朔月をも照らす灯火
「そっか、駄目だったか」
「うん。…でも、全部伝えきれたと思うから、いいの」
夜になって、キュウコンの出した結論を皆に告げると、それぞれが少し俯いた。皆思い思いに彼へ思いを馳せていたのだろう。たくさん話もした…一方的だけど。むすっとした表情が、だんだんと和らぐ様子を見るのも楽しかったし。本音を言えば、このままもう会うことなくお別れというのはかなり寂しいのだけど、それでも彼が出した答えなのだ。もう、止めることはできない。
隣に座っていた漣も、少し考え込んでいるようだった。一度はああも口論したけど、漣は漣なりに、あの子のことを考えたのだと思う。視線に気付かれてふと微笑まれて、そう伝えてみると、漣は眉を下げてへにゃりと笑った。
「…うーん。そんなに俺はいい奴ではないよ。ただあいつの言ってることが癪に障っただけ」
「そうそう。あのキュウコンもそうだけど、あんたも大概ジコチューだからね。自分で分かってる?」
はいはい、と笑いながら適当にあしらう漣に、理央が溜息をつく。本当に、理央はさらりと見抜いてくるから怖い。キュウコンのことだってそうだ、理央はそこまであのキュウコンに近寄ろうとしていなかったけれど、それでもあっさり真実を見つけ出してしまった。つくづくあの小さな頭の回転速度に感心するばかりである。その理央がふと振り返ったついでに、私は前から少し気になっていたことを尋ねてみた。
「そういえば、理央はどうしてあんな風に…私たちを連れ出して、本当のことを言おうと思ったの?」
振り返りざまの理央の表情がふ、と真顔になる。そこまで深く考えずになんとなく尋ねてみたことだったから、思いがけない表情の変化にたじろく私を、理央は真っ直ぐに見据えていた。
「…ヒナリが、知りたいと望んでいたから。その真実がどんなに苦しくても、痛くても、ヒナリは知るべきだと思ったから」
ほんとうを見透かす瞳は、多分私もお見通しなんだろう。水の色をしたそれはきっと、私の奥の臆病を見ている。ほんとうは、私ひとりでは、まだ見ないままでいたいと思ってしまう”死”を、理央は目の前に晒した。…それでも今では、知れてよかったと思う。そう言うと、理央は少し目を伏せてくすりと笑った。
「…ヒナリ。ちょっと、行ってくる」
「千紘、明日早いから今日はさすがにだめ…」
ぱたんと扉を開けて、千紘はまさに外へ行こうとしているところだった。行く先なんか、決まっている。千紘は随分とあのキュウコンに懐いていたみたいだし、気持ちを汲んであげたいのはあるけれど、また夜を海の上で過ごす恐怖はあんまり味わいたくない。「でも、」と食い下がる千紘に、理央がぴしゃりと冷たく呼びつけて、それで渋々部屋の中に戻ってきた。
「……。おやすみ」
それだけぽつんと言い残して、ベッドのある部屋に入っていってしまった。理央も理央だけど、千紘も千紘で淡白というか、何というか。でも確かに今は夜中の12時前。明日のこともあると言い出したのは私だ。そろそろ寝ようよ、と声をかけると、皆思い思いにベッドへと向かう。私もその流れに乗じて、毛布の中に潜り込んだ。
貸切状態のポケモンセンターでここ数日私がお世話になっているのは、この窓際のベッド。窓を開けた先のバルコニーはすぐ砂浜に繋がっていて、毎晩夜の海を眺めながら眠ることができる特等席だ。カーテンの隙間からこうやって懐かしい景色を見られるのも今日が最後と思うと、少し名残惜しい。でもまた漣に連れてきてもらうか、それかそらをとぶを覚えるポケモンに連れてきてもらおう。そうしたらまた来れるし、キュウコンにも会える。そう思ったら安心して、自然と瞼も落ちてきた。視界が徐々に霞んでいく。おやすみ、なさい。
