朔月をも照らす灯火

最近は、あの悪夢を見なくなってきた。代わりに昔の夢ばかり見る。初めての男の子だと言われて、姉さんや母さんたちに可愛がられた日々。姉さんたちは、僕をひたすらに可愛い、可愛いと褒めちぎって育ててくれた。その頃は僕も幼かったから、そう言ってもらえるのが素直に嬉しくて仕方なかった。遊び相手だって、ロコンという種族上周りはどうしても女の子が多かったから、かけっこや身体を動かすことよりもおままごとや花畑で眠ることのほうが好きだった。今日の夢は、はたして何だったか。もう夕暮れ時だ、夢の記憶なんて消えてしまっているけれど、幸せな夢だったのは覚えている。悪夢を見た日は、一日中僕のせいで歪んだ姉さんの顔や言葉が頭から離れなかったというのに。今思うと、姉さんのたおやかな笑顔がすぐ脳裏に浮かぶ。たおやかで、おだやかで、僕を愛してくれた最愛の姉さんたち。もう一度あの表情を思い返せるようになるなんて、思いもしなかった。

食べることだって、前よりも苦痛ではなくなってきた。食べることは、自ら生きようとする動作。早く死へと向かいたい僕には何よりも耐え難いこと。それでも姉さんは生きて苦しめと言っているのだから、食べなくてはならない。ポケモンセンターの裏側にひっそりと置かれたポケモンフーズを口に含み、咀嚼する。途端に体内に駆け抜ける生きる感覚、命が継ぎ足される感覚に、僕はなかなか耐えきることができなかった。だからこそ、僕が最初に図ったのは餓死という手段だった。飢えで身体が縮んでいくのは、心地が良い。なのに僕はいつのまにかあの薄気味悪いジョーイの腕に僕は抱かれていたのだ。点滴を打たれた身体は、今までになく活力に満ちている。…絶望だった。生きなくてはいけないと思い始めてからも、僕にとって食はただの絶望でしかなかった。口に含むまではいいもの上手く食べきれず、僕は独り鳴いていた。

そのはず、なのに。今となってはあの絶望を上手く思い出せない。それどころか、目の前の皿が空っぽになっているのを見て初めて、僕は気がついた。自分が食べることに苦痛を感じなくなっていたことに。もう少し量を食べたいとか、別の味も食べてみたいだとか、そんな欲求や、美味しい、という感情さえ芽生えていたことに。その衝撃は決して生半可なものではなかった。僕は、生きようと思い始めてしまっている。その事実をすんなりと受け入れはじめていることも、大きな衝撃だった。

夕陽が僕と、僕の世界である海を包む。オレンジ色にちらちらと瞬く水面は、どこか優しいような気がする。ついこの前までは、海を見てもその広大さに突き放されているような感覚がしていたのに。多分オレンジ色はあの子の炎を思い出すからかもしれない。眩しくて、ちょうどこの夕陽のようにあたたかな、冷えたこころを溶かす炎。同じ炎タイプだというのに、僕とあの子の炎の温度は随分と違う気がする。

そういえば、あのジョーイが一度僕を炎タイプのジムリーダー…確か、カツラと言っていたか。その元に送ったことがあった。彼のポケモンたちは当然炎タイプばかりで、僕を歓迎しようとしてくれたのだと、思う。けれどその視線に含まれる、同情や憐み。きっと彼らは無意識で、悪気はこれっぽっちもないのだ。それでも僕は、その視線を何よりも嫌悪していた。僕が欲しいのは同情じゃない、死だ!憎まれて恨まれて、死ぬことだ。そして早く姉さんたちの元へ逝きたい。独り生き残ったことへの許しを乞いたい。僕は可哀想ではないのだ、恨まれるべきなのに!ジムを飛び出した僕を、横目でちらりと見ていたらしいギャロップの独り言は、僕には届かなかった。無我夢中で海に身を投げ出す。帰ってこいという必死の叫びが後ろから聞こえていたけれど、それはだんだんと波の喧騒に消されていく。身体中を巡る炎が鎮火されていく感覚。気持ちが良かった。命が、薄れた。

