想いの箱の鍵探し
本当だったら今日コガネジムに挑戦する予定だったけど、こんなことがあった後にジムに挑戦する元気はなかった。それに、何より眠い。気がつけば皆思い思いの場所で寝てしまっていて。ソファでくつろいでいた私もそろそろベッドに入ろうかと思ったけど、移動する前に急激な眠気が襲ってきたので、その睡魔にあっさりと身を委ねてしまった。そうして、何時間か過ぎた時だった。
「…ヒナリ」
誰かの声が聞こえる。苦しくて堪らない、そんな声色で、誰かが私の名を呼ぶ。
誰だろう、そう意識をだんだんと揺り起こしていた時、不意に身体が他人の温度に包まれた。…抱きつかれているみたいだ。だけど、この温度、このあたたかさで私は確信した。
「かな、た」
「…!」
彼方の胸の中で、私は呟く。彼方の心臓がとくとくと早まっていくのが、直に私に伝わってきた。
「起こしちゃった…?」
「ううん、大丈夫だよ。…どうしたの?」
「…あのね、ヒナリ」
彼方は私を包み込むように抱きしめたまま言った。それは今にも泣き出してもおかしくないような声色で、胸の奥が縮こまる。
「ずっと避けちゃって、ごめんね?」
「ううん。何か、理由があるんでしょ?」
「今それを聞かないでほしい、かな…」
秘密をつくられたのが少し切ないけれど、それも段々彼方が成長している証なのかもしれない。漣曰く、思春期。結局よく分からなかったけど、今こうしていられるということは、多分踏ん切りはついたんだろう。昔から変わらないこの体温がそばにあることが証明してくれる。
「理由を話したら、きっとヒナリ、困っちゃうから。ヒナリに嫌われたくないから」
「嫌いになんて、なるわけないよ」
「…ありがとうヒナリ。でもね、今のままが僕にとっても、ヒナリにとっても一番だから。僕はただ、そばにいる存在でいれたら」
どういうことだかよく分からなくて、首を捻る。見上げた彼方を見て、ああ、きれいだ、そう思った。子供と大人の間を彷徨う、男の子だなあって。体つき、腕や首筋はちゃんと逞しくなりつつあるのに、瞳のきらめきだとかがまだあどけない。その危うさになぜか惹かれる私がいた。吐息のかかる距離感で、私と彼方はひたすら頬の熱を上げていく。目を、逸らせない。
「かな、」
「…ヒナリ、ごめん」
その言葉の意味を問う前に、私は言葉を失っていた。彼方の腕が頭と腰に回されたかと思うと、それは力一杯に私を締め付けていて、痛みすら覚えるくらいだ。声を出そうにも、肩に顔を押し付ける状態になってしまっているからくぐもってしまって、苦しさを伝えることができない。
そして、彼方が私の名前を囁く声は妙に低く甘くて、音の振動が耳元から全身に伝わっていくみたいだった。それらの動作一つ一つが、普段の彼方からは到底想像がつかないくらい真剣で力強い。荒々しく脈を刻む彼方の心臓が、その思いの真っ直ぐさを切実に伝えていた。
どうすることもできなくて呆然としていた私だけど、力は篭っていくばかりで、正直、とても痛い。彼方のパーカーの裾を握りしめながら、彼方、彼方と必死に呻き続けていると、どうにか肩の上からか細いながら声を出すことができた。
「か、なた…!」
「ヒナリ、」
「かなた、くるしいの…!」
無意識に発していた言葉を、なんとなく残酷だと感じた。途端、彼方から力が抜けて、私の肩に頭が乗っかる。小さく私の名前を何度も呼び続ける声にはまだ情の残り香があって、それが、冷静になったわけじゃないんだと教えてくれた。
「彼方、」
「だめ、今喋らないで」
「え…?」
「嫌な思い、させたくないから」
「…、彼方から嫌なことされた記憶なんて、ないよ」
そう言うと彼方は一瞬目を丸くしたあと、クスリと笑った。そして、私を少し遠ざけて、髪を撫でる。すう、と指を通され、毛先まで感覚を味わい尽くして、髪が零れ落ちた後でも名残惜しそうに手を浮かせたままだ。
為されるがまま、その仕草から漂う香りを眺めていた私だけど、ふと視線を移せば、赤が目に入る。だけどその赤はいつものビー玉を透かしたようなきらめき、というよりかは、重く濁り、切迫した何かを持ったような、そんな赤。うっすらと細められたその姿に、心臓の奥底が蠢く心地がした。私の視線に気付いて、赤が完全に私を捉える。
「ヒナリ、そう言うなら、…ちょっとだけ、僕のこと嫌いになって?」
彼方は赤い頬のままそう言って微笑むと、片手でそっと私の目を覆う。どうしたの、と言おうとした矢先、僅かな温かみが頬に、一瞬。ああ、このあったかさは、温度は、紛れもない彼方のもの。それにしては少し熱すぎるかもしれないけど。
手を外された時、ようやく思考が目覚めたのか、何が起こったのか理解することができた。あの感覚は、つまり、つまりは…!
