想いの箱の鍵探し
あの時は忘れられない。急にぼちゃんという何かが落ちた音がしたかと思えば、見慣れないポケモンだったんだ。しかも炎タイプらしい。なぜこんな所に迷い込んでしまったのかも分からないが、とりあえず俺は自分の良心に従った。洞窟に住む仲間達も心配して、わざわざ外で拾ったきのみや、トレーナー達が落としていった傷薬なんかを持ってきてくれて。
しばらくすればそいつは元気になったが、大事をとってあともう一日、ここに居させることにする。そいつには名前があって、彼方、と名乗った。
無邪気で気さくなその性格からか、彼方はすぐに洞窟の仲間達と馴染んでいった。俺も彼方にはよく懐かれて、最終的には軽口を叩け合えるくらいに仲良くなれたと思う。
だから俺達が憎む人間の話をしているのに、嫌な感じはしなかったのかもしれない。彼方は、自分のトレーナーである少女の話をよくした。可愛い女の子なんだよ、と言うが、残念ながら俺は人間に嫌な思い出しかない。それでも、その子は俺達ポケモンと喋れる、と言っていたのには興味が湧いた。でも、だからと言って、その子は人間であることに変わりはない。私利私欲に塗れた、傲慢で汚くて、気持ち悪い顔をした生き物だ。
そう言うと、彼方はムキになって、人間はそれだけじゃないと証明する、と言い出したのだ。やれるもんならやってみろ。俺達が長年どれだけ忌み嫌ってきたか、苦痛を、知らないくせに。多くのハンターに追われ、生活環境を荒らされるこの苦痛を。そう笑い飛ばしていた。
そして、今目の前にいる人間は、なんだろう。
見たこともないような生き物だ。俺が今まで見てきた人間とは全く違う。あんな下賤さや卑しさは彼女にはない。むしろその真逆だ。
水飛沫に驚いてその小さな身体をより小さくしたり、目を開けたと思えば不安げに俺を見つめる様子だとかの、何と儚げなことか!首や手足もか弱く、俺が少し水圧を与えれば簡単に折れてしまいそうだ。だけれども以前として光を失わない瞳に、俺は吸い込まれていくようだった。
それはまるで、深い水底から太陽の光を見上げたときのように。重い扉の奥に佇む神を初めてこの目に入れたときのように。…愛しくて眩しい誰かを見つけたときのように。そうだ、これが惹かれる、ということか。
『これが、人間…?』
「…っ、そうだよ、私は人間だよ。ヒナリ…って言うの」
心の中での呟きが思わず声に出ていたらしい。しかしそのお陰で彼女の声を聞くことが出来た。洞窟に仄かに響くそれは、やはり聞いたことがないような声だ。高く、澄んだ声が俺の心臓に色をつけながら滲んでいく。ヒナリ。それが彼女の名前。たった数文字の音の羅列が、こんなにも美しいだなんて知らなかった。
ぴちゃん、水が可愛らしく跳ねる音。その源を振り返ると、そこには仲間の一匹であるウパーがいた。不安げに俺を見つめるのは、多分彼女が俺達に危害を加えると思っているからだろう。
それではっとした。そうだ、俺達にはこいつらを守る義務がある。俺を頼って、慕ってくれるこいつらを。こんないたいけな少女でも、人間だ。俺達の住処を荒らす人間。それは、真っ先に排除しなければならない。
ウパーにそっと微笑みかけて、水中に帰っていくのを見届けてから、俺はみずのはどうを放とうと構える。それを見て彼方が彼女の名前を叫んで、押しのけた。そのおかげで彼女が俺の攻撃をまともに受けることはなくて、少し安心を覚える。そして、おかしい、と気付いた。俺は排除しなければならないのに、どうしてそんなことを思うんだ!その矛盾に苛立ち、もう一度みずのはどうを放とうとした時だ。…鈴が鳴るような声。彼女の声。
「ねえ!…あの、ラプラスくん」
『ヒナリ、今のあいつは…っ!』
「君の話を聞かせて…ほしいな、なんて。彼方、私なら大丈夫…なんでしょ?」
彼方はそう言われ、う、と押し黙る。というか、話って、何さ。彼女の場違いすぎる言葉に戸惑いしか生まれない。俺は敵意すら曖昧になって、攻撃体制でいることも阿呆らしくなってきていた。俺はこの子を、本当に知らない、分からない。その姿も、心も。
彼女は俺の傍にしゃがみ込むと、俺を見上げて尋ねた。
「…さっき、私見て、人間なの?って言ってたよね。あれはどういうこと…なの」
『…一致しないから。俺の知る人間と、全く違うから』
「あなたの知る人間って、」
『俺達の大切なこの洞窟を汚す奴ら。俺達を捕まえようと躍起になる奴ら。ごつごつした身体と、気味の悪い顔で、手を伸ばす奴ら。ポケモンには気持ちがないとさえ思っている奴ら。…そんなのが、人間』
何を俺は必死に語っているんだろう。ポエマーの素質はなくはないと思っていたが、ここまで人前でべらべらと喋るなんて、恥ずかしい奴。ふと顔をあげれば、彼女はぽかんとした表情をしている。…ああ、そりゃ引かれるわな。笑われるものだと思って言葉を待つと、彼女が紡いだのは全く別の言葉だった。
