朔月をも照らす灯火
しばらくはこの島に留まることになった。時間の縛りはない旅だし、あのキュウコンにここまで踏み込んでしまった以上、じゃあさよなら、なんて去りたくないのも大きな理由のひとつだ。ジョーイさんも少しずつ口数が増えてきたり、あのキュウコンとだって皆少しずつ距離を縮めてきた、…私は避けられているみたいだけど。最初に歩み寄ったのはやっぱり物怖じしない彼方で、あの嬉しそうな笑みで近寄られるとさすがのキュウコンもたじたじのようだった。それから漣もこっそり会いに行っているようで、年齢も近いからか穏やかな談笑をしているのを何度か見かけた。一番謎めいているのが千紘で、夜中にこっそり忍び込んで、ただあのキュウコンの毛並みに包まれ眠っている、らしい。彼方づてに聞いた話だけど、そういえば初めて遭遇したときにも千紘は少し様子が変だったし、何かがあるのかもしれない、…単にあのふわふわの毛並みが心地良いからかもしれないけど。
そんな中、唯一全く交流を取っていないのが理央だ。何か思うことがあるのか、遠巻きにいつもの岬を眺めているところはよく見たけれど。だからそんな理央が皆を集めてキュウコンの元へ向かおう、と言ったときは、少なからず驚いた。どうしたの、と問いかけても、答えは曖昧にしか返ってこない。頭に疑問符を浮かべながら、ぞろぞろと五人でいつもの岬へと向かった。
太陽の光を反射して、黄金は随分と眩しい。気配に気付いたのかふと振り返ったキュウコンに、真っ先に駆け寄ったのは彼方だった。にぱっと嬉しそうな彼方にも少し慣れてきたのか、キュウコンはちょっとだけ笑顔に似たものを浮かべていた。
『どうしたんですか、えっと、…彼方くんに、今日は何だか大勢なようですし』
「えへへ、理央が話があるって。あのちっちゃい水色の子だよ」
キュウコンの目線が、岩陰にいた私たちのほうへと向けられる。それからまもなく理央が誰がちっちゃいだ、とか文句をつける…かと思ったら、意外にも黙ったままだ。理央はそのまま、私たちを置いてゆっくりと歩み始める。どこか口を出してはいけないような重みのある足取りは、彼方さえも退けた。そしてそれは、キュウコンの目の前で、止まる。
「…今から言うことは、あくまで僕の憶測の域を出ない。けれど、あんたを傷付けるのは確か。…いい?」
澄み渡る水の色――理知の色が、濁った赤をも貫き通す。キュウコンはしばらく何も言えずにいた。けれど、やがては俯いたままにこくりと首を縦に振る。それを確かめてから、理央は毅然と言い放った。
「…死のうとしたでしょう。この岬から、飛び降りて」
誰も、何も言わなかった。言えなかった。波の音、風の音さえ止んでしまった気がするくらい。瞬間に現れた静寂に、感覚や思考すら無になってしまったようだった。
「要するに、自殺未遂」
『……。どうしてそう思うんですか、貴方は』
「その姿。あんたがキュウコンであるということ。キュウコンは炎の石による進化だから、野生では存在しないはず。なのに、なぜあんたは"キュウコン"なのか。…確かな証拠はないけれど、あんたはきっと、この岬から飛び降りた…死ぬ目的で、自ら。だけどあんたは当たりどころが悪かったのか、上手く死ねなかった」
言葉だけが次々に流れていく。それを私は噛み締めることなく、ただ、流す。
「しかもその落ちた先には不運なことに、炎の石があった。昔誤って島の子供たちが落としたやつ…ヒナリたちが見ていた、あの石が。何が起こるかは分かるでしょ、進化してしまったんだ、千年生きるというポケモン、キュウコンに。死ねなかった上に、千年も生きろと言われるだなんて。…多分あんたは絶望した。そして萎えて、諦めた。きっと自分は死ねないのだと」
『……』
「ちなみにヒナリを恨んでるのは、炎の石を落としたのを傍観していたヒナリは、そんな死ねない理由のひとつだったからっていう、ただの逆恨み。…どう、この推測』
冗談めかして言う割に、理央の表情は暗かった。キュウコンの答えを聞くのが怖い。落ち着きはらった理央も遠のいていく気がする。ぽつんと自分の心だけが浮かんで、周りに何も見えない。死ぬ、だとか。まだ私は何も知らない。出来るなら知らないままでいたいと願う自分の存在なら、知っている。けれどキュウコンの落とした言葉は、否が応でも私に現実を目の当たりにさせた。
『…だったら、悪いですか』
