背中を煽るはるかぜ

ポケモンセンターの見知らぬ部屋で眠るのは少し怖かったけど、隣に彼方が――勿論マグマラシの姿で――いてくれたおかげか、すんなりと眠りにつくことができた。彼方の暖かさはちょうど私を落ち着かせてくれるし、頬ずりをするとその毛並みは何とも柔らかい。抱き枕にぴったりだ。彼方も気持ちが良さそうだったし、そのまま眠ってしまうところまでは、よかった。問題は朝だ。ポッポやオニスズメの鳴き声を目覚まし代わりに、ぼんやりと視界に光が差し込んでくる。ピントの合わない光景もだんだんと目の前にある黒髪の輪郭を捉えていって、…髪?それで急に目が覚めた。黒髪の数束を頬に垂らして、やわらかな朝の陽射しを浴びた彼方。それが本当に目の、前にいるのだ。多分寝ている間にひとの姿になってしまったのだろう。こっそり抜け出せたから良かったものの、全く心臓に悪い。後になってそう文句を言うと、

「…ああ、多分ヒナリの寝顔見て可愛いなーって思いながら寝てっちゃったからかな…。ごめんね、嫌だった…?」

「……、マグマラシの姿でなら、嫌じゃない…よ」

「ほんと!じゃあまた一緒に寝られるね、やった!」

…彼方のばか、と内心思ったのは秘密だ。

そんな朝を迎えたあと、ようやくヨシノシティを探索だ。ヨシノシティは、小さな花の匂いと潮風が香る町。民家はピンクの屋根で統一され、カントリーな雰囲気の街だ。街の南東は穏やかな海で、潮の香りにはやはり懐かしさを覚えてしまう。…今頃どうなっているかなあ、なんて少し思ったけれど、ふと目に入った足元の彼方のきらきらとした視線が早く行こうと語っていたから、一気にこの場所へと意識が戻ってくる。

「彼方、そろそろ出発しようか」

『おー!』

「あの、」

返事をした彼方の声を、聞き慣れない誰かの声が遮った。暗く、低い調子の声。明るくてわくわくを抑えきれていない彼方の声とは対照的だ。その主はちょうど私の背後にいた。声がぶつけられた背中にぞわりと悪寒が走る。

「あの、…すみません」

振り返ると、拍子抜けをしてしまった。至って普通の、旅のトレーナーのようだ。背中に大きな木製の箱を背負っていることだけがよく分からないけれど、それ以外は特徴を述べることも大して思い当たらないような青年。あと述べるとするならば、その目がやけに血走っていたことくらいか。

「…なんですか?」

「あの…、君は、ポケモンの言葉が分かるのか?」

振り返って答えて、振り返らなければ良かったと思った。こころが、凍る。どうして、なぜ、この人は知っているのだろう。いや、それよりも今は逃げなくちゃ。だけど淀んだ黒のまなこが私を捉え、それを許さない。怖い人だと、今ではその目を見ただけでも分かる。背の高いその青年は私をじろりと見下ろし、怯える私の隅々まで視線を巡らせていた。その眼球の動きが何とも気味悪くて、でも逃げることもできなくて。せめてもと出した声は、掠れたか細いものだけが喉を通った。

「ちが、います…」

「……」

無言のまま、彼が一歩、私のほうに踏み出すから、私も一歩下がる。また一歩踏み出して、一歩下がって、気がつけば人気の無い建物の裏側に追い詰められていた。ついには背後に壁の気配を感じて、ああほんとうに逃げ場はないのだと思い知る。彼方は、彼方はどこ。けれどいつのまにか見失っていたらしい、慌てて足元を探しても彼方の姿はない。そのことでもっと怖くなって、ふとした瞬間に足に力が入らなくなる。ぺしゃんと座り込んでしまった私をも、その人はただ棒立ちのまま、影を降らすのみ。

