朔月をも照らす灯火
結局は適当な部屋を見繕って雑魚寝した。寝心地はお世辞にも良いとは言えなかったけど、しょうがない。無事にこの暴風雨を凌げる場所があっただけで十分だ。建て付けの危うい窓ががたがた揺れる音に震え上がりながらも、眠りについた。
朝になって起きるころには、天気はすっかり回復していて、海の様子も凪いで穏やか。島を出るとき、ありがとうございましたと頭を下げてから出発。ここに辿り着けていなかったら、私達はきっと今頃海底に沈んでいただろうから。
ニューアイランド島を離れ、また昨日と同じように大海原を進んだ。そしてとうとう見えてきたのは、溶岩石に覆われた島の姿。
『…ヒナリちゃん、あれ、だよね』
「うん、…グレン島」
自分の口から出た言葉なのに、その強張りようは尋常じゃなくて。後ろにいる彼方が、私の背中に顔を埋めるのが、彼もまた並々ならぬ思いを抱いていると教えてくれた。
近寄れば近寄るほど、胸の痛みは強まっていく。無意識のうちに、記憶と現実を重ね合わせてしまうから。あの辺りでは、春になったら薄黄色の花がたくさん咲いていたな、とか。あの岩陰の辺りは人が滅多に来ないから、彼方と話せる絶好の場所だったな、とか。
「漣、長旅本当にお疲れ様、ありがとう。理央も、千紘も、彼方も」
『そういうヒナリちゃんも、お疲れ様』
「私はただ、乗せてもらってただけだから」
砂浜に降り立つ。確かヨシノシティにも砂浜はあったけど、それとは違う、私の故郷の感覚。でもそればかりに夢中になる前に、漣達を労わなくちゃ。ほんとうに、いくら感謝してもしきれない。こんなわがままを聞いてくれるなんて。
「で、どうする、ヒナリちゃん。…色々、見て回りたいんでしょ?彼方も同じみたいだし、ね。俺達はついてくよ」
そう言われて彼方のほうを覗き見ると、図星というように目を開けたあと、へにゃりと力無く笑った。あまり、言葉を喋る元気がないみたいだ。
言葉でだめならば、行動で通じ合いたいな、なんて。さりげなく…したつもりだけど、実際はどうだったんだろう。彼方の手を、取った。途端に温もりがじんと伝わってくる。変わらないね、その思いを込めて笑いかけたつもりけど、今の私、きっとひどい笑顔なんだろうな。
*****
どこまで行っても、景色は変わらなかった。だけどこの足が、何があったかを全て覚えている。それでも歩幅は大きくなってしまったから、多分ずれてしまっているのだろうと思うと、何だか少し物寂しくて笑えた。思い出も記憶も、いつかは遠く薄れてゆく。溶岩の下に消え失せた思い出も同じことだ。でもせめて、それらひとつひとつが記憶の中からも消えてしまわないように。私達は言葉にして確かめていった。
「…ここは、研究所があったっけ」
「よくここ、旅のトレーナーさんがたくさん入っていったよね。それで、出てくる時にはなぜか本で見た古代のポケモンを連れてて、すごいなあって思ったよね。その隣は…」
「ポケモンセンター、だったね。よくお世話になったや、僕」
「そうだね、それでその隣は、」
彼方も悲しさよりも懐かしさが優ったんだろう。徐々に増えてきた言葉数に、私もあの頃に帰ったかのようにあどけなく、夢中になって話し続けた。
「ねえヒナリ、覚えてる?この岬で、炎の石落としちゃってた時のこと」
「覚えてるよ、カツラさんから借りた炎の石を近所の子たちが取り合ってたら、もみくちゃになってぼとん、って」
「その後こっぴどく怒られたよね…僕らは騒ぎの外で見てただけなのに、巻き添え食らって」
くすりと笑う彼方に、私もつられて笑う。当時は不服でしょうがなかったけど、時が過ぎた今、それは懐かしい笑い話になっていた。あの石は、今でもここの海底に眠っているんだろうか。覗き込んでも見えるのは海の青だけ、今や真相は分からない。
最後に訪れたのは、島の東のほう、かつてグレンジムがあった場所のすぐそば。あの頃ここは砂浜だった。ここでカツラさんを待って、…彼方に、出会った場所。いきなり飛びついてきた彼方にびっくりしつつも、名前をつけて、夢物語を話した場所。初めて他の生き物の温かみを感じた場所。今もそのあたたかさは手のひらの中にある。なのに、景色は変わってしまった。砂浜は消え失せ、溶岩の降り積もったそこに佇んで、私は一体何を思おうか。
「ヒナリ、泣いてるの…?」
「え…?」
彼方のか細い声にきょとんとしてしまった。泣いてる?…そんな、いつの間に。彼方は繋いでいないほうの指先で、私の目元を拭った。確かに、これは涙。だけど、その時見えた彼方の目にも同じように、水滴が浮かんでいた。
「彼方も、泣いてる」
「へ…?…ほんとだ、おそろいだね」
「多分、ここもおそろい」
