蘇る薫のいぶせきを

そのリーフィア、もしくはイーブイは、物心ついた時には既に独りだった。

両親が彼を見捨てたのか、彼自身が両親を見捨てたのか。群れの中から出ざるを得なかったのか、彼自身が群れを出たかったのか。そういうことは今となればもう、些末なことである。とどのつまり、彼は天涯孤独の身であったということだ。親の愛も仲間との友情も、群れとしての責任感や連帯感、何も知らずに彼は育った。しかしそれらが欠如していることで彼が困ることは何一つ無かったから、ある意味彼は幸せだったとも言えよう。

進化したのはつい最近のことのようだった。迷い込んだ森――それが人間の言うハクタイの森だということを彼は知らない――その一角、引き寄せられるように彼はその岩に歩み寄っていた。苔まみれの岩は、不思議と彼を落ち着かせる。寄り添って、一眠りしようかとした時。気配がした。野生の、これは、羽がある虫ポケモンのようだ。茶色い耳をぴんと立て、微かな羽音からそのことを認識する。聴覚の次は、嗅覚。くんくんと辺りに鼻を向ければ、すぐに分かる。襲い掛かってくるのは、恐らく二匹。位置も把握した。前後に、一匹ずつ。理由は、彼らのテリトリーに立ち入ったとかそういうくだらないことだろう。彼の興味の対象ではなかった。

なんだ。彼は、拍子抜けをしていた。たかが二匹なら、破壊できる快楽なんてほんの僅かじゃないか。もっと興奮を、快感を得たい。だが文句を言っても仕方がない。今彼がこの二匹を倒さなければ、彼は命を奪われる危険があるのだから。死ぬのは、きっと、気持ち良くない。

彼は何でもなかったかのようにまた座り込んだ。そしてふわふわした尻尾を頭のあたりにまで持ってきて枕代わりにして、寛ぐふりをする。きっと自分を襲おうとしている二匹のポケモンはほくそ笑んでいるのだろう。獲物が、完全に油断をしているのだから。そして案の定、二匹は同じタイミングで彼に飛びかかった。アゲハントとドクケイルだった。

彼はそれを認識し、自分に衝突するまさにその瞬間、飛び上がってその場を退く。すると二匹は見事に互いの頭突きをくらってその場に落下した。ここまで上手くいくこともあるのかと思いながら、彼はドクケイルに向かいあくびをする。これでこのドクケイルはやがて眠りにつくだろう。折角なら、一匹ずつ破壊しようという魂胆だ。今度はアゲハントへと向き直ると、彼は微笑む。狂気に満ちた笑み。アゲハントがぞくりと背筋を震わせた瞬間、――アゲハントは意識を無くした。彼が、かみついたからだ。

それからは、呆気のないただの破壊だった。やわらかな蝶の翅を、容赦無く喰む。ポケモンらしく弾力のあるそれはなかなか壊すことが出来なかったが、ようやく、プスリと犬歯による穴が空いた。同時に、甲高いアゲハントの悲鳴が夜の森に響く。それを煩いと感じた彼は、その口吻を噛む。ストロー状のそれは彼を突き刺そうと暴れていたが、やがては折れ、力なくしな垂れた。それに満足して、今度は腹部に噛み付く。歯が、体が、疼く。得体の知れない衝動のまま、彼は一匹の虫ポケモンを壊していく。

その光景を見ていたドクケイルは恐怖した。ふと振り返った彼の口は、血で濡れていた。愛らしく、女性からの人気も高いイーブイと、鮮血。一般的に考えれば、これ以上ないミスマッチはなかなか無いだろう。しかしこの状況においては違った。茶色い毛並みと鮮血は見事なまでに調和している。彼の、破壊欲のぎらつく不気味な瞳を媒介して。そしてドクケイルは悟った。このアゲハントは、数秒後の自分の姿であると。逃げようにも、麻薬のように降りかかる眠気はドクケイルを逃がすはずもなく、あっさりと地に伏せる。

彼はその様子を冷たく見つめていた。しかししばらくすると、踵を返しまた岩にもたれ掛かった。ドクケイルも、アゲハント同様破壊欲の犠牲にしようかと一瞬は思ったが、そうしなかったのには理由がある。あまり気持ち良くなかったからだ。彼は確かに今、アゲハントに怪我を負わせた――否、破壊したというほうが近い。しかしその行為は彼の欲望を満たさなかった。むしろ、彼はどこか虚しさを感じていた。ポケモンは、驚くほどに丈夫な生き物だ。小さなポケモンが致命傷を食らっても、味方や仲間さえいればきのみか何かを調達して何とか治してしまう。今のアゲハントにしてもそうだ。ドクケイルの目が覚めれば、いや、それ以前に二匹はこの森のリーダー格らしかったから、きっとすぐに二匹を慕うポケモンたちがやってくるのだろう。それに、たかが自分の攻撃、たかが噛み付いた程度では死ぬはずも無いだろう。最初はそれでよかった、死なないことに安心すら覚えていた。だが、この頃は違う。飽きてしまったのだ。それ以上を、彼は無意識のうちに求めるようになっていたのだった。

