冷えた掌で陽に触れて

彼方がいない。
彼方がいなくなるのはいつものことだ。遅めの時間に起きると、それからのんびりワカバの中をお散歩。夕方くらいになるとご飯を食べに帰ってくる…、らしい。そして夜になると私に優しい声を聞かせてくれる。だけどここ数日、私は彼方の声を聞いていないのだ。彼方がいないと、声だけでも聞いていないと、私はどこまでも弱くなる。怖さに震えて、暗さに震えて、寒さに震えて。私はどこへも行けなくなる。何をする気も起こらなくて、毛布にうずくまる日々が続いた。
さすがに見兼ねたおばあちゃんが私の様子を見に来たときも、顔を上げる気は起こらなかった。けれど今しかない、と、思い切ってそのまま、尋ねてしまった。

「ねえおばあちゃん、彼方は…どこへ行ったの?」

「うーん、まだ帰ってきてないねえ。行き先はおばあちゃんも知らないよ」

「そっか、……」

なんでもなさそうなおばあちゃんの口調に、少しだけもやっとした何かが胸に溜まった。そりゃあ、おばあちゃんにとったらただのマグマラシかもしれないけれど、私にとったら唯一無二の彼方だ。彼方以外のポケモンが相棒になるなんて、今では考えられないほど。おばあちゃんは何もそこまで言っていないと分かってる、けれど痛みは妄想すらも巻き込んで膨れ上がっていく。じわりと視界が滲んだ気がした。彼方、彼方、一体どこへ行っちゃったの。

もしかして、やっぱりどこか別のところへ行ってたりして。狭い世界に辟易して、ずっと閉じ込められたままの私に飽きて。私と同じように、彼方も遠い世界に憧れる気持ちを強く持っていることはよく知っているつもりだ。同じように地図を見て、想像をしてきたのだから。

だけど、彼方を疑うのもそれはそれで気分が良くない。あんなにもヒナリ、ヒナリと言って、一緒に旅しようねと言ってくれた彼方の信頼はひしひしと感じているから。彼方は無邪気だ。彼方の言葉に嘘はない。だけど、こうも長く一緒にいられないのが続くと、不安はどうしても蓄積していく。

「…ねえ、彼方は私を嫌いになったのかな」

「そうだね、ヒナリ、逆に考えてごらん。あの子にそんなこと出来ると思う?」

「…思わない、けど」

「なら大丈夫、帰ってくるよ。あの子の一番大切なのはヒナリだよ。分かってるんでしょう?」

分かってる、分かってるけれど。おばあちゃんは私の布団をそっと掛け直してくれた。老人特有の穏やかな微笑が、少し私の心を宥めたけれど、でも、でもが止まらない。腑に落ちるような落ちないような、その微妙な感じが不安となって蔓延する。

何を考えたって、もうどうでもいいや。別のこと…例えば本でも読んでいたら、考えずに済むだろう。本の海の中から目に付いた、分厚い長編小説を手に取り、ベッドに寝転がった。不意に射し込んできた黄昏の霞んだ太陽が手元を照らす。そうしていたら、なぜか本の文字が滲んで見えた。あーあ、と本を閉じて仰向けになると、一体どこからそんなに、というほど涙が溢れてくる。何も考えていないはずなのに、涙が溢れてくる。

「…彼方」

無になった私の口から零れたのは、愛しいあの子の名前。
不意に肺へ奇妙な痛みが襲ってきて、ああまたか、と憂鬱になる。軽いものには慣れているけれど、辛いものは辛い。咳き込んで、空気を必死に求めて、気がつけば涙は生理的なものに変わっていた。それでもなんとか吸引器の元へ辿り着き、夢中で加えて、再び布団へ倒れ込む。私の無力感とは対照的に、薄れてゆく太陽は煌々と輝いていて、何物か分からない一粒の涙はその光に焦がれていった。


数日後、彼方は帰ってきた。姿は見えないけれど、話によれば随分とぼろぼろな姿だったらしい。心配したおばあちゃんが、ウツギ博士という町の偉い博士の元へ連れていってくれたらしいけれど、特に異常はないようだ。
扉越しに、彼方がいる。何も言わないままの私に、彼方がまず口にしたのは謝罪の言葉だった。

「ごめんね、ごめんねヒナリ」

「……。うん」

「心配かけちゃった…よね?」

「……」

「ヒナリ…?」

返事のない私、探るように不安げな彼方の声。彼方が帰ってきたら何を言おうとか、少し考えていた台本たちは、いざ彼方の声を聞いてしまうと全て吹き飛んでしまった。私がずっと感じ続けていた感傷や無力感も、彼方の声が全部、全部、吹き飛ばしてしまった。
結局、私も一番大切なのは彼方なのだ。

「あのね、彼方、ごめんね、それと、大好き」
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