「可哀想」
『かわい、そう?』
「そう、可哀想」
馬鹿にしてるのか、この子。ちょっとでも期待した俺もやはり馬鹿なようだ。
「それだけしか知ることができないなんて、可哀想。…もっと、いっぱい人はいるのに。ううん、人だけじゃない。…知らないことが、たくさん」
『…どういうことだよ』
「あなたが知る世界は、きっと狭すぎるの。…あなたの言うような人も、確かに人間の仲間だよ。でも、人ってそれだけじゃないよ。人だけじゃない、ポケモンもそう」
…思考が混沌の中にいた。彼女の言葉を噛み締めるほど、絡まってしまう糸だったけど、それでもようやく一本、また一本と解きほぐしていく。
知らない人、そのいい例が今目の前にいる彼女だ。俺は…、俺は、無知なのか。今の今まで、彼女のような、少女という人間…いや違う。彼女はただの少女なんかじゃない。彼女は、他に表しようのない彼女だ。そんな人間がいることは露とも知らず、人間を避け続けた。
それはもしかしたら、とてつもない損なのかもしれない。なんて可哀想なんだ、俺は。この洞窟の仲間は皆俺を慕ってくれるし、愉快な奴らだ。だけれど、ここじゃ見えないものがあると知ってしまった今、俺は、俺は…。
『外の世界、か』
「…一緒に、来ない?」
彼女は恐る恐る、その言葉を口にした。…とても魅力的な言葉だーーこの不思議な女の子と、まあ気心も知れてる彼方と共にいる、という。だけどそれは、…俺を捕らえようとした奴らと同じことを彼女はする、ということを意味する。
『まさかこれが狙いで、俺にこんな話をしたの…?』
「それは違うっ…いや、でも、そうかもしれない。あなたが人間を嫌うけど、一緒に旅に出れたらいいなって話を彼方から聞いて」
『…彼方、お前の差し金か』
「差し金とかそういうのじゃなくて…、私も話してみたいなって思ったの!それで今話して、一緒に旅に出たら、外の世界見れるし、どうかなって思って、それで」
錯乱する言葉をうまくまとめようとばたばた慌てる彼女を、彼方が笑う。あの傍に、俺がいられるかもしれないだなんて、そんな妄想。
『ね、ラプラスくん。人間って汚いだけじゃないでしょ』
ああそうだな、俺の負けだな。にやにやと勝ち誇っている彼方が憎たらしい。
『ねえ…名前、ヒナリ、だよな』
不意に話し掛けられたのに驚いたのか、彼女は肩をぴくりとさせた。改めて思うけれど、本当に俺達の声が聞こえるんだなあ。そんな不思議なことってあるものなんだ。だけどもしかしたら、それは俺が知らないだけで、どこか俺の知らない世界なら当たり前なのかもしれない。
どぎまぎしながら俺の表情を伺う彼女を、どうしようもなく愛しいと思う。ひと、なのに。…もうそんなの、関係ないのか。
「な、なあに…?」
『…一目惚れ、しちゃったのかも。俺』
「へ…?」
『ちょ、え?』
戸惑う彼方をよそに、思う。外へ行きたいと。
だけれども、仲間達は。さっきなだめたウパーや、俺を心配してくれていたズバット、ずっと物陰で俺を見つめているイシツブテ達。俺は、この洞窟の…そんなつもりはないけれど、言うなればリーダーだ。俺を頼ってくれる仲間を裏切るのは辛い。でもその気持ちも、ついさっきまで存在しなかった、外の世界への、…彼女への憧れに負けそうになっていた。
黙ってしまった俺に、彼方もヒナリちゃんも誰も声を出すことが出来ない。そこで動いたのは、意外なやつだった。
『行けよ』
『俺達だって、お前がいなきゃ何も出来ないわけじゃない』
不意に現れたのはラッタ。それから、ヌオー。ずっと一緒にこの洞窟を守ってきた仲間だ。
『え…?』
『見くびっちゃ困る。どれだけお前と一緒にいたと思ってんだ。お前がそこまでの反応見せるなんて、よほどのことだって分かるぜ?』
『てかなあ、一目惚れしちゃったんならもう止められないだろ?あれだけ数々の女の子のハートを射止めてるお前が一目惚れってなあ』
全く、とため息をつく彼らに、温かみが胸にじんわりと染み渡っていく。いい仲間を持ったんだなあ、俺。
『…任せても、いいのか?』
『ああ。てか俺達だってモテたい』
『動機が不純だよ、全く』
思わず笑みが漏れる。目の前の彼女と彼方もくすりと笑っていた。
「なあ、一緒に旅してもいいかな…?外の世界、ここじゃ見れないもの…景色もポケモンも人間も、それから君を、見て、みた、い…」
言ってから台詞の臭さに恥ずかしくなって、語尾が曖昧になってしまったけど、それでも微笑みで包んでくれるこの子と彼方を、とても大切にしたいと思った。
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