刹那を恐れ愛おしむ
『そろそろ行くけど、忘れ物はない?ヒナリちゃん』
「だ、大丈夫…のはずです!」
ポケモンセンターに帰って、預けていた漣と合流。そしていろりさんはすぐに出発だというけれど、もうエンジュの街はアサギの方向から差す太陽のおかげで真っ赤に染まっている。キキョウの方はもう紺色にすら見えるような時間だ。夜中に走って、ちゃんと辿り着けるのだろうか。そういろりさんに尋ねると、
『ふふ、私これでもポケモンよ?そんなヘマはしないわ、任せておいて』
そう言ってウインクを一つ。…本当、だろうけど。いろりさんの背中に跨って、たてがみを掴む。最初は痛くないよう遠慮がちに掴んでいたけど、そんなんじゃ飛ばされると言われて、慌ててぎゅっと首に抱きつかせてもらった。
『じゃあ行くわよ…、いっせえのお、せえ!』
「へ?…って、うわああ!」
急発進!助走もなく走り出すものだから、手をつい離しそうになって、慌ててまた彼女の首を抱き締める。あ、危なかった。しばらくはそうしていろりさんの黄金のたてがみに顔を埋めていたけど、それでもようやくスピードに慣れてきて、顔をそっと持ち上げてみる。そして、そこに広がる景色に思わず歓声を上げた。
なんて、はやい!
迫り来る木々を交わす、交わす。いや、もうその一本一本を木だと認識する前に全てが過ぎ去って行く。絵の具をつけた筆をキャンバスの上に走らせるみたい。色だけが私が今分かる全てだ。緑、茶色、赤…その生き生きとした色を味わえることの、なんと誇らしいことか!
「いろりさんっ、すごい…!」
『でしょう?…神速、っていうのはこのことよ』
ウインディは、そういえばでんせつポケモンという名前もついていたか。一万キロ――カントーのタマムシシティからなら遥か海を越え、およそカロス地方までの距離――でさえも、一昼夜で走ってしまうという話も聞いたことがある。誇張は少なからず入っているだろうけど、それにしたってものすごい速さ…まさに、神の速さ。もしかしたら今日中に辿り着かないんじゃないかという、さっきの私の不安が阿呆らしく思えてくる、というか、失礼なことを考えていたものだ。全くポケモンの力というのは素晴らしく恐ろしい。だけれど、それが私をより興奮させた。身体中で、この素早い鼓動を感じる。わくわくする、どきどきする!
「いろりさん、もっと、速く!」
『任せておいて!』
「もっと、もっと!」
スピードは私の声に呼応して、留まることを知らず伸びていく。恐怖はなかった。こんなに心踊るような何かが世界にあるということが、ただひたすらに嬉しかった。
不意に、いろりさんは四足を伸ばす。何事かと焦った次の瞬間、それはスリルへと変わった。大きな崖を、飛び降りたのだ。重力に引き寄せられまた地上を走り出すいろりさんは、得意げに笑っていて、私もやはり口元が上がっていく。あの瞬間、私は地面から解放されたんだ。地上の雑多な存在など全くない、空に、天にいたんだ。
しかし、その爽快な時間は本当に一瞬だった。森を越え山を越え、何十分もしないうちに、さっきまでとは明らかに違う、人によって管理された森の中を通り越す。…ウバメの森。いろりさんはスピードを徐々に落とし、そしてヒワダタウンの一目のなさそうな場所で私を降ろした。降りた瞬間、それまでとのギャップで倒れこみそうになった私を、瞬時に人のかたちに戻ったいろりさんが支えてくれた。ふわりと揺れた朱色の髪は、つい数秒前まで私が跨っていた胴体と同じ色で、その不思議さから思わず見とれてしまう。だけれど、それより先に、まず。
「いろりさん、本当にありがとうございます…!」
「いいのよ、そんな頭下げなくたって。…それより明日の朝にはここを出るんだから、早く休まなくちゃ。でもその前にお買い物ね、付き合うわ」
私の手を引くいろりさんは上機嫌だった。跳ねるように歩くいろりさんの背姿を見て、私は一つ、彼女についてずっと気になっていたことをぶつけてみることにした。
「いろりさんって、」
「何?」
「誰かのポケモン…だったんですか?」
その一瞬の変化を、私は見てしまった。脳裏に焼き付いた何かをもう一度思い出したみたいな、その表情。それはすぐに変わり、困ったような笑顔に変わったけれど。聞いてはいけないことだった、のかな。
「あ、あの、ごめんなさい」
「いいの、ヒナリちゃん!私は生まれてからずっと、人間のものになったことはないわ。…でも、どうしてそう思ったの?」
「その、かんざし。服装とかは全部洋服なのに、かんざしだけは和のものだから、もしかして誰かにもらった大切なものなのかな…って。それから、名前があるから」
生粋の野生のポケモンなら、普通名前は持たない。しかもいろりとは、漢字で書けば囲炉裏。人工物だ。きっと人が、付けたんじゃないだろうか。
いろりさんはそれ以上、表情を変えることはなかった。そう、と笑って、歩き続けるのみ。図星なのかそうじゃないのか分からないけど、彼女の抱えたものに少しでも触れてしまったことが、罪悪感となって私を襲った。距離感が、掴めない。俯いて彼女の横を歩いていたけど、不意にその柔らかい手で肩を抱き寄せられて、微笑みかけられる。ああごめんなさいいろりさん、私はそれを言葉に出来るほどの勇気を持ち合わせていないんだ。
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