いことを、したの。だから、償わなきゃいけない。怒られなきゃいけない。けど、あの人間は、もう、いないから、俺は、自分で自分のこと怒らなきゃ」

「千紘、何を、」

「彼方。…ヒナリを、任せた、よ?」

…なんだか、胸の中がぞわぞわする。心臓が汗をかくほどうるさく鳴り続けている。何だろう、この心地は。私を抱き上げている腕が彼方に変わっても、胸の中は変わらず。何か、何か起こる。額に汗が滲む。
見上げた先の彼方も、何か嫌な予感を感じ取ったらしい。千紘、と名を呼ぶけれど、どこかその声は震えている。

「ヒナリ、……だいすき」

どうして、そんなことを言うんだろう。まるで一生の別れみたいじゃないか。
千紘は私を彼方に預けたことで満足したのか、ふわりと微笑んだ。綺麗な、綺麗な笑顔だった。

そして、千紘は雪の降る湖畔へと足を進める。数秒、彼は湖面に映る自分の姿と向き合っていた。だけど覚悟を決めた、とでも言うように、くるりと湖を背中に、私たちのほうへ翻る。琥珀色をした瞳が、暗闇の中で眩しい。

その光が、瞼で隠されたと思った瞬間。これ以上なく幸せそうな笑顔で、千紘はゆっくり後ろへと倒れ込んでいった。
湖の中、へ。




「千紘…?」

そう呟いたのは、一体誰だったんだろう。水飛沫と落下音がしてから、ずっと後のことのように感じた。けれどそれで正気に返る。千紘、千紘は、今。

「千紘!!」

躊躇などしなかった。彼方の腕から飛び降りて、湖に駆け寄っていく。けれどもう千紘の姿は見えなくて、それならすることは一つだけだ。何の計画もなく、何の迷いもなく、ただ咄嗟に身体が動いてしまった。千紘に、そんなことさせない。水中へ、沈んだ。

雪の夜の湖は想像以上に冷たい。肌に冷たさが突き刺さって痛い。水を吸って碇のように重くなった服に焦りが増していく。けどそれよりも、千紘。千紘のことしか、頭になかった。薄らと、目を開きながらその姿を探せば、…いた。氷の混じる中、薄黄色の髪がゆらゆらと水中で揺らめいているのが見える。けどそれは今私がいる地点よりずっとずっと奥底で。深くなるにつれ肺が押し潰されながらも、足をばたつかせて、手を伸ばす。一度、二度、宙を掴みながらも、三度目でやっと、…捕まえた!

ヒナリ。湖の底へと沈んでいく彼は一瞬目を開いたかと思うと、朧げな意識の中で小さく口を動かした千紘は、確かにそう言った。よかった、まだ、私の名前を呼んでくれる。千紘だ。ほっとして微笑むと、今度こそ背中に手を回して、なけなしの力で抱き締める。冷たくなってはいるものの、生き物がそこにいた。…よかった。あとはもう一度水の上へ行くのみだ。

もう一度凍えそうな腕の力を振り絞って、湖面を見上げた時だった。かは、と静かな水中に響く彼の声。それと同時に彼の口から浮かび上がってゆく大量の気泡。肺の中の空気を、吐き出してしまったようだった。このままでは、死ぬ。急いで水上に向かおうにも、私の考えはあまりにも浅はかすぎた。水を含んで錘となった服が、私たちを水底へと攫うのだ。まして千紘を連れてだから、私は体重の二倍以上を水上へと運ばなければならない。よく考えたら、いや、こんな朦朧とする思考の中でも分かる、不可能なのだ。まるで、幽霊に身体中を掴まれて引っ張られているような感覚に、本能的な恐怖を覚える。それでも、生きる、という確信があったのは、なぜだろう。

それからまもなくして、私にも息の続く限界点がやってきたらしい。口から喉へ、肺へ、体へ、一気に水が私のなかを浸していく。ああ、溺れるって、こういうことなのかな。こんな心地がするんだ、はじめて知ったよ、映画や小説の中でしか経験したから。思ってたよりもずっと、苦しいなあ。後で彼方に話そう、そうしたらきっと、興味津々に聞いてくれるだろう、知らないことを、また一つ知れたって…その前に、怒られるかも、だけど…。

とっくにもう、泳ぐ力なんて残されていない。光が遠のく。暗く重い世界に沈むのみ。でも、なぜだろう。根拠はないけれど、やっぱり私は助かる気がしていた。強いて根拠を挙げるならば、…私は仲間に恵まれていたこと、かなあ。

薄れていく意識の中、一瞬の閃光。そのすぐあと、青い影が見えた気がした。
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