背中を煽るはるかぜ
29番道路。多くの初心者トレーナーがワカバのウツギ研究所でパートナーとなるポケモンを貰い、この道路へとやってくる。生息するポケモンのレベルも低く、まさに初心者のための道路だ。でも、どうも私は普通の初心者にはなれないでいた。彼方に呼ばれて連れて行かれた、人も滅多に来なさそうな木陰。そこで彼方がひと鳴きすると、草むらの中、枝の影、はたまた土の中からも一斉に茶色い耳が現れる。
『僕だよ、彼方だよ!』
その声がちいさな森に響いた途端、一匹また一匹と姿を現したのは、お腹のまあるい模様としましま尻尾が特徴的な、みはりポケモン、オタチだった。それも、こんなにもたくさん。座り込んでいた私の周りはいつのまにかオタチの群れでいっぱい、茶色い野原になっていた。
『かなたくん!この子が?』
『うん!ヒナリだよ、僕のだいすきなトレーナー!可愛いでしょ!』
『わああ!はじめましてヒナリさん!かなたくんね、いっつもここでわたしたちと遊んでくれるんだよ!』
「は、はじめまして…オタチ、ちゃん?」
尻尾を使ってぴょんぴょん飛び跳ねていたオタチの女の子は、不意に私の腕の中にぴょんと飛び込んできた。ニコッと眩しい笑顔を向けられて、私もつい微笑んでしまう。その一匹のおかげで安全だと見なされたのか、私を囲んでいたオタチたちもぱあっと一気に笑顔が咲き誇らせた。そこからは、ものすごい勢いで声があちらこちらから聞こえてくる。
『にんげんだー!すげー、にんげんだー!』
『あのね聞いて、かなたくん優しいんだよ!おままごともヒーローごっこもしてくれるんだよ!』
『ねえねえ、ほんとにぼくらの声が分かるの!』
『かなたな、いっつもきみの話ばっかしてるぜ!』
「え、ええと…」
一気にいろんな声が押し寄せるものだから、私も何も答えられなくて。あわあわと焦りながらも彼方にちらりと助けての視線を送ると、彼方も彼方で詰め寄られてるみたいだ。かなたくん旅に行っちゃうのー?とか、おれも一緒に行く!とか、そんな声ばかり聞こえてくるから、どうやら慕われているらしい。困った笑顔でも一匹ずつ応じていく彼方を見習おうと、私もあのね…と少しずつ応えようとした時だった。高くて可愛らしい子供の声ばかりの中に、それらより少し低い男の子の大きな声が辺りを震わせた。
『こらー!お前ら、なんで人間に近寄ってるんだ!』
『わあ、オオタチくん!久しぶり!』
『ああ?…って、彼方か。ということは、その子がもしかして』
彼が声を上げた瞬間、オタチたちはにいちゃんだー!と言ってあっという間に逃げ去ってしまった。それでも時々ちらちらと茶色い耳が見えるから、きっと影から様子を覗いているんだろうけど。木陰に残された私と彼方と、しましまの細長い身体を持つオオタチ。ぱちりと目が合ってしまって、なんとなくお互い頭を下げる。一人と一匹の間には、微妙に踏み込めない一歩。どうしよう、もう少し近寄ってもいいのかな、それともやっぱり野生のポケモンだし…、そうやってどぎまぎしていると、その間に入ってきたのは彼方だった。二本足で立って、左右をきょろきょろ、どうしてそんな気まずそうなの?そう言いたげだ。そして彼方がにかっと明るく微笑めば、どこか張り詰めていた空気がほどけてしまうから、彼方はやっぱり不思議だ。
*****
『彼方は時々ここに来て、俺の弟たちの世話をしてくれてたんだ。ほんとにチビたちに紛れ込んで転げ回ってた』
『えへへ、童心を忘れない、みたいな感じ?』
『お前の場合童心しかないだろうが』
座り込む私の隣でじゃれあうマグマラシとオオタチ…というか、彼方が一方的に擦り寄ってるだけのような気もする。愛らしい光景につい頬を緩めるけれど、彼の話の内容はけっこう意外だった。どちらかというと、彼方は私がご飯をあげたり毛づくろいをしたりと、お世話をするイメージが強かったから。思えば私の記憶の彼方は大方ヒノアラシの頃だったから、確かにマグマラシである今の彼方では相応かもしれない。彼方が、お兄ちゃんかあ。でもやっぱりちょこっと面白い。
『君のこともよく話してたよ。というか、彼方が話すことなんて大体旅に出たいとヒナリに会いたいのどっちかなくらい』
「え、私のこと?」
『そうそう、ヒナリに会いたいよー、ぎゅってしてほしいよーって、バカップルかっつーの』
こんなせっかく他のポケモン、しかも野生の子と遊べるような機会なのに、私の話なんて。しかも内容が内容だから、何だか照れてしまう。ちらりと彼方を覗き見すると見事に目線があってしまって、えへへとやっぱり照れたように笑っていた。それならもうおいで?と両手を広げてみると、一気に瞳を輝かせて腕の中に飛び込んでくる。隣のオオタチくんからため息が聞こえたから、オオタチくんも来る?と声を掛けると断られちゃって、ちょっと残念だ。
『というか、その君がここにいるってことは、もしかして』
「うん。…彼方と旅に出たばかり、ついさっき。これからヨシノへ向かうところなの」
『…良かったな。念願の夢が叶ったのか』
ずっと仲の良い友達みたいだったからか、ちょっと寂しそうに、でも嬉しそうに彼は祝福してくれた。誰かに言われると、ああ本当に旅立つのだと思ってなんだか心が引き締まる。同時にこんな優しい誰かの元を離れると思うと、少し怖くもなるけれど。彼方を抱き締める腕の力がきゅっと強張る。そんな私の変化に気がついたのか、彼方も私を小さく見上げると、表情だけでうれしいね、と言っているようだった。そんな幸せを噛み締めていたから余計に、その声たちに驚いた。
