朔月をも照らす灯火

実際私に大した異常はなく、念のためとキーのみで出来た飴を一粒、おまじない程度にはなるだろうと渡された。グレン島のジョーイさんは随分と表情に乏しい女の人で、診察を受けている時は少し怖かったけど、そういうところ、何だかんだ茶目っ気のある人でもあるらしい。ありがとうございました、と礼を言った時、私は初めてあのジョーイさんの笑顔を見た。不器用な笑顔だった。

それでも気がつけばあのキュウコンのことばかり考えてしまう。好奇の灯りはより一層眩さを増していき、私の中全てを支配しようとしていた。あの時、虚勢と不安を含んだ赤の瞳が脳裏から離れないのだ。夕ご飯も食べ終わり、部屋に帰ってからも私はずっとそんな調子だったらしい。彼方達が部屋の中で騒ぐ中、私はひとりバルコニーに出てぼんやりと海を眺めていた。

真昼のものとは違って、真っ黒な海。その奥でランターンやチョンチーの灯りだろうか、橙のような黄のような色がゆらゆらと揺れて、その光が青色を仄暗く映し出していた。この辺りはほとんど電灯もないから、それがより顕著なのだ。それを見ると、ああ確かに私の育った町なのだと改めて思うのに、なぜか私はどこか地に足がつかない心地がしていた。意識だけが真っ黒な空に浮遊して、そこから無心になって光や音を感じているような心地。こういうことを思えばいい、というような感情が分からないのかもしれない。嬉しいなら嬉しいと思えばいい、悲しいなら悲しいと思えばいい。なら、今の私は何を思えばいいのだろう。

木製の手すりに両肘をついて、溜息をついた。潮風がそっと頬を撫でていくのを、ああ寒いな、と思った時、ふわりと背中に被せられた何かと、投げられた穏やかな声。

「ヒナリちゃん」

見てみると、背中に掛けられたのはよく見慣れた青のジャケット。そしてその持ち主である漣が私の隣にやってきて、やっぱり手すりに肘をついた。目をパチクリさせる私を見て、漣は瞳を細めた。

「外でひとり切なそうだったので。邪魔なら、ちゃんといなくなるからね?」

「え、…うん、大丈夫。いてくれたほうが、いいかな」

「なら良かった」

潮風がもう一度やってきて、私と漣の間を通り抜ける。多分、漣は気遣ってくれたのだろう。肩に掛かった、体格に合わないジャケットをぎゅっと握り締める。それを見た漣が、着ちゃってもいいんだよ、なんて言うから、…遠慮なく。寒かったのだ。ぶかぶかのそれに腕を通すと、確かに暖かい。まるで恋人みたいだと、ちょっと照れる気持ちもあるせいだろうけど。だからきっと、ジャケットを着れるはずもない頬までもが暖かいのだろう。そんな風に火照ったまま漣を見上げると、彼は少しきょとんとした後、なんだか真面目そうな顔をした。

「…ヒナリちゃん」

「…う、ん?」

「お散歩しよっか」

「うん…、え、お散歩って」

何とも漣に似合わない言葉だ。私の手を引いて、漣はバルコニーから砂浜に降りた。一緒に降りようとするけれど、この暗さで足元が見えずに右往左往する私を、漣は脇の間に腕を通しひょい、と抱き上げてから下ろしてくれた。それからしばらく、漣が進むままにちょっと早足で砂浜を歩き続けてたけど、ポケモンセンターが遠くなるにつれその速度はゆっくりになっていく。そしてようやく隣に並んだとき、漣はふと私と目を合わせると、ちょっと悪戯っぽく笑った。

「ごめんねヒナリちゃん、今のヒナリちゃん見せたら俺きっとぶっ殺される…多分主に理央に」

「…な、なんだ、そういうことだったんだ」

「本当はそれだけじゃないけど。…ヒナリちゃん、俺のこと笑っていいからね」

昼間のグレンの海とは少し違う、もっと異国の海のような、深く遠い青色。気の所為か、少しだけ淀みの見えるその瞳が、ほんの一瞬、一瞬だけ。月明かりを反射して鋭利に光る。それに目を取られる間もなく、彼は瞼をやさしく閉じて、微笑んでいた。