私はそう言って、自分の心臓をとんとんと叩いた。
悲しい。悲しい、悲しい、悲しい。
それ以外、この感情を表現する言葉を私は知らない。あの場所はもうここにない。事実はそれだけでまとまってしまう。けれどこの場所に篭ったたくさんの出来事や気持ちや、思い出は、決してそんな簡単な言葉にまとまるものではないんだ。ぼたぼたと、大粒の涙が地面を濡らした。それはやがて私の流したものか、彼方の流したものかも分からなくなっていく。
もはや言葉はなかった。それは言葉にせずとも、私と彼方の気持ちはおそろいだから。彼方の正面に立って彼を見上げると、涙でぐちゃぐちゃになった表情があって、ああ鏡みたいだ、と思った。私もきっと、おそろいの表情。そのまま彼方の胸に顔を押し当てて、声を殺して泣いた。しばらく背中を撫でてくれていた彼方も、とうとう私の肩に顔を埋めて同じように泣いた。どうしてなくなっちゃったのかな。どうしてもう同じ景色を見れないのかな。悲しい。悲しい。時々嗚咽を漏らしながら縋り合う私達に、漣達は困っているだろう。そのことが頭をよぎっても、涙は止まらず、染みは広がる一方だった。
ねえ彼方、もっと色んなところに行こう、色んなものを見よう。それはここで私達が夢見たこと。この広がる景色を見て初めて思ったこと。全て、この島のおかげで、今の私達はいるんだ。夢を叶えられたら、いや、叶えなくちゃならない。そしたら、この島への僅かな恩返しになるはずだよ。それを伝える術はなくとも、通じている。根拠はないけど、確信していた。彼方なら、きっと、彼方なら。
海の音が聞こえる。あの頃よりこの島はずっと静かになってしまったからか、やけに大きなその音が虚しく思えて、そのことがまた悲壮感を煽った。
それからはただ呆然としていた。彼方と二人肩を寄せ合って、ずっとあの場所に座り込んで、何をすることもなく海を眺めるだけ。そのうち漣達も隣に座ってきたから、どうしたのと尋ねると、
「少しくらい、ヒナリちゃんと彼方の気持ちも分かってやりたいって思ったら、駄目かな」
「二人の世界に浸るなんてさせないから、ばーか」
「理央はもっと、素直に話したらいい…」
「馬鹿千紘、わざとなの、これは。てかあんたはそのまんますぎんの!」
なんだか賑やかになってきたことに救われた気がした。彼方とこのまま二人だけだったら、多分感傷に浸ることしかできなくて、気持ちは深く沈む一方だったから。ふふ、とつい笑ってしまう。隣の彼方にも微笑みが帰ってきて、彼らの存在の大きさを今更ながら知った。五人並んで崖に座って、足を思い思いにぶらぶらと遊ばせる。あの頃は私の分の二足しかなかった足が、今では十足も、大きさも様々な足がここにある。それがこそばゆくて、なんとなく微笑みを浮かべてた時。十が、八になる。千紘の分だ。不意に立ち上がった千紘は、振り返りとある一点を見つめている。
「どうしたの、千紘?」
「……、いる」
「な、何が?」
「準備したほうが、いい、……!」
私の問い掛けに答えた瞬間、私の周りのあちこちで白い光がまたたく。これは、彼方達が原型に戻る時のだ、どうして、…なんて考える間も無く、ラプラスの青い巨体がズシンと現れ、私の視界を塞ぐ。彼方と千紘が駆け、理央が漣の頭に乗っかりその様子を見下ろす。まるで私を守るかのように佇む彼らの視線の先には、淡い金色の体毛を持つ何かが、彼方と千紘に取り押さえられていた。漣の背中から少しだけ顔を覗かせた私を、真っ赤な瞳がキッと貫く。
『ねえあんた、今何をしようとしたの?』
理央の冷たい声が降る。それでもそのポケモン、…キュウコンは、私だけを睨んでいる。そんなキュウコンをいつでも倒せるようにと、彼方は背中の炎の勢いを高め、千紘は額の葉で今にもキュウコンに斬りかかろうとしている。理央の言い方は、まるでこのキュウコンが何かしようとしたようだが、そんなの何も分からない。漣がそんな心境を察したようで、長い首をこちらに向けてこっそりと余裕のある口調で教えてくれた。
『あのキュウコン、ヒナリちゃんに襲い掛かろうとしてた。…大丈夫、ヒナリちゃんは心配しないで』
「漣、待って、」
『大丈夫。…心配しないで。ね?』
そうじゃない、どうしてキュウコンがそうしたのか、私から理由を聞きたいのだ。だけど漣はそれを優しく拒むし、理央もそうさせてくれないらしい。漣が目を細め、首を戻したのを見て、私も仕方なく黙って頷き影からキュウコンと見つめ合う。…あれは、敵意だ。あの目に宿るのは、真っ直ぐな私への敵意だ。そのことがそのかたちのまま、すんなりと胸にしまわれていく。あのキュウコンは、私を憎んで、いる。
『ねえ、聞こえてるでしょ?…答えなよ』