…なのに、何でだろう。視界の奥、まるで月のような色が揺らめいている。最初は本当に月かと思ったけれど、今日は確か朔月――月の出ない夜だったはず。他の明かりがないこの島から見る月の光はとても眩しくて、覚えていたのだ。でも眠たさには敵わなくて、身体を起こすほどの力が入らないでいたとき、…がん!という、窓への衝撃。
「!」
ぶるりと身体が跳ね上がり、一気に目が覚める。同時に物音がしたかと思えば、彼方たちが飛び起きたようだった。瞬時に私の傍へ、私を庇うように佇む。
「何の音!」
理央が勢い良くカーテンを開くと、そこにあったのは、真っ暗な夜の中に浮かび上がる煌めく星のような赤がふたつと、黄金の姿。本当に月明かりのようだ、昼間よりも一層輝いてみえる。はっと息を飲んだ。
『キュウコンくん!』
動かずにはいられなくて、ベッドを飛び出し窓を開け、すまして座るキュウコンの元へ駆け寄った。夜風の冷たさが肌を刺すけれど、今はそんなのに構っていられない。それに彼の毛並みに触れた途端、手のひらじゅうに広まった温度がそれを全て忘れさせてくれた。ぎゅう、と抱きしめる。キュウコンは拒まなかった。
『…あの!』
だけどその振り絞られた声に、私も腕を離し彼の表情を伺う。彼方たちも少し距離を保ちながらも、その姿をじっと見つめているようだ。視線が集まる中、キュウコンは少し躊躇いかけている風に見えた。一度、目線が斜め下を向き、しどろもどろに彷徨っている。けれどもう一度瞳が持ち上げられたときには、もうそこに迷いはなかった。鮮やかな、澄んだ赤が目を奪う。
『バトルをしてください、僕を倒してください』
「バトル…?」
予想を超えた言葉に、私も彼方たちも皆瞬きをしてキュウコンを見直す。
『はい、バトルを…バトルをして、僕を捕まえるのなら、捕まえてください』
「どうしてそんな、突然」
『それは今はいい!だから、僕をこのグレンで倒してください…!』
キュウコンはそう叫んで砂浜のほうに駆けると、ばっと前屈みの戦闘態勢になる。バトル、だなんて。どんな心変わりがあったのか、今は全く分からない。おろおろと後ろを振り返ると、やっぱり皆驚きを隠せていないようだったけれど、ふと目があった彼方がにこっと微笑みながらつぶやくと、空気は変わる。
「うん!やろうよ、バトル!キュウコンくんが伝えたいことも、きっとバトルをするうちに分かる気がするんだ」
「…ヒナリちゃん。それなら、俺を出してよ」
ふわりと一瞬和んだ中にひとつ、低い声が紛れ込む。漣はキュウコンから目線を私に向けると、表情を緩めて微笑んでいた。確かに相性なら漣が一番だけど、本当にそれでいいのかなと少し迷っていると、漣は笑ってそれを否定した。
「ああ、相性のことなら違うよ。ただ俺が、あのキュウコンを倒したくて、話したいだけ。だからヒナリちゃん、だめかな」
「…うん、分かった。お願いするね、漣」
あれだけ真正面にぶつかっていった漣だ、さっきの様子でも色々とキュウコンくんについて思っていたみたいだし。その意図や思いは汲みたいなと、私も思ったのだ。漣は礼を言って微笑むと、キュウコンの前でひとの姿を解いた。青く大きなラプラスは、キュウコンの瞳にはどう映るのだろう。大きな、近づくことを許さない壁として映るのだろうか、それとも。
月のない夜、砂上に佇む二匹のポケモンは、理央が合図をした一瞬から空気を変えた。キュウコンがまず大きく息を吸い込んで、ぶわりと炎を吐く。かえんほうしゃだ。
「漣、みずのはどうで打ち消し、」
『ううん。…ヒナリちゃん、ごめんね。しばらく言うこと聞けないかも』
出してって言ったのは、そっちなのに。指示を遮られ、驚いている間にも漣は膨大な量の炎の塊に包まれる。でもそれをどうするわけでもなく、ただされるがまま。ラプラスは水タイプだけど、同時に氷タイプも含まれているから、炎技は普通に効くはずなのに。漣!と慌てて名前を呼んだ瞬間、漣は大きく首を振り、炎を雲のように散り散りにして消してしまった。そして、その大きな竜は下ろしていた首を持ち上げ、眼光をゆっくりと露わにしていく。挑発的とも、どこか妖艶ともとれるその蒼にびくりとしたのは、キュウコンだけではなく私もだった。