なのに、どうして死ねない。慣れた砂浜の感覚に目を醒ますと、遠巻きにランターンやチョンチーが僕を眺めていた。ここは、死の世界ではない。僕は力ない体で必死に鳴き叫んだ。神様、どうか僕を殺してください!姉さんたちを怨念とさせてしまった罪を早く償いたいのです。ほとんどやけになっていたのだと思う。僕はこのグレン島で一番見晴らしの良い岬へ駆けて、墜ちた。水泡が身体中を突き刺す。肺が空っぽになって、その代わり六本の尾が重石となっているようだ。まさに沈没をしていた時、途端眩しい光に目が眩む。身体の中の熱がぐんと燃えて、重石となっていた尾はさらに重くなる。骨も肉も伸びていく感覚。何が起こったのか全く分からなかったけれど、酸欠状態の脳でば何も考えることができなかった。分かったのは、再び砂浜に打ち付けられた時だった。水面に反射する自分の姿は、それまでの赤茶色の体毛ではない。黄金の毛並み。九本の尾。…笑ってしまった。何で死に向かったはずが、千年も生きるポケモンに進化しているのだろう。

薄い笑いは、だんだんと嘲笑へと変わっていく。どうして僕は死ねない、どうしても僕は死ねない!どうしても、何をしても死ねないのだ!こんなのまるで喜劇だ。何か、何か理由があるに違いない。そう考えた時、僕は気がついた。姉さんたちは僕に死を求めていない。死ではない苦しみを、きっと今のような苦しみ…生の苦しみ。それを味わえと、千年かけてその苦しみを味わいきれと言っているのだ。そうでないとおかしい。早く死んで楽になりたいだなんて、よく考えたらあまりにも僕に都合が良すぎる。そんな甘い罰では姉さんはきっと許してくれない。僕は、生きよう。生きてこの罪を償うのだ。そうしたらきっと千年後に姉さんも許してくれるかもしれない。

そう思って生きてきた。必死にものを食べ、今すぐにでも切り落としたい命の綱を繋いだ。吐きながら飲み込んだ。姉さん、これが貴女の望むものでしょう。そう思うと少しは救われた。これできっと姉さんは満足してくれる。だから苦痛を感じずにものを食べられるようになった今、姉さんはきっと怒っているはずだ。もっと僕への怨みを募らせているはずだ。冷静に考えればそのはず。…なのにどうして、僕の脳裏には姉さんのあたたかな笑顔が浮かぶのだろう。

原因は、予測がついている。彼女たちのせいだ。最初は恨みしか沸かなかった。彼女は直接的に僕を生かしたわけではないけれど、影で見ていたあの少年たちの光景が思い返された瞬間、頭に血が上ってしまったのだ。よくも、僕を生かせたな。頼りなさげでいかにも弱そうな女の子だ、僕が火炎を放てばすぐに怯えるものかと思っていた。だけどそれは、むしろ真逆だった。一瞬で形勢は逆転し、僕は四つの澄んだ敵意に貫かれていたのだ。僕に彼女を近づけまいと、轟音を立てて降り立った青の巨体と、その頭上で冷たく光った電流。焔と刃がすぐ喉元で僕を狙う。四匹に共通していたのは、彼らの瞳は皆澄んでいたこと。澄んだ敵意の、暗色だった。その真ん中に佇む彼女だけが異色で、彼らと同じ澄んだ目だったけれど、そこにあったのは真っ暗な敵意ではなく、明るく透明な興味。同情や嫌悪といった感情は一切なしに、彼女は澄んだ好奇心のままに僕を見ていた。

「きみのことを、教えて」

僕はそのことに、逆に怖気付いてしまったのだ。僕はいつの間にか、濁った視線を向けられることに慣れていたのだと思う。あのジムのポケモンたちは同情と可哀想の目だったし、あのジョーイはどこか人間離れした不気味な目だった。ここまで澄み渡った、裏表のない瞳の色たちを――それが敵意だろうと好奇心だろうと――僕は怖いと思った。だから逃げ出した。その瞬間リーフィアに追い詰められたりもしたけれど、彼は僕の目を見た途端に何かを思ったらしい。途端に覇気を失い、僕はあっさりと逃げ去ることができた。

それからも何かと干渉してくる彼女たちに、僕はとうとう姉さんの夢にうなされるところまでも見られてしまった。美しい姉さんを怨念にさせてしまった絶望は、僕を寝ても覚めても苦しめる。僕が全て悪いのだ。ひとりで生き残ってしまった僕が。だけど彼女に頬を包まれて抱き締められ、微笑まれたとき、僕はふと思い出した。姉さんのぬくもり。女のひとの柔らかさ、たおやかさ、慈しみに溢れた愛を。幻想のようなその感覚に、僕はホロリと涙を流しそうになった。けれどだんだん幻想が醒めていくと、それではいけないと理性が働き出す。姉さんは、僕に安らぎを与えようとしていない。僕が受くるべきなのは苦悩と絶望だ。僕は現実も夢も同じように苦しまなければならない。それをつい呟いて去ったけれど、それが彼女の好奇をさらに灯してしまったらしい。