所詮このドクケイルに噛み付いたところで死なない。さっき以上の快楽は期待できない。寧ろ、つまらない。なら、もっと気持ち良い、例えば睡眠とかをしていたほうがずっと得だ。そういう考えに至った彼は、瞳を閉じる。ああ、これこそが快感、悦楽。そして不思議なことに、この岩は何か彼を落ち着かせるものがあった。常に動き回り、気が休まることの少ない彼には珍しいことだ。安心というものを、格別に感じた。

そうして、眠りから覚めた時。さて、何だか腹が減った。そう思って身体を起こした彼は、自らの異変に気が付いた。視界が、少しだけ高くなった。首回りにあったふわふわの感触がない。尻尾も、葉のような形をしている。水源の匂いを辿り、小川の水面に映る自分の姿を見て、彼はようやく理解した。進化だ。自分は、リーフィアに進化したのだ。

しかしそれ以上に何か思うこともなく、彼の脳内を一番に占めているのは空腹感だった。何か口に入れたい。これほど鬱蒼とした森だ、きのみでも探せばいくらでも出てくるだろう。その前に何か飲み物も欲しい、目の前の水面に口付け、喉を潤していた時。ガサガサと草を掻き分ける音がしているのには、少し前から気付いていた。どうせ野生のポケモンだろう、彼はそう思って無視をしていたが、それが過ちだったのだ。おどおどと震えた声が、木の葉を小さく震わせる。

「な、なんで、こんな、ところ、に、り、リーフィア、とか、」

彼は顔を上げた。だがそこには二本の丸太棒のようなものしかなかったから、さらに見上げた。青白い肌に黒い瞳を二つ貼り付けた、自分より随分と大きな生き物がいた。

彼は首を捻った。一体、何の用だろう。人間は特に何かを自分に与えないものとして出来る限り距離を置いて生きていたから、これほど近距離になることが初めてだったのだ。ただ彼に理解できたのは、この人間は興奮状態にある、ということ。その原因は恐らく自分の存在である、ということ。小刻みに震える体やにやけた口元が表すものは、ポケモンも人間も同じなのだと、彼は悟った。

「き、貴重な、イーブイ系統、なら、捕まえて繁殖、させれば、お、お、俺は、金持ちになっ、て、そうすれば、みんな、みんな、見返すことが、出来るかも、」

逃げようか、とも彼は思った。しかし、この人間の欲望を剥き出しにした姿に、少しだけ興味が湧いてしまっていた。琥珀色の双眼は、その人間のあるがままを見ていた。

「一家の恥だな、んて言われた俺が、……はは!金持ちになって、帰って、きたら、はは、何て言うだろう。親父も、かーさんも、妹も、皆!ははは……!な、なあお前、協力してくれよ、ここで会ったのも、何かの、え、縁だろ?」

人間は屈み込んで彼と視線を合わせた。彼もそれに応え、目線を合わせた。そして、考える。この人間に着いて行けば、今のような欲求不満状態からは随分と楽になるだろう。一先ず、食物と身の安全には困らない。しかし、どう足掻いても破壊欲は満たされない。それは、嫌だ。そう思った瞬間、彼は人間に背を向け歩き出した。交渉は決裂である。

「なあ、おい、…無視、かよ」

さあ、いい加減腹が減った。きのみを探そう。早足で歩くが、彼の背後の気配は消えない。

「なあ、…無視、かよ、この、俺の、命令を!おい!」

白熱する言葉に、何か本能的によくないものを感じた彼は、さらに足を早める。しかし消えない、気配も、匂いも、草を分ける音も。五感全てがあの人間を察知し続ける。その異常な精神も。

「おい!この俺が言ってんだ、命令に従え!従わないなら、しね、殺す…殺す!殺してやる!あは、親父の部屋に飾ってあった守り刀だか護身刀だか知らねえが、とにかく持ってきて正解だったな…、これで、お前を跡形もなく切り刻んで、そこら中にばら撒いて、はは、あはは!」

彼はその時既に駆け出していた。自らの嗅覚と勘を信じ、ひたすら森の中を駆けていた。しかし、まるで獣のように人間は追い掛けてくる。彼にはその人間が人間に思えなかった。彼にとってその人間は、人間を捨てたヒトだった。ただの、生物だった。

そしてとうとう、ヒトは彼に追い付き、彼の胴体を鷲掴みにして、刃を首筋に突きつけた。血走ったヒトの眼が、彼に本能的な恐怖を抱かせる。死の恐怖。初めて味わう感情だった。死にたくない。死ぬのは、きっと、気持ち良くない。気持ち良くないのは、嫌だ。

噛みつこうにも、距離が足りない。リーフブレードをしようにも、鷲掴みにされていて動くことが出来ない。しかし、死にたくもない。鈍く光る鋭い刃が、彼の喉元にじわりと血液を滲ませる。その瞬間恍惚に浸るヒトの表情を見て、彼はこのヒトが今すぐに自分の首を切り落とすことを悟った。胴体も頭部も全て切り刻まれ、自分の形は跡形もなく消え去るのだと悟った。だが、彼は思う。

死にたく、ない!