『…なんで、かわそうともしないんですか。僕を馬鹿にするのはやめてください!』
今度のこれは、じんつうりきだろうか。漣の周囲の空間がぐにゃりと歪められ、漣自身も身体を無理に歪められているようだけど、それでもその表情には何の変化もない。無表情、余裕の微笑みのようなものさえ見える。その姿にやけになったのか、キュウコンは次々に技を放っていった。あくのはどうが足元から侵食してきても、スピードスターが身体中に突き刺さっても、漣は動かない。それでも私の指示が聞こえなくなってしまったのではないというのは、表情を見れば分かった。漣は意図的に攻撃を受け続けている。どうしたらいいのかわからなくて、私はついにその様子を見守るだけになってしまった。
『…訳が、わからないです!』
キュウコンもとうとう怒りが最高潮まで達したのか、ごおと激しい炎を生み出したかと思うと、それを思い切り漣にぶつけた。れんごく、だ。音を立てて燃え盛る高温の炎に包まれ、陽炎の中のように漣の姿が歪む。漣がいくら耐えることを得意としていても、これだけの攻撃を受け続ければさすがに体力は削られていく。また首を一振りすると炎は消えたけれど、どうやら火傷を負ったらしい。身体のあちこちに焦げたような痕があった。…漣がこれだけ痛めつけられるのも嫌だし、これじゃあ本当にキュウコンに失礼だ。漣を信じたいのは山々だけど、漣のボールに手を伸ばしかけた時、漣は睨みつけるキュウコンに向かい、ふと笑った。
『そろそろ借りは返したかな』
『…は?借り…だなんてどういうこと、』
『借りは借り。この前は全然お前の話聞いてなかったし、ひとりよがりに俺のことを押し付けただけだったから。…言っとくけど、お前の話の内容を認めたわけじゃないからな。そういうのもあるのかって受け入れただけ』
ニッコリ、なんて効果音がつきそうなくらい愛想よく微笑む漣に、キュウコンも押し黙るほかないようだった。困ったように目を逸らし、「そんなの、」と小声で呟く声が聞こえた。でもその落ち着いた空気はすぐに破られる。…急に押し寄せた波に煽られ、キュウコンは水の中に消えたからだ。その犯人は言わずもがな。水浸しで這い上がってきたキュウコンをしたり顔で見下していた。
『な、いきなり何を…!』
『借りは返した。これでおあいこだよな?なら反撃に出たっておかしくないだろ』
クスリと意地悪そうに笑う漣は、ちょっと理央に似てきたのではないかと思う。だけどやっぱり漣は漣で、ふと真顔になったかと思うと心底楽しそうにもう一度微笑み直して、言葉を落とした。
『…なあ、バトルしようぜ。借りとか貸しとかどうでもいい、勝ち負けだけのバトルを』
キュウコンは訝しげに漣を覗き込む。けれど、二匹の視線がぱちりと嵌まると、彼は少し俯いて、わざとらしく溜息をついた。そして顔を上げたとき、その目にはもう怪しむような色はない。
『…悪くないと、思いますよ。そもそも僕は最初からそうしたかったんですから』
対峙していた二匹は、同じ瞬間にニヤリと笑みを零した。
ヒナリちゃん、待たせてごめんね。指示は頼んだよ。そう言われて私もようやくふたりの世界に紛れ込んだ。キュウコンのかえんほうしゃは今度こそみずのはどうで打ち消して、その隙にこおりのつぶてを突き刺そうと狙う。けれど氷はキュウコンのところにたどり着く前に彼の炎によって溶かされてしまって。一進一退の攻防が続くバトルを、二匹は生き生きと楽しんでいるようだった。炎が燃えて、風が舞い、二匹の獣の鳴き声が夜のグレンに轟く。そんなふたりの様子を、戦いながら私も必死に瞼の裏に焼き付けていた。うれしい。二匹が揃って、生きている力を存分に発揮していることが、うれしかった。
