冷えた掌で陽に触れて

そういえば、そんなこともあったなあ。ぽすん、と私の重みは布団に収まって、それは瞼にも。相も変わらず煩わしい針の音が、時を刻み、曖昧の中へと押し流す。記憶も、きっとそのせいだろう。随分と薄らぎ、遠くにあるものになって、ふわりと掴めない虚しさだけが私の胸に残されていた。

医者の話を聞いてみると、私はどうやら小児性の疾患持ちらしかった。小児性のものだから、歳を取るうちに治るとは言われたけれど、幼い間は気まぐれに発作が起こるし、それを自分ひとりでどうにかするのも無理そう。仕事がちな母にそんな私の世話は大変だろうと、私はワカバタウンに住む母方の祖母の元へ預けられることとなった。

祖母の家、もしくは母の実家は、ジョウト地方のワカバタウンという小さな町にあった。ワカバタウンは良い町だ。まだ暮らし始めて数ヶ月しか経っていないけれど、切にそう思う。住まう人々は皆穏やかで、病気で引きこもりがちな私でさえも時々出会うと気さくに話しかけてくれた。同い年くらいの子はあまりいなかったけど、ヒビキくんとコトネちゃんという年下の仲良し二人組は、少し年上のお姉さんである私を慕ってくれたらしい。よく家に遊びに来ては、ポケモンの話ばかりしていた。私の引っ込み思案も打ち解けてくると、会話もだんだんと膨らむようになり。まだポケモンを持てないのだという二人とのお喋りは、少し前の自分を見ているようで、なんだか微笑ましかった。

だけどそんな私の隣に、彼方はいなかった。
ポケモンの毛が発作を引き起こす可能性があるから、側にはいられない。医者の言葉を、すぐには理解できなかった。何か反論をしようとか、食い下がろうとか、そんな考えすらも浮かばない。あまりにも衝撃が大きすぎたのだ。逃がすわけにもいかず、彼方はおばあちゃんが世話をするということでなんとか収まったけど、私が会えないことには変わりない。

寂しいとか、それだけの問題じゃなかった。まるで未来が見えないのだ。行く先を照らすひかりを失くしてしまった私は、もうどこへも進めない。もう少し年を重ねれば治るとお医者さんは言ったけど、そんなの待てるわけがなかった。今すぐに会いたい。今会わなくちゃ意味がない。どこまでも眩しい笑顔と、おっちょこちょいな仕草と、溌剌とした声と、抱き締めたときのぬくもり。それら全てにもう一度会いたい。最初こそそんな風に願っていたからか、胸が熱くなって涙を落とす一方だったけど、最近はそうでもない。会いたいのには変わりないけれど、どこか、つめたいのだ。突き刺すようなものではない、喩えるなら、真綿の雪にやさしく包まれるような。かなしみさえ、どこかに埋もれてしまって忘れられる。忘れることは、楽なこと。そう思う自分自身を悲しく思った。

仰向けに窓辺を見れば、雪の白が光を反射してちらちらと舞っている。本物のつめたさには触れたことがないくせに、こうして私は想像ばかり憶えていく。投げやりな気分がため息になろうとしたとき、こんこん、とノックの音。おばあちゃんだ。

「ヒナリ、ちょっといいかい。…今日の新聞。これを、見てごらん」

音を忍ばせるように入ってきたおばあちゃんの表情がいつになく憂いを帯びていて、少し気持ちが強張る。上体を起こしてその新聞を受け取ると、まず目に入ったのは大きな見出し。それから、見慣れた町のグロテスクな様子だった。

――グレン火山大噴火、町は壊滅。
山が燃えていた。いつもあたたかく、のどかさの象徴だった山が、燃えていた。目を刺すような光焔と煙を噴き出し、おどろおどろしい液体を触手のように這わせていた。町を喰い、全てを自らの領域に変えていた。

震えも何も起きない。圧倒的な熱量の伝わる紙だけど、どうしてなんだろう。ただひとつ、あの町はもうないのだという事実だけが、理解できる全てだった。バトルをした公園も、彼方とふたりきりで過ごした岩陰も、母親と住んだアパートも。もう、この世界のどこにもないのだ。

おばあちゃんは気を遣ってくれたのか、静かに部屋を出て扉を閉めてくれた。その音を確かめてから、もう一度布団に倒れこもうとすると、今度は別の声が扉の向こうから聞こえた。大好きな、彼方の声だ。その瞬間に、何かがひとつ、綻んだ。

「ヒナリ」

「かな、た」

「ヒナリ、ヒナリ」

扉に背を預けると、膝を抱えてずるずると座り込む。少しでもあの温度を感じられるような気がしたから。彼方はただ、私のことを呼んでいた。他に何も言わず、あやすように、悲しみを分かち合うように。その声に、こころの糸が一本一本解かれていくような心地がした。むき出しになったそれはあまりにも脆すぎて、今まで何でもなかったことにさえも激しい痛みを覚える。冷たさが私を刺す。いたい。泣きたい。泣いていた。

「かな…た、かなた…わたし、もうどこへも行けない、帰るところもないよ…」

「ヒナリ、」

「…ここに、ずっといるしかないのかなあ、何もできないで。…彼方、あのね。もう、私を待ってなくていいよ。彼方だって、自由にいろんなところに行きたいの、私知ってるよ。だから」

「違うよ、ヒナリ」

涙が止まった。はっ、と顔を上げてしまった。目の前には誰もいないけれど。それでも、彼方の声が聞いたことのない声色だったから。声の調子が落ちただけで、ほんとうのことだよ、と語りかけてくるみたい。男の子の声。

「ヒナリ、僕の幸せは、いろんなところに行くのも、自由気ままでいるのもそうだけど、…そんなの、ヒナリの隣じゃなきゃ、意味がないんだよ。だから僕はずっとヒナリを待つ。僕が死んじゃうまで、待つ」

「彼方、」

「…だから、そんなこと言わないで」

その声はあまりにも優しすぎて、穏やかすぎて。じわりと滲む温度が目元に伝わり、再び涙となって現れる。彼方、彼方。会いたい。会いたいよ。ひくひくと嗚咽を漏らしながら、袖で拭いきれない涙をスカートの上に落とす。その気配が扉越しにも伝わったのだろう、彼方はかなしそうに、私に囁いた。

「ヒナリ…、今すぐに抱きしめたいけど、もうちょっと我慢しよう。僕も、ヒナリも。一緒にいられるようになったら、ずーっと一緒にいようね。何があっても、一緒にいようね」

「うん…、絶対、一緒にいよう」

「だからそのために、僕も僕に出来ることをするよ」

彼方もやっぱり苦しそうに、でも凛と決意に満ちた声色で、そう言った。

「いつか、ヒナリと一緒のときに困らないように、僕も準備するんだ」

その言葉の本当の意味を私はよく分かっていなかったけれど、彼方が私を大切に思ってくれているということは確かだった。そしてそのことに、密かな依存を抱く私がいることも確かだった。
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