肉が抉れる感覚。喉を掠める僅かな呻き声。引き抜けば、溢れ出る赤色。鉄臭い、匂い。蒼白かった肌色が色を失う。止まらない、赤。やがては地面の草をもが同じ色になる。

ヒトは、笑っていた。笑ったまま、その場に倒れ込み、モノになった。


今、何が、起こったのだろう。風が吹いて、彼はようやく意識を目覚めさせた。そして気が付く。自分の目線が随分と高すぎること。二足で立っていること。普段のような尻尾や耳の感覚がないこと。前足――いや、手のひらに握られているものが赤く染まった刃であること。そして、もう一度目の前に転がるモノを見た。――これが、死。こんなにも、呆気ないもの。

彼は再び走った。二つの足で、慣れない視界で走って走って、ようやく小川へ辿り着いた。そして勢いよく水の中へ両手を突っ込んだ。清い小川が鈍い赤に穢されていく様すら彼の心臓を壊れさせる。自分の手が何か得体の知れない、不気味なものに見えて、ひたすら両手をこすり合わせた。そして小川を覗き込んだ時、彼はまた激しく動揺した。赤い水面に映る己の姿。ついさっき見ていた、リーフィアの姿はそこにない。あるのは、肌色の顔に琥珀色の目を二つと、鼻と口を貼り付け、頭からは薄黄色の野暮ったい髪を生やした、ヒトだ。

手のひらをもう一度見た。五本の指。胴体を見た。奇妙な若草色の布を纏っている。足を見た。くすんだベージュの、筒のような物体。素足ではない。耳を触った。葉の形などしていない。

彼は最早、唖然とする他なかった。自分の身に一体何が起こったのか、何もかもが分からない。しかし、傍らに置いたままの赤い刃が目に入った瞬間、全てが蘇る。鮮やかに、あの一瞬が巻き戻ってくる。

あの時、あの瞬間。死にたくないと思った。それから体が急に軽くなった。時間が止まっているような感覚がして、彼は夢中であの刃を奪い取った。そして、時間が再び動き出した時。彼は、ヒトの腹部に刃を突き刺していた。

その時の自分の心地を、彼は克明に思い返すことができた。気持ち良いと、思った。肉を抉る感覚、鉄の匂い、呻き声、一瞬のうちに詰め込まれた全てを、気持ち良いと思った。

もう一度彼は手のひらの中の刃を見た。赤く染まったそれは、紛れもない自分の仕業。いきものを、殺したのだ。そのことを、気持ちいいと思った。

彼は興奮と錯乱状態に陥っていた。錯乱状態ながらも、何か途轍もないことをしたということは本能的に感じていた。死なせた。死なせた。おれは、いきものを、殺した。震えに震えた彼は、もう一度手を水に浸して洗った。そしてすぐに、手のひらの匂いを嗅ぐ。――匂いが取れない。もう一度洗っては鼻に近づけ、洗っては鼻に近づけ匂いを嗅ぐ。皮膚がぼろぼろになりかける頃に、血液の鉄臭さは取れた。しかし幾ら水に漬けようと、その匂いは取れなかった。
死の匂いは、完全に彼の体に纏わり付いてしまったのだった。

彼は笑った。あまりにも呆気なさすぎる死を目の前に、彼は笑ってしまっていた。

一頻り笑い切ると、彼は呆然と数回の太陽の浮き沈みを眺めていた。何かを食べることも、寝ることもままならなかった。やがて、彼は決意した。全てを、忘却の彼方へ。命を奪ったことそのものを、忘れてしまえ。誰も見ていなかったのだ、自分さえ忘れてしまえば何も問題はない。忘れてしまえ、忘れるべきだ。思い出していけない。思い出さないために、別のことをしよう。何か、途方もないことを考えたら良い。…そうだ。到底出来そうもないことをしよう。例えばあの山。あんな雪すら積もっているような場所、草タイプの自分が登れるはずがない。そんな無謀なことをしていれば、きっと忘れられる。命も、死も、生も、何もかもを忘れよう。

再び歩き出していた時には、また四本足になっていた。そのままいくつも太陽が昇ったり沈んだりを繰り返すうちに、森を抜け洞窟を抜け。そしてついには、彼は全てのことを忘れた。いきるもしぬも、何もわからない状態に戻っていた。

気がつけば彼がいたのは、真っ白な世界。足を踏み入れると、その地面は信じられないほど冷たい。身体を凍らせながらも何とか進んでいたが、何せ彼は草タイプだ。霰や吹雪に体力を奪われ、とうとう彼は白い地面に身体を沈める。意識がなくなる瞬間、薄らぐ視界の中に現れた一匹のポケモン。桃色の花をつけたそのポケモンが朧げに微笑んでいたのを、彼は未だによく覚えている。

そして彼は出会う。
そばにいる、それだけで安心する、救われた心地のする、愛しい少女に。
弱気でも強気でも、ただ彼女を愛する心だけは無垢で穢れない仲間に。
そんな彼女の手持ちでいることに、格別の幸せを感じている自分自身に。

そして彼は再び出会う。
命を知った、自分自身に。
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