冷えた掌で陽に触れて

見慣れた診察室、見慣れた薬たち、見慣れた先生、見慣れた看護師さん。だから普段はそんなに緊張しないけれど、今日だけは違った。スカートを皺になりそうなほどに握りしめ、ただひたすら心臓のうるささを感じる。隣に座るおばあちゃんだけが、いつも通りの温和な微笑みを浮かべていた。
先生がくるりと椅子を回し、私の目をじっと見つめる。でも私がついビクンと肩が跳ね上がらせるのを見てか、先生はその真顔を不意に緩めた。

「長い間、よく頑張ったね。…もう、完治したと判断しても良いでしょう」

「……」

「本当によく耐えたね、ヒナリちゃん」

「…ほんと、ですか」

初めて会ったときよりも随分と皺の増えた先生は、そう言ってくしゃりと笑った。
未だにリアリティのない宣言で、病院を出てもふらふらと歩きながら呆然としていた。これからは何をしても、どこへ行っても、体調上の問題はない。言ってみれば、私は一種の自由を手にしたのだ。それを考えた途端、長い年月の間私を縛り付けていたものが一気にほどけて壊れていくのを感じた。今までいくら願っても叶わなかった自由が、今、私の中に存在している。

自由を手に入れて、私が何よりもしたいと思っていたこと。それを真っ先に叶えようと、私は家へと駆け出した。運動不足なせいか、進みは遅いし肺も痛いけれど、それも気にならないほどの積み重なった想いが私にはあった。扉を開いて、叫ぶ。

「彼方!」

『え…、ヒナリ!』

振り向いた横顔の赤い瞳が大きく見開かれる。そのままジャンプして私の胸に飛び込んできた彼方を、力一杯に抱き締めた。幾年にも渡って積み重なった想いがそのまま彼方に降りかかる。少し大きくなった身体からは、あたたかな温度が伝わってきた。一体どれだけこのときを夢に見たのだろう。どれだけ会いたくて、触れたくて、抱き締めたかったことだろう。扉越しにずっと恋い焦がれていたぬくもりが今、この腕の中にある。もう二度と離さないし、離せない。彼方も同じ気持ちなのだろうか、力任せに私を押すから、後ろに尻餅をついてしまった。それは初めてグレンの海で出会ったときのように。首横で抱き締めて、その身体に頬ずりをする。蕩けてしまいそうな幸せに浸りながら、一匹と一人は夢からうつつへ旅立とうとしていた。

『ヒナリ、これからずっと、一緒にいよう』

「うん、ずっと、ずっとだよ、もう離れたりなんて絶対にしない…!」

『うん、もっともっとヒナリに近付いて、ぎゅうってして、…何もかも自由で、ヒナリに触れて、話して』

言葉が途切れた瞬間、腕の中のぬくもりがふと、消える。そんな、と不安になる暇もなく、それはすぐに戻ってくる。驚きのあまり目を瞑っていたのをなんとか開いていくと、そこには私の知る彼方の姿はいなかった。そのかわりにあったのは、黒髪、…髪? 薄っすらと開きかけだった目は、パチパチまばたきをしてすっかりお目覚め。だって、私の腕の中にいたのは彼方だ、マグマラシだ。そういえばちょうど目の前の髪色と同じような色の毛を持っていたけれど、こんなつむじがある人間の髪、ではない。でも、じゃあどうやって、いつ。つい腕を放すと、目の前の彼がゆっくりと身体を起こした。

「いてて…ごめんねヒナリ、重かったよね…、あ」

起き上がって、へにゃりと瞳を緩める。その色は煌々とした赤。パーカーを着た、少年とも青年ともとれる男の子が、私の上に乗っかっていた。何が起きたのかさっぱり分からなくて戸惑うばかりの私だったけれど、彼の発した声に私はふわりと身体を包まれる。ずっと私の名前を呼んでくれた、優しい声。私を無邪気に励まし続けてくれた、大好きな声。

