朔月をも照らす灯火

「ふねっがなっくてーも」

『くぅーん!』

「およっげなっくてーも」

『くぅーん?』

「きみーをよーんだーらたーびははじーまるーのさー」

いつだか流行ったという、どこかのジムリーダーの歌だっけ――朗らかにそれを口ずさむ彼方と漣の姿に、センチメンタルな気分も少し紛れてくる。それでもふと振り返ると、やっぱり戻ってきてしまう感傷に、俯いて笑った。

もう島の姿は霞み、白い靄の中に消えつつある。祐月はボールの中だけれど、それでもきっとその中から見ているはずだ。漣の背中からそれを眺めていると、ふとゆるりとした桃色の風が私の頬を撫で、尋ねる。

――どこまでいくの。そんな面倒な子ばかりを引っさげて、何をしたいの。

…何をしたい、どこまで行きたい。そんなのは決まっている。目指した夢の場所まで。そこにはきっと、ほんとうの自由があるはずだ。そう心のうちで答えると、もう一度前を向いた。しばらくさよなら、私の故郷。落ち着いた気持ちで呼吸ができた。

けれど、そんな時のことだ、膝の上で眠っていた千紘の耳がぴょんと立ち上がったのは。そのしばらく後に遠くから聞こえてきた、機械の重低音と波を掻き分ける音。船の音、だろうか。この辺りは確かセントアンヌ号の通り道でもあるし、おかしくはないけれど。重低音は徐々に大きくなり、その響きはだんだん漣に乗った私たちごと揺らしていく。私が彼方と顔を見合わせる中、漣と理央はやけに静かに現れた黒い影を見つめていた。そして向こうも私たちを捉えたらしい。拡声器を通した声が鼓膜をつんざきそうだ。

「ちょっとー!そこのラプラスに乗ったトレーナーさん、どこから来たのー!グレンジムなら行きすぎてるわよー!」

「あ、いえ…私たち、グレン島からジョウトに戻るところで、」

「なーんにも聞こえないわー!」

そう甲板の上の女性は叫ぶけれど、どうしようもないじゃないか、こんな船のエンジンの粗い振動が身体中を揺さぶってるというのに。それに元々大声を出すのは苦手なのだ。ええ…?と困ってしまっていると、後ろから彼方が私の代わりにと叫んでくれて、ようやく通じたらしい。女性は不可解そうに首を捻る。

「グレンからジョウトまでなみのりで?変わった旅ね…というか、グレンって言ったわよね、あなた」

「うん、グレンのポケモンセンターに数泊して…」

「…え?今あのポケモンセンターは無人のはずよ」

「え、でも…?」

「だって私があの島のジョーイよ。今の時期はほとんど人も来ないし、休暇を取っていたの」

私たちの前で止まった船、その甲板で風に煽られながらもなんとか立っている女性が、手に持った拡声器をばっと口元から外した。…紛れもない、桃色の髪に薄い青の瞳、全国共通どこでも同じ顔のジョーイさんに違いない。でもあの時、ジョーイさんは私たちの前に――途中で忽然と消えてしまったけど、確かに存在していた。それは事実だ。互いに顔を見合わせ、不思議そうに首を捻る中、すっと言葉を落としたのは理央だった。

『…あのジョーイさんは偽物だった。きっと、何かが成りすましていたんだ』

「でも、一体誰がどうやって…?」

『今思い出してみたら、少し推測がつくことはあるよ。あのジョーイさん、ホンモノとニセモノにやたらと拘るところがあったのは覚えてる?ニセモノを可哀想なものとして見下していたような…、それはきっと、何よりも自分が"ホンモノ"だから、じゃないかな。それから、グレンに行く前に訪れたニューアイランド島のことも思うと、…もしかして、』

キラリン、なんていうおもちゃの魔法のような音がした。ばっと顔をあげると、桃色の風が巻いて球体を作り出す。その中で蹲る胎児のようなポケモン、…聞いたことがある。幻のポケモン、全てのポケモンの遺伝子を持ち、変身能力を持つと言われるポケモン。それらの要素を考えれば確かに納得だけど、…納得だけど納得できない!こんな幻のポケモンがジョーイさんに化けていた、私たちは普通にそんな幻と話していたなんて、あまりにも現実味がなさすぎる。

ケラケラクスクス、ミュウは可笑しそうに笑いながら私たちと船の空間に浮かんでいた。皆事態を把握できずにぽかんとしていたけれど、その姿が遠い雲の彼方へ消えていったとき、私たちはようやく叫び声をあげることができた。