そうなんだねキュウコンくん、死を望んだんだね。気を抜けば涙腺が緩んでしまいそうだった。この前も泣いたばかりで、ただでさえ泣きやすいのに。涙を流したところできっと何にもならないから、ぐっと拳を握りしめて耐える。キュウコンはそれを言って何か取っ掛かりがついたのか、自暴自棄になったように早口で話し始めた。
――正確に言うと三回です。惜しかったですね。最初に図ったのは餓死。だけどこの島のジョーイさんに妨げられて、点滴を打たれてしまいました。
それからグレンジムのカツラさんのところへ預けられましたが、ボールを壊して逃げ出して、海に入って入水自殺を図りました。それもまた、グレン島に流れ着いただけで助かってしまう。まるでこの島から離れられないみたいだ。
そして最後に、飛び降りました。そしたら今度は、進化ですよ進化。しかも、千年生きるポケモンなんかに。ほんと、まるでお笑いです。
理由は貴女達が想像する通りでしょう。たった一匹生き残った罪悪感に耐えられますか。僕を愛してくれた姉達や両親、皆に怨まれる夢を見るんです。何故お前だけ生きている、って。大好きな仲間を、僕は怨念にしてしまっているんです。僕はそれを怖がるんです。この、自分への怒りと仲間への謝罪を、どういう形で表したらいいかなんて、もうひとつしかないと思っていたのに。僕は死ねない。何回やっても死ねない。もう、何か訳があると思ってもいいじゃないですか。きっと姉さん達は、生きて苦しめ、と言っている。生きて、千年生きて、じわりじわりと命を擦り減らせと。千年かけてその罪を償えと。よく考えたら、死よりもそっちのほうが辛いでしょうから、姉さん達の判断は合ってますね。だから僕は生きることにした。ここでただ、僕は命を削ります。そして死ぬ時を待ちます。それの、一体何が悪いですか!
しん、と静寂が時を支配する。ずっと、真実をこの目に焼き付けたいと思っていた。この島の、キュウコンの全てを知りたいと願っていた。それがこんなにも残酷だとは思いもしなかった。知とは、時に痛みを伴うもの。そのことを今、痛みをもって知った。
それでも、やっぱり思ってしまう。生きることって、かなしいことなのか。私はまだうれしさしか自分では味わえていない。
茫然の中、皆が立ち竦んで何も出来なかった。だけどそんな中、ぽつりと声が聞こえた。…これは、漣の声。俯いたままの姿から発せられた言葉は、乗せられた思いに耐えきれないのがやけに震えていた。
「…悪いよ」
『……、は?』
「悪いよ。悪い。悪い」
悪い、悪いと呟き続ける漣を、キュウコンは怪訝そうな眼差しで見つめている。私達は声を掛けることも憚られて、ただ唖然と漣を見守っていたけど、突如事態は動いた。漣は大股にキュウコンへ歩み寄ると、かがみこんでその顔と顔を突き合わせたのだ。拳を握りしめ静かな怒気を込めた横顔が、私には妙に焦っているように見えた。
「悪いよ、そんなの。お前はその姉さんとやらの思いなんか無視して、勝手に独りで打ちひしがれてるだけだろ」
『はあ…!?姉さんたちは僕を怨んでるから僕は、』
…溜息。噛み付きかえすキュウコンに、漣はすう、と一度目を細めた。どこか不穏なその動作に驚く間も無く、漣は聞いたこともないような声量で、怒鳴った。
「…お前ほんとに馬鹿か。お前の姉さんたちはお前を愛してくれたんだろ。大好きな、愛してる子が自ら死を選ぼうとして命を棒に振って、誰が喜ぶ!誰も喜ぶわけがないだろ!」
『貴方に何が分かると言うんですか!?孤独とは無縁の貴方に、僕の何が分かる!』
「ああそうだよ、確かに俺は洞窟にいた時も今も大事な奴らがいて大好きな子もいる、お前みたいに本当に独りになったことはない!お前のことなんか知るか!」
漣はそう言い切って、俯く。キュウコンも突然収まった声に驚いたのか、青髪の隠す表情の内側を窺うようにそっと歩み寄った。けれどその赤の瞳はもう一度大きく見開かれる。漣が手のひらでキュウコンの頬にそっと触れると、かなしそうにその瞳を緩めていたからだ。
「でも、お前を愛した姉さんの気持ちなら痛いほどに思えてしまうんだよ…。自分から死のうとするなんて、そんなの許せるか…!」
「…漣、」
静かに彼の名を呼ぶと、はっと目が醒めたように漣は身体をびくつかせた。その姿や小さく揺れる瞳に、漣のほうが何かに怯えているような気がした。もう、いいよ。帰ってきて。私がそう言うと漣は「ごめん」、と一言、俯いたまま私の元へ戻ってきた。
「…ごめん、ヒナリちゃん。ちょっと俺、駄目だ」