「ちがう…ちがいます、」

「俺は確かに見たんだ、昨日オオタチやオタチと言葉を交わす様子を。鳴き声や様子から判断しようにも、あんな詳細な内容までは普通分からない。…その時、ごく稀にそういう体質の人間がいると、書物で読んだことを思い出した。だから俺は、君はポケモンの言葉を理解し、また会話を成立させられると思った。違うか?」

冷たくなった手のひらで自分の腕を抱き、がたがたと激しく震えているのが自分でも分かった。こんなに怯えた様子じゃ、違いませんその通りですと言っているのも同然なのに。ああ、多分これから人もたくさん集まってきて、奇異の視線を浴びせられるのだろう。そして母が連れ戻しに来る。怒られる。そこまで予測をつけたところで、もう私は考えるのを放棄した。代わりに、指先から伝わる寒気を感じていた。

彼は不意に座り込んだ。目を逸らしたままの私の顎を掴んで、あの黒の眼で捕える。そしてゆっくりと開いた口が言葉を、

『ヒナリから離れろ!』

紡ぐことは、なかった。暖かなオレンジの炎が目の前を駆け、青年の足元にたいあたりをする。よろめいた青年は横向きに地面に倒れ、背中の箱がガタンと音を立てた。彼方はそれからすぐさま私の元へと駆け寄ると、胸の中に飛び込んでくる。縋るように抱き締めると、その温度が滲んで、氷もやがては溶けていく。身体中が温かくなっていく。

『ヒナリ、だいじょうぶ。僕がいるよ、だから安心してね』

「うん…だいじょうぶ彼方、助けてくれてありがとう」

「やはり、会話が出来るんだな」

のろりと立ち上がった青年は、私と彼方を無感情に睨みつける。びくりと肩を震わせてしまったけど、彼方がいると思うと少しだけ強くなれた。スカートの裾を伸ばして立ち上がると、恐々としながらも私も下から彼を睨みつける。足元の彼方も私に同調して、炎の勢いを一気に増して応戦体制を見せつけていた。

「…それに成程、勝負をしようと言うのか、いいだろう。その代わり、俺が勝ったら俺の言うことを一つ聞いてほしい」

「そんなの、」

「願いは一つ、その力を俺に貸してほしい。俺の旅について来てほしい」

私が反論しようとしたのも無視して、青年は淀みなく話し続ける。さっきの距離感の無さといい、彼はなんだか人とのやり取りが不器用というか、慣れていないような感じがした。こんな怖い人の旅についていくなんて、嫌だ。私は私の旅をしたい。彼方とも目が合うと、同じ意思のようだ。ぐっと手を握りしめ、対峙する。

彼は私たちを一瞥するとポケットの中からモンスターボールを取り出し、それを地に放った。しかしその数はふたつ。現れたポケモンも、デルビルとパウワウの二匹。そんな、ダブルバトルだなんて。こっちは一匹しか持ってないのに、最初から不利じゃないか。卑怯だ、と呟いた声を拾い上げたのだろう、彼はぴくりと肩を震わせた。だけどどこか狂ったような、虚の瞳で睨みつけられると、私も彼方もつい押し黙ってしまう。

「卑怯…?俺はどうしても君の力が欲しい。その為なら何だってする。それだけ君の力は重要なんだ」

少し、戸惑った。自分の力を求められることなんて初めてで、僅かに嬉しいと思う自分がどこかにいたから。だけどすぐにそれを後悔する。なんで、こんな人なんかに私の旅を邪魔されなければならないんだ。2対1でも何でも、やってやるしかない。

『だいじょうぶだよヒナリ、ヒナリがこんな変な奴についていくなんて嫌だもん。絶対倒そう!』

「…うん。お願い、彼方。倒そう」

「そういえば名乗り忘れていた。俺の名前はキリノ。…よろしく」

青年――キリノさんは、固まりきった表情筋でぎこちなく微笑んだ。
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