「…ヒナリちゃんは、随分あの野生をお気に召しているようで。ちょっとだけやきもち?なんてね。ほら、だから言ったでしょ、笑っていいって。一応俺一番おとなのはずなのにね」

そう言って自分から笑っているけれど、私はどうにも出来ずにいた。あの野生というのは言わずとも分かる。私は彼を気に入っている、のだろうか。言われてみて初めて、さっきからあの子のことばかり考えてしまっているのに気が付いた。のめり込んでしまうとなかなか戻ってこれないのは前からの癖だけれど、改めて指摘されると本当なのだなあと思う。それに、漣にやきもちをさせてしまっていたなんて。ちょっと可愛いと思うけれど、それを笑うというのは少し違う気がする。だって元々の原因は私だし、手持ちの自分よりも野生の子を可愛がってモヤモヤしてしまうのは、おとなもこどもも関係なく当たり前じゃないのかな。むしろそれだけの、…少しの束縛のをするだけの想いを私に寄せてくれていることは、嬉しいことだ。

「漣、」

そう思って、言おうとして、私は俯いていた顔を上げた。けれど、喉元まで出かかった言葉はするりと飲み込まれてしまった。少し欠けはじめた、均等の崩れた月――確か、十六夜の月と言うんだっけ――その隣に並ぶ愛おしげな微笑みが、どうしてか私を躊躇わせる。きっと、どこか一線を置くような、踏み込んではいけない何かが漣の中にあるのだ。そしてそこに一歩踏み出す勇気を、私はまだ持てずにいるから。すぐそばにいるはずなのに、遠い。俯いた先の砂浜に、白線でもあるような気がした。

潮の香る夜風が、私たちの間を通り抜ける。ふと握りしめた服の青色に、そういえば借りた漣のものだということを思い出した。縋るようにもう一度腕を抱こうとしたとき、ふとその動きが止まる。…どこからか、声が聞こえた。苦しみに呻くような、喘ぐような声が、どこからか。漣ともぱっと目を合ったから、漣も気がついたのだろう。人間の私より耳が良いのだから当たり前だ。

「…漣、どの方向から聞こえるか分かる?」

「うん。一応、ね。あっちの崖の方向かな」

そして考える。今この荒廃したグレン島にいるのは、私たち五人とジョーイさん。ポケモンセンターにも人はいないようだった。人は、いない。けれど、人ではないあの子がいる。方向だって昼間に会ったあの崖のほうだと言うし、鳴き声の主はもう確定していると言っても良いだろう。きっとあの子に何かがあったのだ。そう思うとぼおっとしていた体が一気に目が覚める。あのキュウコンに、一体何があったのか。漣が顔を向けた先、崖の方へ向かおうとしたけれど、それは不意に阻まれる。漣が私の手首を掴んだのだ。顔と顔が向き合う。漣はなぜか、まるで自分の行為に驚いたかのように目を丸くしていた。

「…漣、私行かなきゃ、」

「…うん。そうだよね」

ふわりと笑って、漣は私を手放した。何かを押し殺したその表情の意味を、私はそのとき深く考えずに走り出す。だから漣の零した独り言には、当然気付くはずもなく。数歩後ろの足音は、ただ私を追い掛けるだけだった。


*****

欠け始めの月を、崖が突き刺しているかのようだった。それなら彼の姿は、欠落して墜ちた月か。九つの尾は力無く垂れ下がり、腹部を地面にだらしなく貼り付けたキュウコン、その悲痛な様子と呻き声から、彼の容態が良くないことは明らかだ。草陰を越え、駆け寄ろうと足を踏み出すけれど、それもすぐに止まる。ヌチャリとした感覚と嫌な臭気に足を上げれば、…言葉にするのにも憚られる。ただ、ポケモンフーズの残骸があった。却って目を反らすことができなくて、背後からやってきた漣にそっと声を掛けられるまで私はただ立ち竦んでしまっていた。これが誰のものかは、もう分かりきっているに等しい。ふう、と息を吐いてから、恐る恐る歩み出し、彼の元へ座り込んだ。毛並を梳かすと、月光に照らされたその黄金がチラチラと瞬く。

