刹那を恐れ愛おしむ
ヒナリの表情が凍っていった時、僕は長らく忘れかけていたことを思い知らされた。彼女が昔、僕に出会う前ーーまだ人々の奇異の視線にさらされていた時のこと。それを語ってくれたヒナリの幼い頃には、まだあの人、ヒナリの母親もいたから。現実がすぐそばにあったからこそ、僕に話せたのだろう。
あの人から解放された今、ヒナリは過去とあの人を両方とも、忘れようとしているみたいだった。話をしたがらなかった。…そのせいで、人前ということにあんな風な拒絶反応を起こすみたいだ。
いつもより色のない手のひらを握る。ひんやりとしたそれが不安でたまらなくて、僕のこの体温がヒナリの心臓まで届け、届けと祈った。そんなの、出来るわけがないのに。
ふと動いた唇から漏れたのは、「ん、」という呻き。…ヒナリは今、病人だ。それなのに、堪え切れようのない愛しさばかり募っていく。
あの時、理央の一件を終えて、仲直りじゃないけど…僕が謝った時。僕は一瞬、僕を忘れた。あんな近距離、潤んだ瞳で上目遣いされて落ち着いていられないくらいには、僕だって男だ。でもそのせいで、ヒナリはきっと怖かっただろう。突然痛いくらいに抱き締めたら、尚更そうだ。なのに、ヒナリは甘い。悲しいほどに甘い。嫌なことされた記憶なんてないって、なんだよ、それ。むしゃくしゃして、かっとして、いつもの関係に戻らなきゃって。その発端を彼女の甘さに求めて、僕はヒナリの頬にキスをした。これで最後、これで蓋をしておこう、これで大丈夫。その証明に、いつもみたいにだいすきの思いを込めて抱き締めた。ヒナリはそれで安心してたし、僕もすごく幸せだった。
一体、何の問題があるというんだろう。それで幸せなのに、なんで僕は今こんなに苦しいのかな。瞳を隠すその瞼、微かに開いた唇、細くて真っ白な首筋、…どきり、とした。こんなにも自分を心底気持ち悪いと思ったことはない。僕はどこでこんな汚れた気持ちを知ってしまったのか。
「…かなた、」
不意に唇が紡いだ言葉に、どきんと、心臓が大袈裟なくらい大きな音で鳴る。大丈夫、と尋ねようとしたとき、また唇が動いた。
「れん、りお、ちひろも…」
僕は、一番じゃない。ヒナリの中で、仲間という括りの、並列の存在。頭では理解しているつもりだったのに、改めて突きつけられるのは、想像していた以上に辛かった。
毛布の中で僅かに動くヒナリに、ぽつり、僕が影を落とす。
「ヒナリ、」
返事のないのをいいことに、僕は続けた。
「ヒナリ、好きだよ、…ううん、すき」
恐る恐るヒナリの頬に手を添える。すきだよ、だいすきなんだよ、ヒナリ。僕はヒナリとずっと一緒にいたいよ。隣で守りたいんだよ。だからこのまま、このままの関係で。すき、でいなくちゃ。
***
エンジュを巡りきって、ようやくヒナリちゃんと彼方が待つポケセンに俺達が帰ってきたのは夕方六時くらいのことだった。
「おかえり」
「ただいま、…ヒナリちゃんはどう?」
「大丈夫、多分今は眠ってるだけだよ」
彼方の表情はいつになく暗くて、あ、またこいつ何か考え事してるな、そう感づいた。また話なら夜中にでも聞いてやるよ、そういう意味を込めてベッドの脇に座る彼方の頭に手のひらを置く。また泣きそうな目で俺を見上げる彼方は、そのまま俺の腕にしがみついた。だからお前力加減考えろっての、痛いんだよ!
