朔月をも照らす灯火
翌日。もう一度あの岬に訪れてみると、やっぱりいた。そっと足音を立てないように近寄ったつもりだけど、やっぱりポケモンはポケモンだ。あっさりと気配を察され、前屈みの威嚇体勢で迎えられてしまった。
『…何の用ですか』
火炎放射はまだ飛んでこない。きっと大丈夫、押し切ってしまおう。ちょっとだけ口元に微笑みを浮かべて、無言のままに隣に腰掛ける。すると今度狼狽えてしまったのはキュウコンのほうで、どうしたらいいのか分からず視線を泳がせていた。私も少しいじわるになって、わざと微笑んだまま、視線を目の前の海にと投げる。
海も、普段は静けさが支配する空間なんだろうけど、今日は違う。朗らかないくつもの声が水面から聞こえてくるのだ。その中心にいるのは漣の背中に乗った彼方で、この辺りに住むランターンやチョンチーとすっかり打ち解けているらしい。ぴかぴかとオレンジや黄色の光が瞬いて、どうやら歓迎されているようだ。その彼方の膝で眠っているのは千紘。天気が良いから、リーフィアの姿に戻って光合成をするのはとても気持ちが良いのだろう。それから理央はというと、パチリスサイズの小さな浮き輪で気ままに泳いでいるようだ。理央らしい、と思って眺めていた矢先、波に煽られ浮き輪がくるんと一回転して溺れそうになっていたけれど、無事に漣に咥えられ助けられていてホッと一息ついたりと、ここでもやっぱりやんちゃなようだ。
ふふ、と笑っていると、そんな彼らの様子をキュウコンも見ていたようで。横顔がなんとも不思議そうで、それにもつい笑えた。
「私の仲間達なんだよ。それぞれマイペースだけど、でもとっても優しいの」
『…貴女は今、一人で僕の元に?』
「あ…うん。そうだよ、一人、だけど…」
『貴女には身を守るという発想がないんですか、僕が攻撃してくるということを考えなかったんですか…本当に人間なんですか。そもそも、僕の独り言を何で拾えるんですか。…あの時は錯乱していて気になりませんでしたが、何で』
まくし立てるように語り出したキュウコンに、確かに言われてみればそうかもしれない、と思ってしまった。思えば、なぜだろう。今この子に対する恐れはあまりない。火炎放射をされたら私みたいな人間はひとたまりもないのに。その事実を改めて確認しても、この場を離れようという気は起こらない。その理由は曖昧だけど、少し思いつくことはある。
「…だって、私はあなたを倒しに来たわけじゃないもの」
『じゃあ、』
「あなたを知りたいだけ。過去に私が、あなたに何かをしてしまったと言うのなら、それも知らなくちゃいけないと思うから。…でもそれだけじゃなくて、私が、単にあなたに興味があるから」
無粋だとは分かるし、この子の嫌な記憶に立ち入りすぎているのも分かっているけれど、それでも他に何もない私の心が、"知りたい"と願っている。ちょっと狂ったような気持ちに自分でも驚いてしまって、引かれても逃げられても仕方ないと思いながら、だめもとで隣に笑いかける。でも意外にも、まだそこに彼はいてくれた。金色を靡かせ、ただじっと私を見ていた。
「それと、私があなたの――ポケモンの言葉を聞くことが出来るのは、…言いにくいけれど、そういう風に生まれてしまったというか…。あんまり自分で好きとは言えないんだけどね」
『……。貴女は、おかしい…』
溜息とともに呟かれた言葉を、意外にも笑って聞ける自分がいた。普段なら何よりも聞きたくない言葉でも、このキュウコンの言い方はそういう嫌な、気味の悪いものとは違ったのだ。むしろくすりと微笑みたくなって、少しいじわるに話し掛けてみる。
「ねえ、私は私のことを話したよ。今度はあなたのことが知りたいな。嫌?」
『…もう、諦めました。でも僕に何も話すことなんかない』
「じゃあ、…そうだね、グレンの話をしたい。キュウコンくんは、やっぱりポケモン屋敷で育ったの?」
懐かしい単語を口にすると、キュウコンくんが少しだけ身体を震わせる。そしてしばらく間を置いた後に、重い口が開いた。
『……、はい』
「私あの時はまだ小さかったから、周りの大人に入ったら駄目って言われてて。だからどんな所だかよく知らないんだ。…どんなところ?」
『…人間は、ちらほらと。元々は人間の使っていた研究施設だったらしいですから、その資料や金目のものを狙った泥棒や研究者と、物好きなトレーナーばかりでしたね』
不服げに話し出した割には、やけに饒舌に語り出してしまっている。あまり多くの言葉は返さずに、できるだけ相槌で彼の話を促し続けた。話の内容が知らないことばかりだというのもあるけれど。
「へえ…じゃあ、ポケモンは?」