「彼方、」
「えへへ、ヒナリ、可愛い」
「かわっ…!?」
まさかそんな言葉が出てくるとは想定外だ。彼方は照れ隠しみたいにそう笑って、それからまたぎゅっと私を抱き締めた。それはさっきとは打って変わって、今まで通りの親愛を感じさせるようなもので、それは悲しくなるくらいに、怖くなるくらいに、私をひどく安らかにした。
***
「はい、それでは今から僕の名前を考える会議を始めまーす!」
どこから持ち出したのか、パチリスくんは黒縁眼鏡を掛けると、それを軽く持ち上げてきらーんと光らせる。起きて早々、何が始まるのかと思ったら、パチリスくんが私達三人を集めて語り出して、今の台詞に至る。
ちなみに彼方はというと、私の隣に座っていて、時々目が合う度に嬉しそうに笑う。いつも通りの、…いつも通りの、彼方だ。
「名前?ヒナリちゃんに決定権あるでしょ?」
「そうだけど、変な名前つけられたら嫌だもん!というわけで、はい!じゃあ条件並べるよー」
適当に取り出した紙に、パチリスくんはせっせと何かを書いていく。意外にも、とめはねのしっかりとした、教科書体みたいな文字だ。見た目からは丸っこくて可愛らしそうな文字を書きそうだけど。漣がそれを見て、ふーんと唸る。
「へえ、文字書けるんだ」
「まあね。例のお嬢様のとこにいた時に何となく覚えたの。ほら、僕理解力あるし?」
眼鏡のフレームをくいと上げて、ふふんと得意げなパチリスくん。ほんと、可愛いのはいいんだけどな…。
「その1が可愛い、その2が頭の良さが表れてる、その3がお洒落、ってことで!考えよ!」
「そんな都合良く条件揃いすぎたのあるのか…?」
「うっさい撫で肩!」
「な…っ!?」
ああ、確かに。パチリスくんが言い放った言葉に彼方と私は思わず漣の肩を凝視し、そして大きくうんうんと頷いた。確かに、見事な曲線のラインだ。それが漣の印象を柔らかくしているようにも見えるし、素敵な個性だと思うんだけど、本人はコンプレックスなのか、ムキになって言い返す。
「撫で肩の何が悪い!」
「はいはい、悪くないですよー。そんなことよりも、考えようよ名前!」
机に突っ伏して落ち込む漣の頭をよしよしと撫でつつ、名前を考えることにした。頭良さそう…うーん。
「頭良さそう…っていうと、漢字で表現するしかないかな?賢とか、学って文字とか?」
「そんなん可愛くないでしょ?」
「うーん…」
「音だったら僕、可愛いの一個思いついたよ。りお。りおってどう?パチリスの"り"と、尻尾って"お"って言うでしょ?」
彼方の提案に、おおーっと歓声があがる。確かに、可愛い響きだ。男の子にも女の子にも使えそうだけど、それもこのパチリスくんに似合っていると思える。
「それなら、漢字も絞られるね。やるじゃんあんた」
「へへっ…あんたじゃなくて、彼方だよ?」
パチリスくんがにやっと笑ったのを見て、彼方も嬉しそうに笑う。友情が芽生え始めた…のかな?喜ばしいことだ。基本誰とでも友達になれる彼方だから、心配はないけども。
「じゃあ漢字は、理論の"り"に、中央の央で"お"ってどう?理はちゃんと頭良さそうだし、央は、パチリスくんって周りを巻き込んでどんどん物事進めてっちゃう、中央の存在だなあって思ったからなんだけど…」
思いつきを言葉にしてから不安になった。即興で思いついたものだけど、お気に召したかな。パチリスくんの表情を覗き込むと、にやにやと嬉しそうだったから、多分大丈夫だろう。
「理央!いいじゃん、頭良さそうだし可愛いし、お洒落じゃん!…よし、僕はこれから理央ね!」
パチリスくん…もとい、理央はくるんとターンすると、愛らしい笑顔を向けてきた。マフラーも一緒にひらりとはためいているけど、それすら計算済みなのかと思うと全く末恐ろしい。それでも、見ている私達をも思わず笑顔にさせる動きだ。
「理央、理央」
「ん?何、かーなた…って!なんなのいきなり!暑苦しい!」
「えー?何も?」
名前を呼ばれて振り返った理央に、後ろから彼方がぎゅうと抱きついた。じたばたと理央は暴れているけど、彼方のパワーはやはり強くて、理央の攻撃は全て無駄である。身長差からか、兄弟のようにも見えて、思わず口元が緩む。ちょっとお兄ちゃんのほうが甘えん坊みたいだけど。
「じゃあ俺はその隙にヒナリちゃんもらっちゃおうかな?」
撫で肩ショックからいつの間に復活したんだろう、漣が隣に来ていて、私の肩を抱く。自然と漣の肩に私の頭が乗っかるけど、その時に撫で肩であることが再確認された。…滑る。
「れ、れん?」
「えっ、漣ずるい!」
「ちょ、彼方まで?じゃあ僕もまじろーっと」
正面から抱きついてきた彼方と、もう片方の隣から腕を絡ませる理央に耐えきれなくて、四人で床に寝っころがる。箱詰めにされたみたいにぎゅうぎゅうと引っ付きあって、わいわい笑いあえるこの状況に、ああ幸せだなあ、なんて思ってみたりもした。
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