刹那を恐れ愛おしむ
『千紘、そっちはどう?』
『普通に、…平和』
千紘のつまんなさそうな溜息が聞こえた。無駄に野生のポケモンを傷つけることもないからいいことのはずなんだけど、ここしばらくバトルを控えさせられている千紘としては欲求不満のようだ。漣の甲羅に挟まって睡眠体勢に入ろうとしているのを、彼方が慌てて起こしていた。
ヒワダに泊まった翌日の朝、いろりさんの姿はなかった。夜中のうちにどこかへ旅立ってしまったようだ。それから漣の背中に乗って、東へ東へと進み続けている。最初こそ水の上の不安定に揺れる感覚があまり想像できていなくて、踏み出す足も恐々していたけれど、慣れた今はすっかり水上の風景を楽しめる余裕もあるくらいだ。真上から降る太陽の光が波のひとつひとつに反射し、キラキラと瞬いている。そんな様子は、私の足元でも、地平線の先でも同じ。終わりがない。そのことがたまらなく私の胸をときめかせる。
ちなみに、そんな私をちらりと脇目に見ると、何も言わずに微笑んでいた理央は漣の頭上、千紘は甲羅の後ろのほうに乗っかって、それぞれ水上の野生ポケモンとのバトルを受け持ってくれていて、あともう一人彼方はというと、一人人間のかたちで私と同じように漣の背中に跨って、私の背中にべったり引っ付いている。そんなぎゅうぎゅう詰めの状態だから、少しでも暴れたら全員が海の底に沈められそうだ。千紘を起こそうとする彼方もいつもよりか遠慮がちに揺さぶっていた。
「千紘ー…だめだ、寝ちゃった」
彼方の腕の中で眠る千紘は心底気持ち良さそうだ。真上から差す眩しいほどの光は、千紘の光合成にうってつけなんだろう。私まで眠たくなってくるけれど、そんなことしたらずっと泳ぎ続けてくれてる漣に申し訳ない。
『ほんと気の向くままに生きてるよね千紘は!欠如してるもんが多すぎる、要するにばーか!』
「良く言うと素直ってことじゃないかな」
『そうそう。色々隠しちゃうどっかの誰かさんと違ってね』
漣が何か含んだように笑う。そんな、理央も彼方も隠し事してるようには見えないのに。だけどなぜか、背後の彼方が背筋を伸ばして強張っているのを感じた。え、そんな。
「彼方、何か言いにくいことでもあるの?」
「…え、いや、違うよ!」
「違うって…答えになってないよ」
最近、でも確かに、彼方の雰囲気が以前と違うと感じることは増えてきた。ただ子供っぽくじゃれあう関係だったのが、いわゆる例の思春期を乗り越えた頃から、思いが一つじゃなくなった、というか。今まで通りだと思うときもよくあるけれど、明確に繋がっていた一直線が、急に分岐したり紆余曲折したり、そして彼方がそれに苦しんでるようだというのは思うことがあった。私達も、少しずつ大人になってる、ということなのかな。それにつれ、秘密が出来るのはしょうがないことなのかもしれない。でも、ちょっと寂しい…かも。
「何でもないから、何でもないの!」
拗ねたように私の背中に張り付く彼方が、ちょっと嬉しかった。なんだかんだ私もこうやってしているのは嫌じゃない、むしろ好きなんだと思う。ただ、その間に挟まれた千紘が苦しそうな声を上げていたけど。
海の上は穏やかだった。さあっと走り続ける漣の速度はなかなか快調で、風を切って進むのはなかなか心地がよい。潮の香りは好きだ、故郷が懐かしいから。
それからも海の上を走り続け、日も暮れてきた頃。オレンジ色にきらめく海を眺めるのもいいけれど、今日はどこで寝泊まりするかを考えなくちゃいけない。さすがに漣の上で、というのは大変だし、漣自身が一番辛いだろう。念のため買っておいたボートはあるけど、出来れば陸地を見つけたいと思うのが本音だ。
夕日はもう少しで地平線の下に消えてしまう。空が紫と橙のグラデーションに染まってゆくのに見とれるけれど、そうしている余裕もない、日没まであと少しなのだ。流石に私にも焦りが生まれてきた。
「漣、ど、どうしよう」
『確かに、ちょっとまずいけど…。頑張って陸地探すしかないね』
『そういうのなら…、てか、千紘!起ーきーろー馬鹿!いつまで寝てんの!もう太陽沈むよ!』
『…、だって、もうすぐ、夜だから』
「千紘昼間からずっと寝てるじゃん」
彼方のツッコミに皆が大きく頷く。寝ぼけ顔の千紘は不満そうだけど、理央に耳元で怒鳴られ意識ははっきりしてきたみたいだった。それから、ぼーっとしながら空を見上げ、呟く。
『雨の匂い、する』
『ま、まじかよ…』
駄目だ、さらに状況が悪化した。さっきまで冷静な口調だった漣もこの台詞だ。こんなところで雨になんか降られたらたまったもんじゃない。全員びしょ濡れで風邪を引くなんて大惨事が起こったら大変だ。意地でも陸地を見つけなきゃ。だけど、手段がない。困ってしまっていると、理央がはっと思いついてくれた。
『そうだよ千紘、千紘の鼻はよく効くんでしょ?それで陸地探ってよ!土の匂いとか、建物の匂いとか…』
「そっか、僕がいろりねーさん探した時みたいに!」
「でもだいぶ潮の香りが強いけど…、千紘、どう?」
千紘は理央の言葉にこくりと頷くと、くんくんと鼻を鳴らして辺りの匂いを嗅いでいる。人間の私がやってみても、潮の匂いしかしないけど、そこはさすがポケモン。しばらくすると、ある一方向を探し出したようで、『あっち』と指差した。しかし、その方向にあるのは、なんだか不気味な黒雲の漂う海面。まるで何かを隠すかのように水平線上の一部分だけ、その奥を見ることができない。物語の中だったら、こういうところには大体秘密のお城とかが隠されているんじゃないかな。怪しい。怪しすぎる。
「すごい雲?霧?だけど…」
『うん。…大丈夫』
『じゃあ千紘信じてそっち行ってみるね、ヒナリちゃん』
『…半分くらい、勘だけど』
『そんなことだと思ってたよ馬鹿!』
理央は呆れ返ってそっぽを向いてしまったけど、案外大丈夫だと思う。ほら、彼方も言ってたけど、野生の勘というやつだ。それに、見渡す限りの海で、このまま進まずに迷っているよりかはどこかへ進んだほうがましだ。
漣にゴーサインを出して、不可解なほど黒い霧の中へ。
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