『ポケモンの群れなら、ベトベターやコラッタ、ポニータ…それから、僕たちロコンの群れとガーディの群れ。因縁があるのか何故か対立していて、お互い顔を合わせようとしませんでしたね。女系の一族と男系の一族だからでしょうか…それと、』
すらすらと、あたかもついこの前の出来事のように彼は語る。きっと彼にとって、グレンの記憶は決して遠い昔のものではないのだろう。今でも鮮明に蘇る記憶。ずっとこの島にほぼひとりぼっちで、話す相手も何もいなかったから、本当は余計にたくさん話したかったのかもしれない。私と彼方だって、しばらくぶりに話が出来た日にはお互い積もりに積もった話をたくさんしたものだ。ひとりぼっちの気持ちは、少しわかるつもりでいる。
「…でも、どうしてひとり…?」
心の声がいつのまにか音になっていた。はっと手で口を抑えた。さすがに核心だろう自然と彼から言うのを待とうと思っていたのだ。恐る恐る逸らしていた顔をキュウコンに向けると、…案の定、綻びかけていた表情は再び硬く綴じられていた。取り繕う言葉を探しているうちに、キュウコンは自ら訥々と語り出す。
『…あの、噴火で。この島の人間とポケモンはほぼ、船に乗ってグレンを去りました』
途端、脳裏に駆け巡る映像。燃える山。灼熱の溶岩の触手が街を襲う。…そんな、紙上の風景。それを、すぐ隣にいる彼の瞳は電波も何も通さず見たのだ、
『もしくは、ここで死にました』
「……え」
『はい。僕の目の前で死にました』
……見た、のだ。全ての惨状を、ありのままを。脳裏の光景はぷつりと消えた。あんなもの、このキュウコンの見たものに比べたら何千倍もあまくて、ぬるい。そんなぬるま湯の中にいた私が、彼に何を言えるだろう。何を言う権利があるだろう。今までの自分がただの厚顔無恥な愚か者だと今更ようやく理解できた。彼に合わせる顔をなくしていると、止まった時間を切り裂いたのはキュウコンのほうだった。
『僕だけこの島から逃げることもできず、死ぬこともできず、生き延びてしまったんです。滑稽でしょう。自分でも笑えてきますよ』
「そんなの、」
『慰めの言葉なら要らないです』
反射的に言ってしまったことも、ぴしゃりと跳ね除けられる。俯いた先のスカートの皺が、気がつかないうちに随分と増えていた。そんな私をよそに彼は嘲笑をやめない。
『……、かなしいもの、でしょう。哀れで、まるで悲劇の主人公のようでしょう。そんな自分に陶酔しているのも、また笑えますよ…本当に。かなしい』
「かなしい…」
『そう、かなしい』
ふと、何かが頭の中を貫く。これは既視感と言うのだろうか、何か、ついこの前同じようなことを私は聞いたような…。靄の中の記憶を手探りで尋ねるうちに、あった。ここへ来る前に訪れた島の、あの紫色のひと。彼もまた、自身のことを哀れみ嘲り、かなしい、と表現していた。その姿と重なるのだ。
私は、何と思う?そう問いかけて考える。事実は決して変えられない、あまりにも悲惨な現実の中、ただ一匹生き残ったという事実は。可哀想だとは、思う。ひとりぼっちの気持ちは、わかっているつもり。けれどそうではなくて、あの島で思ったのと同じで、事実は、彼がここに"生きている"という事実は。このキュウコンと出逢えて、話が出来たという事実は。
「うれしい…よ、私は」
『……は?』
「キュウコンくんは、私にとったらうれしい存在だよ。だって、生きて、今こうして出逢えたんだもの。うれしい。私は、あなたが生きていて、うれしい」
もちろん私は彼と同じ経験をしたわけではないのだから、彼の痛みの全てを理解することは出来ない。あくまでもよそものにすぎない。けれど、よそものだから思うことだってあるのだ。
キュウコンは唖然としていた。言葉も出てこないようで、ただ、その場で私を瞳に移している。瞳の中の私もまた、同じように彼を見つめ返す。けれど不意に鏡は消え去り、ぷいとキュウコンはそっぽを向いた。そして背を向けて一言、ぽつりと落とす。
『…意味が、分からないです』
しゅるりと細長い身体をしならせて、あっという間に金色の姿はいなくなってしまった。取り残された私は仕方なく、その消えた方向をぼんやりと眺め物思いに耽る。
同情の視線は、きっと彼が求めるものではない。それが分かるのは、自分自身がそうだったから。病魔に冒され旅に出られず、皆私を可哀想に、と言った。それが嫌で悔しくて、とても不快だったのを未だに覚えている。でも、だからあんな風に言ったというわけではなくて、単に私は思ったことを述べただけ。裏も表もなく、私はあのキュウコンが生きていることを喜ばしく思った。それだけの話。
言い訳のようにそう思いきってしまうと、細波の音が少しずつ大きくなっているような気がした。
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