『えー!かなた、ほんとに旅に出ちゃうのかよー!?』
『おいこら、お前らは寄ってきちゃだめだって…!喧しくなるから!』
『やだやだ!ずっとここにいてかなたくん!もう遊べないなんてやーだー!』
ずっと様子を覗いていたらしいさっきのオタチたちがまた一斉に現れて、彼方と私に詰め寄る。しかもその黒い瞳にみんながみんな、きれいな涙を浮かべて。お兄ちゃんであるオオタチくんの言うことも聞かないのは、それ以上の想いがあるからだろう。とにかく私はびっくりしてしまっていた。彼方がこれほどにも慕われて、求められているなんて。確かに彼方は優しくて無邪気で、私がどれほど落ち込んでいても希望の光をくれた。それはきっと、他の人やポケモンにとってもそうなのだ。彼方がいるだけで少し空気が明るくなる。慕われて当たり前。私はずっと閉じこもっていたから、私だけの彼方なんて思い上がっていたのだろう。そう思うと、ちくりと胸が痛んだ。なんだか私、嫌な子みたい。
だけど彼方は、そんな嫌な子にさえも希望をくれるのだ。そっと私の膝を降りると、前にいたオタチの男の子の涙をぺろりと舐めた。
『ごめんね、…僕はもう、旅に出なくちゃ。僕も寂しいなあ』
『ならいいじゃん、ずっとここにいようよ!』
『…ううん。僕は、ヒナリについていく。僕はね、ヒナリと約束したんだ。ヒナリと一緒に、いろんなものを探してどこまでも行くって。それはヒナリだけの願いじゃない、僕の願いでもあるんだよ』
優しく優しく、おにいちゃんらしく語りかける彼方に、これだけのオタチが皆何も言えなくなってしまった。そうなると、私も一緒に口を噤んでしまって。微かな葉音ばかりが遠くからやってきて、私の耳元を擽る。このちいさな森のはしっこを統べるのは彼方。だけどそこに、怯えたようなひとつの声が不意に現れる。
『かなたは、…ぼくたちと遊ぶより、その子が大事ってこと…?』
ぐっ、と胸が痛くなった。本当のことを言えば、私のほうが大事だよと言ってほしい。けれどそれを思ったら、いや、そう心に浮かんでしまった以上、私はとうに嫌な子だ。彼方が優しいのも知ってる、彼方がこのオタチたちを大切に思っていて、同じくらいに大切に思われてるのも知ってる。だからこそ、彼方の答えを聞くのが私は怖いのだ。握りしめたスカートの裾が皺くちゃなのを見つめながら、私はただただこの時間を永遠のように感じていた。
『…どっちも大事。だからもう一回遊ぼう!鬼ごっこはどうかな?』
『でも、かなたは今から…』
『みんなが鬼で、僕を捕まえたら勝ち。広さはこのジョウトいっぱいで!どんな手を使ってもいいよ、チームを作っても、優しいトレーナーを見つけて連れていってもらっても良し!僕を見つけて、僕に触れたら勝ちだよ。でもオオタチくんの言うことを聞くのと、あんまり危ないことはしないのがふたつだけ約束事!それを明日の朝からで、だめかな?』
にこ、と朗らかに彼方が笑えば、オタチたちは皆ぐっと唇を噛み締めて、瞳を潤わせる。そして一気に彼方に飛びついた。どんどん重なってくるものだから、彼方の姿はだんだん見えなくなってるし、なんだか取り押さえられてるみたいだ。『ぜったい捕まえてやるからなあ!』『わたしも強くなってかなたくんを見つける!』そんな泣き声と鳴き声とが入り混じる茶色いかたまりと化した彼方に、私はいつのまにか微笑みが浮かんでいた。…彼方らしいなあ。
不意に隣に気配を感じて見てみると、そこにはあのオオタチくん。彼はちょこんと座り込むと、ふうとため息をついた。その目線の先には、すっかり埋もれてしまった彼方がいる。
『上手いことやりすごしたな、あいつ』
「…どういうこと?」
『どういうも何もないさ。子供騙しのことでなんとかあいつらを巻くとか。あ、別に貶してるんじゃなくて、これ褒めてるんだ。それにしても珍しく年上らしいことしたな…』
彼方をもう一度、見つめ直す。ちらちらと茶色い影に紛れながらも見えるあの笑顔は、本当にオオタチくんが言うようなものを考えてる笑顔だろうか。気がついたら、私はぽつりと呟いていた。
「…きっと、彼方は巻くとか騙すとか、そういうことじゃないと思うな」
『…ん?』
「彼方がそんな器用なこと考えつけるなんて思わないもの。ほんとに、本気で、オタチくんたちと鬼ごっこしたいって思ったんだと思う。そうでないと、あんな風には笑えないよ」
苦しいよ、と言いながらも一匹一匹ずつをちゃんと撫でている彼方に、一人と一匹が視線を送る。そして顔を見合わせると、互いにふふ、と笑った。本当に、彼方は不思議な子。
『ヒナリ!ヒナリも僕と一緒だから鬼だよ!オオタチくんも来て!ほらほら!』
彼方の呼ぶ声のおかげで、私やオオタチくんも輪の中へ入り込むことになっちゃって。ねーちゃんもぜったい捕まえてみせるからな!なんて言われるとちょっとやる気も出てくるものだ。そんな時間があまりにも穏やかで、居心地が良すぎたものだから、私はきっと彼のことに気付けなかったのだろう。握りしめたスカートの皺は、立ち上がってもきれいに伸びきってはいなかった。
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