朔月をも照らす灯火
「確かに、仰る通りです。一度本当に餓死を図っていた時に見つけて、私が点滴を打ちました。その後カツラさんに頼んでそこで生きるように仕向けましたが、…結局はまた溺死を図って、この島に来ていました。念の為とポケモンフーズをここの裏に置いておいたりしたのも私です。食べていたのかどうかはご察しの通りだと思いますが」
夜になり、さりげなくを装ってジョーイさんにあのキュウコンのことを尋ねてみた。やけに静かで笑顔もないジョーイさんだけど、その瞬間ぴくりと表情が現れたと、あとで理央が教えてくれた。…微かな動揺。きっと彼女もあのキュウコンのことを気にしていたのだろう。それから続けて私が尋ねると、カウンターの向こう側の彼女は嘲っているようにも見えた。
「あの子の過去のことは…、グレン島で家族を失くしたということは、」
「ある程度は予想できていましたし、そんな様子も見かけていたので…自らが作り上げたニセモノに、幻想にとり憑かれるような姿を、ね」
ふ、と溜息をついて、ジョーイさんは初めて私の前で口元を上げて、確実に笑った。私がその変化に驚く一方、彼女は気にせず、むしろそんな私の反応を笑うように言葉を落としていく。
「どうしてあんな奇妙なニセモノを生み出すんでしょうね。ホンモノを思い出せば、かんたんに幻想から解きはなたれるのに、…あわれです」
「…あわれ、」
「ええ。…ちがいますか?あわれとしか言いようがない、ホンモノはホンモノなのに」
ぐるりと、淡い青の瞳が渦を巻いているような気がした。何が正しいのか、何を思っているのか分からなくなる、頭の中を洗いざらいに掻き回されるような…、でもそれは理央の声で防がれる。ヒナリ、と厳しく呼ぶ声と、袖を引っ張られる感覚ではっと目が醒めた。ホンモノ、ニセモノ…。色々考えようと思ってやめた。私に分かることなんか、意外と少ないのだ。分かることはただひとつ。あの子の俯く表情が脳裏を過ぎった。
「ニセモノでも…、あの子の苦しみはホンモノだと思います…」
浮かんできた言葉は私の中で捕らえられる前に音になっていた。ほぼ独り言のようなことを口走ってしまって、思わずすみませんと頭を下げるけれど、ジョーイさんはきょとんとしたまま動かない。恐る恐る顔色を覗くと、ぱちぱちと目線がぶつかる。そしてその表情のまま、彼女はニンマリと厭らしく口角を上げた。
「…あなたのこころはとてもすなおね。それはとてもただしいことよ。あなたはこころのただしいトレーナー!あのこがめをつけただけあるわ。それはとーっても、とーっても、すてきなことなのよ!」
子供のような、…いや、壊れた機械の人形のような言葉と話し方に言葉を失う、まばたきをする、その間に目の前から彼女は消えていた、跡形もなく。理央と慌ててあちこちを探し回ってみたけれど、結局彼女の姿は見つからなかったのが昨日の夜。朝も昼も、食事などのポケモンセンターのサービスはきちんと置いてある。ただ、あのジョーイさんの姿だけがない。どことなく気味の悪い印象だけを残して、彼女は消えてしまった。
それでも今はあのキュウコンのことが先決だ。もう、あの子を放っておくという考えはすっかり失せている。どうしたらあの子に、少しでも前を向かせられるんだろう。悩みながらも時は淡々と過ぎていくばかり。それでもいいのだけれど、そろそろ外を見たいとうずうずしだしている心の内も感じるし、彼方たちにもそんな様子が見られるような気がした。皆で漣の背中に乗って、ひたすら遠くまで遊びに行っている日はけっこう増えてきた。元々は動き回って次々にものを見ているのが好きな子ばかりだ。…そろそろ、ここを発つときなのだろう。そう伝えてみると、彼らはそれぞれに頷いてくれた。
それと、あともうひとり、伝えなければならない子がいる。
ひとりですっかり通い慣れた岬に向かうと、珍しくあの子の姿はなかった。仕方なく座り込んで、足をぶらぶらと遊ばせる。朝の海は相変わらず凪いで穏やか。太陽が水面に反射して白を生み出している。水平線の先で霞んでいる薄紫の奥を見てみたくて、目を凝らして身体を前のめりにさせると、『あぶな…っ!』という声が聞こえて、ぐいと後ろを引っ張られた。なんとか後ろに手をついたからよかったけれど、そこにあったのは焦りの浮かぶ真っ赤な瞳だった。
『何やってるんですか、危ないでしょう!』
「あ、キュウコンくん」
『何故けろっとしてるんですか、意味が分からないです…!もし足を滑らせたらどうなるか分からないんです、か、……』
「…心配してくれるの?」
黙り込むキュウコン。…これは、もしかして、もしかしなくても、途中で気がついたというやつだろうか。なんだか可愛らしくて、両手で頬を包んでみる。最初に見たときよりも少し艶めいて見える毛並みだけど、触ってみるとそれはもっと確かな感覚になる。指と指の間に通る体毛が一本一本しっかりとしてきた気がするのだ。ぐりぐりと撫でてみると、鬱陶しそうに、でも満更でもなさそうに顔を逸らしていてなんだか微笑ましい。
『…貴女が死んだら、悲しむひとがたくさんいるでしょう』
「…そうかな」