彼女だけではない、彼女のポケモンたちもまた僕に興味を持ったのか、やたらと会いに来るようになっていた。裏表のない性格の彼方くんにはどうしてか僕も不快感を抱かなかったし、漣さんは距離感の取り方が上手いのか、やはり猛烈に嫌だと思うことはなかった。初めてできるからわからないけれど、同世代の男友達とはこういう感じなのだろうか。千紘くんは夜中によくやってきた。単に暖を求めてなのか、それとも別の理由があるのかは、本人にも定かでないようだったけど。ただ、彼は僕の目をよく見ていた。僕の奥底にある何かを見られているような気がしたけれど、彼からの感情はというと何も伝わってこないから、ただ不思議なだけだった。

そんな中、ひとりだけ僕に近寄っていなかったのがあの水色の少年だ。近寄っていないのにもかかわらず、彼は僕の真実をあっさりと見抜いた。ここまで来たら誤魔化したり逃げるのも阿保らしい。素直に認めて、全てを吐露した。

そこで初めて僕は、誰かに心から怒られたのだ。母も姉さんも、僕には甘かったから。あのひとに、漣さんに、僕の考えを真っ直ぐに否定され、僕とは真反対の立場の考えを言われて。真正面からぶつかり合って、互いに反発した。でもそのことは、僕に新たな方向の存在を知らしめた。姉さんへの贖罪は、生き残ってしまったことだけではないのだ。罪を償おうとしてやった三度の自殺も、また罪。僕はいつの間にか罪を増やしていたなんて。でもそれは後から考えたことで、その時はカッとなってただ噛み付くことばかりしていたのだけど。そんな脳内に今度は彼方くんの言葉が打ち渡る。生きてたら、踏み出してみたらなんとかなるかもしれないんだよ、とか。極め付けに彼女だ。やけに頭に響く鈴のような声は、憂いと共に、毅然とした凛々しさがあった。

「私は…キュウコンくんが生きてて、うれしいと思うよ。キュウコンくんにとっては、そうじゃないかもしれないけれど…、でも、思うことはさせてほしいの」

彼女は、僕の"生"をはっきりと肯定する。うれしい、とまで言ってみせる。それが僕の全ての価値観を破壊したのだ。うれしい、とは何だろう。何をもってうれしいと言うのだろう。僕にとって生きることはただ贖罪のためで、苦痛そのもの。そんな風に生かされている僕を見て、彼女はうれしいと言うのだ。分からなかった。彼女の何もかもが、分からなくなってしまった。

そして、今日。その訳の分からない彼女は明日にでもここを去るという。最後の挨拶にと現れた彼女は、一緒に来ないか、と僕に尋ねた。断るに決まっている。僕は姉さんへの罪を償うために、ここで独り生きなければならない、…生きなければならない、それが、僕の意思、なのだろう。それでも彼女は最後まで僕に真正面から向き合って、彼女なりの答えを伝えてくれた。姉さんたちが僕に生きろと言うのは、罪を償わせるためではない。ただ、僕が。
――笑ってくれたらいい。
風に乗せて運ばれてきた言葉に、たちどまる。蘇った彼女の声と、これは、誰の声だろう。女のひとの、たおやかで安らぎに満ちて、僕を慈しみ愛してくれた、…ねえさん。ねえさんと彼女の声が重なって、僕に囁くのだ。生きて、笑って。ほたりとなみだが落ちた。ねえさんは、僕を怨んでいなかった?僕に死んで欲しいのでもなく、苦しみながら命を使い果たして欲しいのでもなく、笑えと言うのですか。僕に幸せになれと言うのですか。そんなの、今更どうやって…!ずっと死と苦しみしか考えてこなかった僕に、何ができると言うのですか。何が正しくて、何が悪いんですか、ねえさん…!

…いや、きっと、それが違うのだ。姉さんはあの時、死んだのだ。瓦礫の下敷きになる瞬間を、僕はこの眼に焼き付けたじゃないか。死人に口はない。いつまで僕は死んだひとに縋り続けているのだろう。姉さんが本当は何を考えて、何を思っていたかなんて、今の僕に知る術などない。僕は、僕のために、何がしたい!そう思って、最初に思い浮かんだのは。

地平線の彼方に、夕陽が消えていく。今夜は確か朔月だ。いつになく暗い夜だけど、それならば黄金の僕が駆けよう。屈辱の象徴だったこの色も、今はどこか誇らしい。九尾を大きく揺らし、僕は僕の思う場所に走った。僕に祐をくれた、彼女の元へ。踏み出す時というのはきっと今なのだ。さあ、駆けろ。


その夜、黄金に走る光がグレンを包んだという。桃色をした不思議ないきものが、その姿をクスリと天高くから笑っていた。
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