片手で目元を覆ってしまっているけれど、口元だけは必死に笑っていた。落ち込んでいるの、だろう。漣は常に優しい。時に甘すぎるのではないかと思うほどに優しい。いつも私たちに愛をくれる。それは洞窟にいた頃も今も変わらないのだろう。だからきっと、キュウコンの言う「ねえさん」に想いを重ねてしまったというのは、容易に分かった。それに彼は、常に守ることに一生懸命だから。昔は人間から、今は仲間を傷付ける者から、守り耐え抜く盾。だからこそ、自分から傷付こうだなんて、ましてや死のうだなんて、許せるはずがない。
頑張って背伸びをして、目元を隠す手に触れてみる。手首を優しく掴んでみると、それはいとも簡単に外れて。不安に潤んだ子供のような瞳、そこには普段のような落ち着いた大人らしさはどこにもない。ただの、一匹のポケモンの瞳。そう、元々はそうだったのに、漣は特別優しすぎてしまったから。愛おしくて、髪をくしゃりと撫でてみると、少し笑顔が戻って安心した。
だいじょうぶだよ、といつものように微笑まれ、キュウコンのほうに視線を戻すと、彼は固まりきっていた。いつもは守る為に使われる漣の言葉が今は剣となって、キュウコンを突き刺したのだ。それに追い打ちをかける、…というのは少し違うかもしれない。包み込むように、でも確かな思いを持って彼方がキュウコンの元にぺたんと座って、語りかけた。
「僕は一人になったよ。ヒナリに会えなくて、誰も彼も知らないひとばかりで、どこかへ行くのがすごく怖かった。僕はヒナリと一緒の世界しか知らなかったから」
『なら、』
「だけどいつかヒナリと旅ができるって信じて、もう一度まっさらに世界を見てみるとね、ほんとうに世界は変わるんだよ。死んじゃったらその可能性はゼロになっちゃうけど、生きてる限りはそうはならない。事実一歩踏み出してみたら、ワカバの人やポケモンはすごく優しくて、独りじゃなくなった。なんとか生きてるから、こうして旅もできてる」
彼方は柔らかく微笑みかけるけれど、その瞳には目を逸らさせない強さがあって、それはキュウコンへと突き刺さる光となる。九尾さえもしなりと地に落ちて、心の何かが破壊されたかのようなキュウコン。光は、届いたんだろうか。
「彼方、そのくらいにしておきなよ。さもないと、……」
「理央、」
「帰ろ。…今そいつは、ひとりにさせたほうがいい」
冗談みたいな口調でそう言ったあと、マフラーをたなびかせ、理央はくるりと方向転換、ポケモンセンターのほうへ歩き出してしまう。それにゆっくりと付き従う漣と彼方だけど、私の足は止まったまま、茫然としたキュウコンを捉えたまま。理央が促す声がするけれど、聞こえないふりをして一度呼吸を整える。確かに私のこころあるのは、このことだ。岬のほうへと声を投げた。
「キュウコンくん、」
ゆっくりと、首がこちらを向く。途端にやってきた潮風は、彼の金の毛並みも、下ろしたままの私の髪も撫でていく。塵になどなりはしない。それがうれしい。
「私は…キュウコンくんが生きてて、うれしいと思うよ。キュウコンくんにとっては、そうじゃないかもしれないけれど…、でも、思うことはさせてほしいの」
『…いいです、もういいですから、早く帰ってください』
ぼそりと呟かれた言葉に促され、仕方なく理央たちの跡を追う。だけどそこにはひとり、足りない。千紘だ。辺りを見回すとすぐに見つかった千紘は、キュウコンから数歩離れたところで膝を抱え座り込んでいた。キュウコンもそんな千紘が少し不思議らしくて、俯きがちに視線を配らせている。千紘、帰ろう、と声を掛けてみてようやく私のことに気がついたようで、ふと顔を上げて私をまっすぐに見つめた。そして、ぽつりとまっすぐに、感情が読み取れないいつもの風に、言った。
「…ううん。もう少し、いる」
『何で、』
「…俺もわからない。だからもう少し、いさせて。だめ?」
食い下がったキュウコンと私を交互に見つめ、瞳の色で訴える。その溶けるような琥珀色に、私もキュウコンも押し黙るしかなく、キュウコンはまた視線を海のほうに戻すし、私もはやく戻っておいで、と一言告げて元の方向へ歩み出した。キュウコンのことで何かを感じたのは、私だけではないのだ。千紘だって、理央も彼方も漣も皆思い思いに考えがある。そのかけらはまだ胸の中で浮ついてしまっているけれど、もう少しちゃんと落とし込めたなら。振り返った先のあの子のことだって、もっとちゃんと…。そう考えてしまうのは、きった烏滸がましいことなのだろう。
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