『そうです。貴女は彼方くんたちにとても大切に思われているじゃないですか。僕とは違うんです、僕ひとりが死んだところでもう僕を覚えてるひとなんか、』
「ここにいるよ?」
じっと見つめると、もう視線を逸らしたり、拒まれることはなかった。私と同じように、じっと赤色を返される。私を見透かそうと、奥の奥を覗かれている気分だ。けれど互いに揺らぐことはない。それだけ、心を決めているのだ。
「…一緒に、来ない?」
そう、私はこのキュウコンと一緒に旅をしてみたいと思った。グレンの香りを持つこの子と、色んな場所で色んな出会いをして。それがどれだけ私にとってわくわくすることか。それに、手段は何でもいい。彼に一歩踏み出させたい、というのもある。踏み出してみて、色んなものから影響を受けて、そうしたらもしかして、彼は少し変われるかもしれない。だから。一緒にいてみたい、旅をしたい。
キュウコンの答えを待つ時間、意外にも私は落ち着いていた。もうそれだけ、考えきっていたのだ。まもなくキュウコンが口を開く。それまでにあまり時間はかからなかったと思う。
『嫌です』
…ああ。
「そっか。…理由を聞いても、いいかな」
『ここで罪を償わなければいけないからです。僕はやはり、生きなければならない』
もっと聞かせて、あなたの思うことを。そう視線で訴えかけると、通じたようにゆっくり目を伏せ、語り出した。
『あのひと、漣さん、でしたっけ…。彼にああ言われて、僕なりに色々と考えたんです。僕は今でも、死ねるのなら死にたい』
「それは、…嫌だよ」
『だって死んだら楽じゃないですか。皆の元へ早く逝きたい。でも、彼の言うように、僕の親や、姉さんの気持ちになった時、多分彼らは僕を許してくれないんじゃないかって、そう思ったんです。生き残っただけでなく、その命を捨てようとした僕を』
それが罪。自分から死のうとしたこと、それが罪だと、彼はそう言っているのだ。やっぱり、死ぬとか生きるとか、考えるだけで心臓がもみくちゃにされたような心地がする。でも逃げられない、逃げてはいけないから、私はうん、うんと小声で相槌を打ちながら、彼の言葉を胸の奥深くで受け止め続けた。
『その罪は、どうしたらいいのか。結論が出ました。生き続けること。千年このまま孤独に生きて、孤独に死ぬんです。それはとても辛いことですから、許してもらえるかな、と思って。これが僕の考えた精一杯のことです。だから、僕は貴女のポケモンにはなりません』
今まで彼の声を聞いてきた中で、こんなにはっきりとした声は聞いたことがなかった。私の目をじっと見て、迷うことなくそう告げたキュウコンくんの姿は眩しく毅然としていて、私も押し黙ってしまう。彼が、彼自身で決めたことだ。私はもう何も言えない。
…でも、そうと分かっていても。私は彼に前を向いてほしいと思ってしまうのだ。彼の選択は結局、一番かなしいもののような気がする。もしも私が死んで、彼方達が後追い自殺なんてしようものなら、私は悲しくて仕方ない。怒鳴ってやる。だけど、ずうっと何もすることなく、じわりじわりと命をすり減らすだけなのを空から眺めるのは、同じくらいに悲しい。大好きな彼方達なら尚更。
どうしたら嬉しいと思う?…その答えは、考えてみれば案外単純で、簡単だ。話しきって、またぼんやりと瞑想するみたいだったキュウコンの頬をがしりと覆う。九尾が大きく揺れ、声にならない悲鳴をあげるキュウコンには構わず、私は思いの滾るままに叫んだ。
「それは、すごくかなしいと思う!」
『なんです、か…!』
「キュウコンくんのお姉さんたちは、キュウコンくんに自分から死んでほしいわけでも、茫然と独りで生きてほしいわけでもなくて!」
あなたが笑っていたらいい。
そうなんじゃ、ないかな。あなたに笑ってほしい。幸せだって思いながら生きてほしい。キュウコンくんはきっと、前提条件を間違えたんだ。あなたの両親やお姉さん達は、あなたを怨んだりなんかしてない。今でもあなたを愛してるよ。それに、今はもうお姉さん達だけじゃない。私や彼方、漣も理央も千紘も、あなたのことが好き。あなたが生きてて、出会えてよかったって、皆思ってる。あなたが苦しむより、喜ぶ姿を見たいの。だから、良かったら一緒に、旅をしたい。どうにかして、幸せな顔をさせたい。あなたの嬉しい顔を近くで見ていたい。
海風が、九尾をさらさらと揺らす。それはまるで薄く霞む真昼の月のよう。赤い瞳がほんとう、を射抜こうとしている。それでも彼は、拒んだ。
『いやです』
彼はするりと身体をしならせて、あっという間に姿を消してしまったのは寂しかったけれど、そこまで私も心が沈んでいるわけではない。むしろ胸の中のわだかまりが解けたような、そんな心地の良さすら感じていた。全部全部、吐き出しきった。きっと、伝わって、受け止めてもらえたと思うのだ。その先でどう決めるかは、あのキュウコン次第なんだろう。
また、細波の音が聞こえた。そのさざめきは不思議と、清々しいものに聞こえた。
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