*****

そんな事件もありながらも、漣は順調に海の上を走り続け、予定よりも随分と先に進んでいるようだった。今日はワカバの海にでも着けたらいいかな、と思っていたけれど、実際夕方になってみるとヒワダの南あたり、ウバメの森の鬱蒼とした様子がぼやけた先に見えている。このままヒワダに行くという手もあったけど、せっかくの旅だ。色々な場所を巡ってみたい。そういうわけで、私たちは観光名所としてなかなか有名である「水の都」ことアルトマーレに来ていた。

港に降り立って祐月もボールから出てもらった後、あちこち散策タイムだ。アルトマーレはとにかく、どこを切り取っても絵画のよう。至る所に張り巡らされた水路、本土にはなかなかないような煉瓦造りの建物、異国情緒漂う雰囲気や人たち。キャンバスと風景を交互に睨めっこしながら筆を走らせる絵描きさんを度々見かけるのも納得だ。私も彼方たちもその物珍しさについあちこちへ視線がきょろきょろしてしまうけれど、そんな中くい、と袖を引っ張ってきたのは祐月だった。内緒話でもするみたいに小声で話しかけてくるものだから、私も屈みこんで耳を貸す。

『…あの、ヒナリさん。彼方くんたちみたいに、その、…人の姿になるのって、どういう風にしたらいいんですか?どうしても視線が合わないですし、なんだか、その…』

少しばかり、疎外感のようなものを感じているのだろう。縮んでいく言葉尻の先を考えることは容易だった。視点が合わないのは確かにコミュニケーションが取りにくいし、それに加え祐月と彼方たちはグレンでの衝突以来、あまり言葉を交わしていない。お互いに微妙な気まずさがあるのかもしれない。けれどこの慣れない雰囲気のまま旅をするというのは、少し物悲しいものがある。難しい顔の私に、祐月は慌ててその空気を取り繕っていた。

『あ、僕が早くできるようになればいいんです、そうしたら貴女を悩ませることもないですし。気にしないでください』

困ったように眉を下げ、小首を傾げて笑う祐月だけど、そうじゃないんだ、そんな顔をさせたいんじゃないんだ。だって人の姿になれることは、世間一般的には当たり前のことじゃない。メカニズムも理由も全くわからない。だけど彼方たちがあまりにも自然にそうしているものだから、私が勝手に慣れてしまっているだけなのだ。だから祐月がそういう風に劣等感を感じてしまうのは、少しおかしい。そのまま彼方たちのあとを追いかけようと歩みかけた祐月を慌てて呼び止める。

「あのね祐月、無理にすることじゃないと思うんだ!何ていうか…人の姿になれるとかなれないとか、そんなのは関係なくて、えーっと…」

「…ヒナリ、どうか、した?」

あーでもない、こーでもないと上手く言葉にならないで唸っていると、不意に振り返った千紘が私と祐月の様子に気がついたらしい。ふわりとしゃがみこんで、私と祐月の顔を交互に見つめる。それから理央や彼方たちも気がついて祐月の元へ歩み寄ってきたから、なんだかんだで集合だ。けれどやっぱり気まずさは残るようで、騒がしかった理央たちも祐月を見るとすっと口を噤んでしまっている。きっと、きっかけが足りないだけなのだ。彼方たちもあの衝突の前にはよくお喋りをしに行っていたくらいだし、祐月のことは嫌いじゃない、むしろとても気に入っていて、好きなのだと思う。ただ、あの一度の衝突が少し彼らに距離をもたらしてしまって、さらに時間が経ってしまったから。

要となるのは何か、きっかけ。そういうのを無意識に、自然に作り出してしまうから、いつも敵わないなあと思うのだ。

「…あ、もしかしてこれのこと?」

入り組んだ薄暗い路地の影に駆けると、彼方はパーカーの裾を翻しクルリと振り返ってみせた。そして瞬きをする間もなく、その姿は消える。代わりに薄暗がりを照らすオレンジ色が足元を照らしていた。…改めて見ると不思議なものだ。変身でもなく、化けるのでもなく、もうひとつのかたちを取る、というのが一番しっくりくるような気がする。祐月もその魔法のような光景に釘付けで、何が起こったのか全く分からないという風に何度も目をぱちぱちとさせていた。その姿が面白く映ったのか、理央と千紘も続いて駆けると、それぞれ元々の姿にかえっていく。唯一漣だけは大きさと場所の問題で――とはいってもここには水路がたくさんあるから不可能ではないけれど、どうしても人の目が気になるのだ――元の姿には戻れなくて、仕方ないね、と私と目を合わせて肩を竦めて笑っていた。