でもそんな楽しくて仕方ないバトルの時間はあっという間に過ぎてしまって。最初は圧倒的に差があった体力も、やはりタイプ相性があるからか、いつの間にかキュウコンのほうが肩で息をして苦しそうだ。まだまだ余裕のありそうな漣は、そんな様子を柔らかく見つめている。そして私は、静かに指示を発した。
「…漣、なみのり」
それは包むような、優しい細波だった。キュウコンの足元を浸し、尾を浸し、やがて倒れこんだその黄金の身体ごとを浸していく。波が薄らと引いていくと、漣はひとのかたちに戻ってゆき、私もしばらくは前身で鼓動を刻むキュウコンの姿を遠巻きに眺めていたけれど、やがてはそっと彼に歩み寄っていった。ぴちゃり、ぴちゃりという、私が水たまりを踏むちいさな音と気配に、キュウコンは伏せていた瞼をそっと開ける。その赤は滲むように光り、私をふととらえてしまった。
スカートをそっと抑え、屈み込む。他に何をするでもなく、ただ彼をじっと見つめていると、彼は一度私から目を逸らした。そして虚空に向かい、諦めたような、力のない微笑みを浮かべながら、彼は訥々と語り出した。
『…はは。貴女たちのせいなんです。貴女たちが、性懲りもせず僕の元へやってくるから、僕は絆されてしまったんです…。どうして、貴女と一緒にいたいと思ってしまうんでしょうね。貴女たちの輪の中に入ってもいいのか、幸せを望んでもいいのかと、思ってしまうんでしょうね…』
「…私は、望んでもいいと、思うよ」
『ありがとうございます。――事実今、漣さんと、貴女とバトルをして、誰かと一緒にいることで、僕はこれ以上なく、楽しかった…幸せを、もらってしまった…咎められるべきだった僕なのに、ね』
一度味わった幸せを、もう一度。そう願ってしまうのは、人もポケモンも同じなのだろう。それだけ聞くとなんだか欲深いみたいだけど、欲のなかった彼――幸せを望むことをしてこなかった彼にしたら、これは大きな変化だ。大きくて、祝福されるべき欲望だと思う。
横倒れになった彼の、金の毛並みに恐る恐る手を伸ばし、そっと撫でる。濡れていつもよりかさの減った様子は、なんだかいじらしい。何も言わず、ただ彼の言葉を待った。
『姉さんはどう思うんでしょう…。僕は本当に姉さんの思うことなんて分からない…僕のことを愛してくれているのかも、憎んでいるのかも、もう、知りようがない。でも分かるのは、僕自身の思うこと…僕は、僕のために、貴女たちのそばにいたいんです。生きなきゃ、じゃなくて、生きたいと、心から思うんです』
僅かに残った力を振り絞り、キュウコンは何とかその身体を起こし、必死にすまして座った。地に伏していた九つの尾がゆるりと持ち上がった時、ああ、本当に月のようだと思った。月のない夜だけれど、ここに確かにある月。愛を確かめて、受け止めて、輝く月。私にもあなたのことを、愛させてくれますか。そして輝いて、生きてくれますか。そんな私の胸の内の言葉に応えるように、彼は目を閉じ、頭を垂れた。
『僕を、どうか、貴女のそばで生かせてください』
「…うん。じゃあ、私もお願い。…私に、あなたを愛させて。そして、生きて」
『…喜んで』
縮んだ空のモンスターボールをポケットから取り出して、膨らませる。まるでひとつの儀式のように、ふう、と呼吸を整え、彼も私も微笑み目を閉じた。額にこつんと当てると、あっという間に赤い光の中に吸い込まれていく。目の前の姿は消え、手のひらの中の重みと温もりが増える。それを胸にぎゅっと押し当てた。
「祐月(ゆづき)、…かな」
「…ヒナリちゃん、それ、こいつの名前?」
「うん。たくさんの光を浴びて、輝くといいな…って」
振り返った先の彼方たちの笑顔に照らされたせいか、ボールがことん、と揺れた。
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