『放してください』
『その前に答えて』
『嫌です』
「理央!…やめて、私が話すから。こんな脅すみたいなのは、やめて」
やっぱり耐えられないよ。漣が止めるのも聞かず、私はキュウコンに歩み寄り、その目の前に座り込んだ。頭を下げたままの威嚇体勢で私を睨みあげる瞳をもう一度きちんと見つめる。キュウコンはそんな私の行動に少し怖気づいたのか、じり、と一歩下がった。
「逃げたかったら、逃げてもいいよ。ただ、私に何かあるのなら、教えて?」
このキュウコンに、何があったのだろう。どうして私を攻撃しようとしたのだろう。責めるつもりなんか更々ない。ただただ、気になったのだ。私はこのキュウコンのことを知りたいと思った。それだけの思いで、私は彼に尋ねた。
「きみのことを、教えて」
知りたい。灯された好奇心のままに赤の瞳を見つめる。状況からしたら、私は危ないのかもしれない。このままかえんほうしゃをされたら、私は一溜まりも無いのだから。なのに、何でこの赤い瞳には敵意が失せ、代わりに恐怖心が現れたのだろう。瞳に反射して見える私には、ただ透明な好奇心だけしかないけれど。
『…あ、ああ、』
野生だからだろうか。やつれ、艶のない毛並みに、細すぎる身体を震わせ、彼は少しずつ声を絞り出す。
『…貴女の、貴女のせいで、僕は!』
突然だった。薄紫のボンヤリとした明かりがくるくると目の前を回る。それに気を取られ目を奪われていると、ヒナリちゃん!と鋭く私を呼ぶ声がするけど、もうそれも遅く。ああこれはきっとあやしいひかりだと気がついた時には、既に眩暈で視界が気味悪く歪んでいた。彼方が咄嗟に人の姿になり私を支えてくれたおかげで、何とか平静を取り戻すものの、キュウコンはもう私に背を向け、九尾を靡かせながら岩陰へと去ってゆくところだった。…まあ、仕方ないかもしれない。そのつもりはなかったとはいえ、不躾に迫りすぎてしまったと言えなくもないから。そんな風に思い返していた矢先、目の前をリーフィアの姿、千紘が颯爽と駆けてゆく。あの、キュウコンの消えた場所を目掛けて。まさか私の分を反撃しようだなんて言うのだろうか、そんなの、させたくない。私と同じように驚く彼方の腕を飛び出し、千紘を追い掛け走る。
「千紘!やめて……、千紘?」
だが、岩陰の裏で、私は固まってしまった。千紘はキュウコンの目の前まで迫っている。しかし、そこで止まっているのだ。見つめあったまま、動かない。まるであの赤い瞳の中に何か大切なものを見つけてしまったかのように。はたりと、千紘の耳が力を失い落ちていく。そして琥珀色の瞳をまんまるにして、キュウコンを見つめ続けている。…一体、どうしたというのだろう。一方のキュウコンも、そんな千紘に少なからず驚いているようで、きょとんと目を丸くしていた。その視線を逸らすのも憚られるのだろう。戸惑ったように、赤を返す。
『…おん、なじ?』
『は…』
一歩、二歩。恐る恐る踏み出す四足。鼻先が触れ合いそうになった時、はっ、とキュウコンの赤い瞳が開かれた。そして突如、やつれた金の九尾を散らして逃げ帰ってゆく。その姿を視線だけで追い掛ける千紘に、今度は私が恐る恐る、歩み寄って千紘の元へ座り込んだ。
「ちひろ?」
『ん…?なに?』
「あのキュウコンに、何かあるの?」
ちょこんと澄ました顔つきで私を見上げる千紘。葉のかたちをした耳が、ふわりと右に揺れる。どこか曖昧な何かを持つ琥珀色を、私へと向けながら。
『…俺と、おんなじだった、から。匂いとか、顔とか、おんなじ…かも。でも、何か、違う。何が違うのかは、わからない』
口調は相変わらずだが、それでも千紘にしてはやけに饒舌だ。同じ匂い、同じ顔…全くそんな風には見えなかったけれど。千紘なりに、何か感じ取るものがあったんだろう。千紘は、様々なことに敏感だから。あのキュウコンは、一体何を思い、何を感じているのだろうか。一度付いた灯りはなかなか消えず、かえって勢いを増してゆく。千紘もそんな私を不思議そうに見つめていた。
やがていつの間にか追い掛けてきていた彼方達に言われて、そういえばあやしいひかりを貰ってしまったんだっけ、とようやく思い出した。念のためポケモンセンターへ、と連れていかれる間も、やはり頭の中はあのキュウコンのことでいっぱいだった。知りたい。無闇な好奇心は人を傷付けると分かっているけれど、それでも知りたいと思った。あの敵意と恐怖は、どうして生まれたのだろう。どうして。なぜ。…そればかり考えているから、もしかしたら私は本当に混乱状態なのかもしれない。
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