そんなふたりは置いておいて、いつの間にか揃った四匹の視線。まっすぐに赤と赤がぶつかるけれど、一方は少したじろいていて、もう一方はそのたじろきさえも眩しい光に包もうとしていた。

『こうじゃないと、おんなじものが見えないもんね。ごめんね祐月、気がつけなくて』

『いえ!…僕が、彼方くんたちみたいになれたらいいんです、僕が…』

『…あのさ、僕が僕がって言いたいのもよく分かるけど、今は"僕たち"の話。それに何か言いかけてたじゃん、ヒナリ?』

不意に理央の尻尾で軽くはたかれてはっとする。そうだ、祐月は祐月だから好きなのであって、人の姿になれようとなれまいとどうでもよくて、でもそう言ったらまた悩ませてしまうのかな…。まとまらない言葉にまた頭を抱えだしていると、少し高いところからちょうど思っていたことが降ってきた。もっともそれは私の声ではなくて、もっと低くて落ち着いた声だったけど。

「…要するにヒナリちゃんは、このキュウコンにそう気負わないでほしいってことでしょ。お前もちゃんとそのこと受け取っとけよ、ヒナリちゃんや彼方たちが思ってくれてるってこと」

「漣、」

「ん?違ったかな、ヒナリちゃん」

「…うん、一個だけ。祐月のこと思ってるのは、私たちだけじゃない。漣も、でしょう」

ふ、と笑って視線を逸らしたまま返事をしない漣は、いつになく素直じゃないようだ。何かっこつけてんの、と漣の肩に乗っかっていた理央がぺしんと頭をはたいて、彼方と私が笑って、千紘が眠たそうに欠伸をする。そんないつも通りの中に入ってきたもうひとつの笑い声。くすり、なんていうような、控えめで穏やかな笑い方だった。

『…ほんとうに、貴女たちは不思議です。僕のことにそれぞれが気づき、動いて、考え、思い、支え合って…バトンを繋ぐみたいに。それであっという間に、僕を助け出してしまう』

そう言われて、なんとなく顔を見合わせる。…確かに、バトンは繋いでいるのかもしれない。千紘が五感でものごとに気がついて、彼方がさっと行動を起こして、理央が一歩引いたところから考えて、私が思い、漣が別の方向からその思いを支える。そう思うと、私たちはなかなか連携のとれた集まりなのかもしれない。誰かが欠けたら、きっとばらばらになってしまう気すらする。

『それなのに僕は貴女たちにいろんな思いをもらってばかりで、何も返せていないんです…。だからせめて、言葉だけでも。あの、漣さん』

「え、俺?」

『…貴方がああ言ってくれたから、僕は僕でない考え方を初めて知ることができた。彼方くんが僕に歩み寄ってきてくれたから、僕も一歩踏み出すことができた。理央くんが僕に改めて真実を突きつけてくれたから、僕は自分をもう一度見つめ直すことができた。千紘くんが夜中そばにいてくれたから、僕はまた誰かのぬくもりに気づくことができた。それから、ヒナリさん』

不意に呼ばれてどきんとしたけれど、その赤の瞳のゆるやかに細められたのを見れば、糸を張ったようにこわばっていた心臓が解けていくのを感じた。

『貴女がこんな僕に、しつこいまでに話してくれて、諭してくれたから、僕はこの決断が出来た。…皆、僕の恩人です。大好きな恩人…』

感謝なんてされるようなことはしていない。私は、私の思うままに動いただけ。それでも、彼がこうして今笑いながら彼自身の思いを伝えてくれたことを、単純に嬉しいと思った。それは彼方たちも同じようで、照れくさいようなにやけたいような、でも嬉しそうな。そんな複雑な表情ばかりが並んでいて、祐月もくすりと笑っていた。



『…というか祐月、あんた重い!そのしんみりムードそろそろ打破したいんだけど!』

『え、えええ…!僕はほんとに思ったことを言ってるだけで、』

「でも確かに、もうちょっと打ち解けたらいいのにって俺も思うな」

『…ヒナリ、ごはん…』

「ち、千紘…とりあえずもう少し歩いてポケモンセンターに着いたらね」

『あ!じゃあさ、歓迎パーティでもする?ちょっと豪華なご飯にして、ね!やろうよ!』

今夜はなんだか、騒がしくなりそう。
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