「…ヒナリ、まっしろ」
「貧血だからね。そのためにサプリメントとか色々買ってきたし、起きたら飲ませないと」
「まっしろ、…綺麗」
「おい千紘、何テンション上がってんだ、よっと!」
ヒナリちゃんの枕元に近寄った千紘の首根っこを掴む。病人襲おうとするとは、全く油断も隙もない。
「…何すんの、漣」
「何すんのじゃないの、理性ってものを学びなさい千紘クンよ」
「れーんー…僕も同罪だ…」
「あーもう彼方もいい加減離れろー、話なら後で聞いてやるから、な?」
というか、片腕には彼方が絡みついて、もう片手では千紘を掴むという、どんな状況なんだよほんと。俺だって動きたいんだけど。そんな俺の様子を見て、馬鹿にしたようにぷぷっと笑う理央も憎たらしい。
「…、ん、あれ…?」
その瞬間、全員が一点に振り返った。いつもより顔色は悪いけれど、…それでもさっきより色は戻りつつある。そんな表情で目を擦り、上体を起こすヒナリちゃんに、俺は胸を撫で下ろした。
「ヒナリ!大丈夫?」
「うん、もう大丈夫…。ずっと傍にいてくれてありがとう、彼方」
「えへへ…そう言われると、嬉しいよ」
「千紘達も帰ってきたんだね、おかえり」
「ただいま、ヒナリ。…ねえ、ご飯」
「千紘あんた馬鹿か!今のヒナリにご飯たかっても何も出るわけないでしょうが。てかヒナリは今ご飯と薬持ってくからそれ飲んでさっさと寝てろっての!」
「は、はい…」
動揺しながらも頷くヒナリちゃんだったけど、ふと気がついたのか、俺に尋ねた。
「色々買ってきたみたいだね。…何買ったの?」
「ああ、えっと…ヒナリちゃん用の鉄分補給剤と、今理央が作ってくれてるお粥用の野菜とか、あと他にも色々理央がお菓子の材料?買ってたよ」
「理央、お菓子作れるの…?」
「まあ、期待して待ってなよ。明日の朝には焼きあがるから」
ふふんと自信満々の理央を見て、千紘の目に光が宿る。理央、理央とハートを散らしながら絡みにいくが鬱陶しがられていて、ちょっと面白かった。ほんと千紘は、食べ物のこととなると目の色が変わるというか。だんだん慣れてきたとはいえ、やっぱり変な奴だなあと思う。
「それから、本屋行ってこんなんも買ったな。これこれ」
「"ひらがなれんしゅうちょう"?」
「ふーん、そう読むのかー」
人間の元で育った彼方や理央と違って、俺や千紘は全くの野生育ち、文明に触れ合うことなくここまで年を重ねてきた。せっかくなら、読み書きくらいできるようになりたい。二人になんだか一歩リードされているような気がして、悔しいのだ。
「練習なら私、付き合うよ」
「本当?ありがとうヒナリちゃん」
ふわりと笑うヒナリちゃんに心癒される。理央の怒声や千紘の暴走に付き合ったせいですっかり疲れたが、この笑顔を見れると思うと明日も頑張れそうな気がしてきて、やっぱり好きだなあ、なんて再確認。
…そんなことで思い出した。今日の俺の最大の買い物。元気のないヒナリちゃんの為に買ったもの。
「それから、これ」
俺は背負っていたセミハードのケースを降ろす。彼方がなんだなんだと寄ってきたところで、そのカバーを開いていった。ブルーのその姿に、やはり胸が高鳴る。いい買い物をした、俺はほんと。
「…漣、これって…!」
ヒナリちゃんと彼方の表情には、きらきらとした好奇心がそのまんま出ていて、少し可笑しい。早速それを構えて、店のおじさんに習ったばかりのポジションでぽろろん、と鳴らす。Cメジャーの、シンプルだけど清々しい和音だ。
「アコギ…ってやつだよね、漣!」
「そうそう、正式名称アコースティックギター。…どう、なかなか良い音でしょ?」
「うん…!優しい音だね、漣らしい」
ああ、やっぱりヒナリちゃんは俺の神様。それに比べ理央の口うるさいことと言ったら、姑かっつーの。
「どうやって持ち運ぶのとか、いくら掛かると思ってるのとか、散々僕は反対したんだけどね!」
「持ち運びは俺がずっと運ぶし、基本はポケセンの部屋に置いておくから、ヒナリちゃんに迷惑は掛けない!お金は俺が頑張ってトレーナー戦出るから!それに、店のおじさんと仲良くなって、けっこうまけてもらったし」
それに、基本の弾き方とか、曲もそれなりに教えてもらった。ヒナリちゃん以外の人間でもこんなに信用できる人間がいるとは、やはり俺の世界は狭かったんだと改めて思う。
「ねえヒナリちゃん、聞いてくれない?…ちょっとだけど、弾けるようになったんだ」
ちょっと緊張した面持ちでそう言う。コガネジム戦の時、うっとりと喜んでくれていたのが嬉しかったんだ。この姿で歌うと、ラプラスの姿で歌う時と声は変わってしまうし、ヒナリちゃんに気に入ってもらえるか自信はない。でも、この姿じゃないとギターは弾けないからね。アカペラで歌って様になってたらよかったけれど、そこまでの勇気はない。
「もちろん!聞かせて、漣の歌」
ありがとう、と微笑むと、俺はごほんと咳をする。ああ緊張するな。だけどその緊張は、少し気持ちよかったりもする。
…息を深く吸い込んで、歌を紡ぐ。
ギターのアルペジオと混じり合う俺の歌声は、我ながら心地がよい。それで余計に、俺の歌にももっと気持ちが篭っていく。
頑張ることは大切だけど、君の正直な弱さを隠す強さなら、なくてもいい。もっと俺達を頼っていいんだよ、ヒナリちゃん。君を支えて守ること、それが俺達の幸せなんだから。穏やかな曲調に歌詞を乗せて、俺が伝えたいのはそんなこと。こんなにキザな台詞なんて素で言える訳ないから、これで伝わるといいな。彼女にちらりと視線を送れば、笑顔の隙間からほんの少しのかなしみの欠片が見えた気がして、ちょっとでもそれを外に出すことができたなら、ああ歌った甲斐があったな、なんて。
歌い終わる頃には、理央や千紘も俺の周りに座っていて、すっかり勢揃いだった。ぱちぱちと、四人分の拍手が俺を包む。ヒナリちゃんのために歌ったはずなのに、なんでこんなに俺が嬉しいんだろうな。
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