「かなた…?」

「あ、…え、ええと!えっと、これは」

手をパタパタさせたり視線があっちこっちに泳いだり。動揺が丸わかりの彼は、ひとしきり慌て切ったのか私から降りると、ちょこんと正座して斜め下に視線を向けている。私もおずおずと上体を起こすと、そんな彼をじいっと見つめた。…やっぱり、特徴のひとつひとつがまるで彼方だ。瞳の赤、髪の黒、パーカーのオレンジは炎を表しているんだろうか。太腿あたりまでのロングパーカーなのは、マグマラシの長い胴体を表すため、とか。だけど一番早い方法が私と彼方にはあった。
膝の上に整えられた手に、そっと触れる。はっと彼が顔を上げた。冷えた掌にじわりと染みこんでゆく、君の温度。

「…彼方」

「う、」

「彼方、でしょ?」

彼は――彼方は、微笑む私にこくりと頷いた。



*****

「なんか、自然と出来るようになっちゃった、…ていうか」

指先をツンツンさせていじけた子供みたいな彼方だけど、その容姿は本当に少年というか、青年というか、その境目というのが一番良いのかもしれない。彼方って私と同じくらいの男の子だったのだと、改めて実感する。だって、マグマラシの姿のときはひたすら小さくて愛らしい私の『ポケモン』だったから。上手く反応の取りきれていない私に不安になったのか、彼方は少ししゅんと肩を落として俯いた。

「やっぱり僕、どこかおかしいのかな。そうでないと、こんなの…」

しぼんでゆく声のボリュームと一緒に身体まで小さくなっていきそうな彼方に、私は上手な言葉を掛けることができないでいた。ど、どうしよう。思い出してみれば彼方が私を励ましてくれるのがいつもだったから、彼方が凹んでしまったなんてあまりなかった。いつも彼方は私にどんな風に言葉をくれただろう。優しいあの声を真似するみたいに、私はそっと彼の名前を呼んだ。

「彼方、だいじょうぶ、だよ」

「…ヒナリ?」

「おかしいのは、私も一緒だもの。ふたりでおかしいんだね、お揃いだよ?だから、だいじょうぶ」

少し勢いに任せて言ってしまったところもあるけど、でもちゃんと心のうちからの真実だ。おかしいふたりで旅をしてしまえば、どちらか一方だけがおかしいよりもきっと分かり合える。それに、彼方が彼方であることに変わりはないのだ。優しくて大好きな、私の相棒。意外にも私が目の前の不思議な出来事をたやすく受け入れられたのは、きっと彼方が変わらぬ彼方だからだ。その証拠は今この瞬間にも。大きく開かれた瞳と、わなわなと震える唇に。

「ヒナリ」

突然、身体の全部があたたかな熱に満たされる。彼方が私を抱き締めたのだ。やはりポケモンだからだろうか、腕の力がとても強くて私は身動きすらできないほど。目の前にある男の子の肩や、耳元を掠める髪や、そういった彼方の『男の子』たちが私の熱をぐんと上げる。何か言葉にすることもできず、私は彼方の吐息を直に感じていた。

「ヒナリ、だいすきだよ、ずっとこうしたかったんだよ」

「…か、なた」

「僕、最初にこうなったとき、不安でいっぱいだったけど、ちょこっとだけ嬉しかったんだ。だって僕がヒナリを抱き締められるもん。だから、今までしてもらった分、これから僕がいっぱいぎゅってするね。…嫌かなあ?」

上手く反応ができず、ただ頬の熱を上げる一方の私を心配してか、彼方は少し力を緩めて俯く私を覗き込む。その近寄せた顔も私が余計にどきどきする一因だというのに、どうやら彼方は気付いていないらしい。いいよ、と目を逸らしながら小声で言うと、わあっと花が咲いたみたいに笑う。こういう素直なところはマグマラシのときと同じなんだけどなあ。

そう、マグマラシのときと、同じだ。ちょっと恥ずかしさは残るけど、彼方は彼方だ。思い切ってふやけた笑顔の彼方の頬を両手で挟む。引き寄せて額と額を合わせると、赤い頬のまま微笑んで宣言をした。

「彼方、旅に出よう」

何よりも待ち望んだ旅。いろんなものを見よう、いろんなものを感じよう、いろんなものを知ろう。彼方はしばらくぽかんとしていたけど、その言葉をようやく噛み砕いたらしい。だんだんその表情が輝き出して、最終的には眩しい笑顔になっていた。

「ヒナリ、やっと、広い世界に、」

「うん。遥か彼方へ、旅しよう」
ALICE+