「…キュウコンくん、」

『うっ…ああ…、ね、さ…!』

尾のひとつが鞭のように私の腕を叩きつける。走る痛みについ顔を歪めるけれど、きっと目の前の彼の方が苦しそうな顔をしていた。赤の瞳の虚ろな姿を見え隠れさせる彼は、まだ夢の中にいるようだ。しとしととした呻き声と泣き声の中に、独り言のような単語の端々が混ざっている。聞き取ることはできないけれど、夢に苦しんでいるのは事実だ。漣が止めるのも聞かず、私は息を整えるともう一度、彼の背中に触れた。

「キュウコンくん、大丈夫、それは夢だよ、」

『ああ、ぼくが、僕が全部、僕だけが…、!』

それでも鳴き止まない、泣き止まない彼の様子を見ること自体が出来なくて、もう無理やりに頬を両手で包み込んでしまった。そうした瞬間ぱちりと開いた赤の瞳に、少し微笑みが漏れる。きっと夢から醒めたのだ。徐々に芽生えていた愛おしさからか、そっと額を合わせてみる。きらきらと潤み揺らぐ赤色が目の前にあって、きっとまだ夢から完全には醒めていないのだと思った。優しく、あやすように、言葉を紡いだ。

「だいじょうぶ…ここは、悪い夢でも、怖い夢でも、ないよ」

『え…、え』

「おはよう…、キュウコンくん。私がいるもの、夢じゃないとわかるでしょう?」

悪夢から彼を救えるなら、私の存在も利用したらいい。きみの嫌いな私がいる夢なんて、きっとすぐに目が醒めるでしょう…なんて、少し自虐的になってみて、なんだか可笑しい。夢に冒されていた瞳は徐々に現のものとなり、私を完全に捉えられたようだ。煌々と揺れていた赤色は徐々に落ち着いた色合いを帯びて、しばらく止まった。

『…夢、ですか?あれが、夢?』

「うん。夢、だよ。きっときみは悪い夢を見たんだよ。ここはだいじょうぶ、現実だよ。こわくないよ」

もう一度、金の毛並みに指を通す。さらりと流れるけれど、最後の一梳きが絡まって指は止まる。無理に引っ張ることもできずにいると、キュウコンはそっと瞼を閉じた。再び開かれた瞳は、暗く重く、鮮やかとは程遠い赤色。それに少しの驚きを覚える間に、彼は顔を逸らして小さく呟いた。

『そんなわけ、ないです。ここも夢の中ですよ。僕の夢は終わりません、永遠に、死ぬまで…』

「それは…、どういう、」

どういうことを、意味しているの。好奇の光が灯されたと思った、でもすぐ後にキュウコンは私の手を振り解くとぶるりと身震いし、しなやかな四肢を使いあっという間にその場を去ってしまった。居場所をなくした私の手のひらは、まだあの子の温もりを宿している。どういう、ことだったんだろう。醒めない夢、死ぬまで終わらない夢。彼の残した少しずつの言葉が頭の中を巡る。何故あんなに悲しそうな顔をしていたんだろう。私は、何をしたのだろう。知らないことばかり、…知りたい。彼の抱えた何かに、心を惹かれてしまう。好奇心で誰かの心を抉ることはしたくないけど、でも、あんな悲しそうな顔をずうっと、死ぬまでしていなきゃいけないのは、あまりにも辛すぎると思う。そうだ、私が何かしたと言うのなら、少しだけ君のことに触れる権利もあるだろう。だんだんと、灯は彼の何かを照らし始めている。

残された温もりも冷めきった時になって、ようやく漣の声に気が付いた。帰ろう。微笑まれるけれど、意識はまだここにいたいと切に願っていた。
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