夕陽の隣で歩むこと

ラティアスが行きたいと言って連れて行ってくれたのは、高級そうなブティックだったりお菓子屋さんだったり、クレープ屋さんだったり…ほんとうに、普通の女の子らしい場所ばかり。多分、普通の子が見たらなんてことのないことなのかもしれないけれど、普通じゃない私たちはそんな当たり前のひとつひとつに胸を躍らせてしまうのだ。

それに、普通じゃないからって、損なことばかりでもない。双子みたいに、同じタイミングで同じ表情の動かし方で、店員さんに笑いかける。すると不思議なもので、ひとくち分のアイスのおまけをくれたり、トッピングを贅沢にしてくれたり。悪戯なんてあんまりしたことがないけれど、この爽快感にははまってしまいそうだ。

片手にクレープを持ち、もう片手に手を繋いで、ラティアスが最後に私を案内してくれたのは、水路を見下ろせる橋だった。水路では、何やら水上レースなるものの練習をしているらしい。ホエルコやゴルダックや、水ポケモンたちに引っ張られて水上を駆け抜けていくトレーナーたちの姿を眼下に眺めながら、頬杖をついてぼんやり。なんだか、怒涛のような数時間だったなあ。けれど、不思議と気分は悪くない。普段が穏やかでマイペースな旅だからか、こういう慌ただしく駆け回るのは新しくて、いつもと違う風に時間が流れて。そう思って、少し感慨深くなっていたからかもしれない。さすがのラティアスも何も言わず、一緒になって空を見上げていた。

「…ねえ、楽しかった?」

――……!もちろん!ヒナリちゃんと一緒だったら、あたしどこへ行ったって楽しくなっちゃう!もう一緒に旅に出ちゃいたいくらいだよ、…出たいよ、

「旅に…私と?」

――うん!そうしたら、そうしたらあの空の世界と、兄ちゃんたちとはもうおさらば…、そしたらサイコーじゃん!あたし、自由の身だよ!それってすっごくステキ!あんな空の世界、はやくはやく、飛び出して、……、飛び出してしまいたい…

しぼんでいく言葉の終わりが不思議で、思わず顔を覗き込む。天高くを見上げたままの、もうひとつの私の顔。鏡の中で見慣れた顔だから、よくわかる。昨日みたいに一点の曇りもなく、破天荒な笑顔じゃない。これは、何か隠している顔だ。しばらく経って、ようやく私の視線に気がついたらしい。彼女はへにゃりと頼りなさそうな笑顔を浮かべた。

「ほんとうに、何の迷いもなく、飛び出したいって思うの?」

――当たり前じゃんヒナリちゃん!

「…その割には、まぶしい顔してないよ」

そう言うと、ラティアスはきょとんと目を丸くする。自分の頬を引っ張ってみたり、首を左右に倒してみたりしていたけれど、やっぱりどうにも変わらない。結局は拗ねたみたいに、ぱくりとクレープの最後のひとくちを口の中に放り込んでいた。その視線の先にはやっぱり、空の雲の向こう。私も一緒に視線を動かすと、太陽を透かすカーテンとなった薄い雲たちがそこにいる。あの向こうに、きっと彼女たちの住処があるのだろう。彼女はさっき、そこを牢屋と表現していたけれど、やっぱり、やっぱり私には憧れの世界だなあ。

「空の上、雲の上かあ…私はちょっと行ってみたいな」

――えー、つまんないよお?どこまでいっても雲、雲、それか兄ちゃんたち…、あたしがぶつかるとすぐ捕まえようとして、いっつも追いかけっこしてるんだよ。兄ちゃんああ見えてけっこう馬鹿の単細胞だから、案外簡単に追っ払えるの!透明になって、雲の中を、バビューンって!楽しいんだあ、雲って要するに水らしいから、あたしが駆け抜けると消えちゃうんだよ!

ふとした私のつぶやきに、最初は不服げな顔をしていたのに、お喋りしだした途端これだ。彼女は夢中になって、空の世界のことを教えてくれた。晴れた日はお日様が近くてジリジリしちゃうこと、雨の日は雨雲の上に逃げちゃえば濡れないでいられること、ミニチュアみたいなアルトマーレの姿が可愛らしいこと。…ここまできたら、もう否が応でもわかってしまう。彼女自身が気づいていない、彼女の本音。

「大好きなんだね、お兄さんも、空の世界も」

――…えー?

「そうだよ。あなたはきっと、ここが大好き。あなたを過保護なまでに愛してくれる家族や、雲の中の温度や感触や景色、あなたを包む全てのものが宝物なんだなあって思う」

そんなことないよ、って言おうとした彼女だけど、その声の中にあるのは昨日までのこれだ!というはっきりとした感情ではなく、曖昧に様々な色が混じり合った、絵具のような感情だった。

なんだか、ワカバを旅立ったときのことを思い出す。閉塞された暮らしだったけれど、その中で私を包んでくれるひとやものたちは、どれも優しかった。おばあちゃんや彼方、コトネちゃんやヒビキくん、あたたかな料理に毛布に…、全てが宝物。だから旅に出るときは、少なからず寂しかったっけ。一度出たらもうしばらくはこのあたたかい場所に帰ってこられないって。それでも旅に出たのは、寂しさよりも外の世界への憧れが強かったからなんだろう。寂しさは今でもちゃんと胸の中に住み続けているけれど、それ以上昔から住んでいる欲望は、抗うことを許さない。

でも、今このラティアスは、どうなんだろう。私が彼女の動作や言葉から感じ取ることには、きっと、彼女は私と似ているようで少し違う。そのことに、彼女はあまり気がついていないようだ。

ふう、とひとつため息をついたあと、私は鞄の中から空のモンスターボールを取り出し、彼女に手渡した。赤と白のツートンカラーが、真昼の太陽と彼女の視線を反射してぴかりと輝いた。

「ほんとうに私と一緒に来てくれるなら、このボールに入ってください。もうなかなかこの景色には帰ってこられないけど、お兄さんたちにも会えないけれど、代わりにいろんなところに行ける」

――うん、

「あと、彼方たちと一緒にもいられる…きっとすごく楽しいよ。私の仲間たちは、みんな優しいし!でもお兄さんたちとは、アルトマーレとは、お別れ。そう簡単に帰ってくることはできない。…あなたは、どうしたい?」

少し、意地悪がすぎたかもしれない。当たり前を手放すことの苦しさを、私はよく知っているというのに、今私はそれを彼女自らにさせようとしているのだ。案の定、彼女は戸惑っているようだった。同じ背丈の、色だけ違う彼女の瞳をじっと見つめるけれど、その瞳の向く先はボールに注がれたまま、時間がゆっくりと過ぎ去っていく。

橋の下では、もうコースを一周してきたのだろうか。さっきのホエルコやゴルダックたちが水を走る音が聞こえていた。ざわめきが遠くなっていくのに気を取られていたとき、彼女は不意に口を開いた。

――あたし、…この街も、兄ちゃんたちも、好きだよ。みんな面倒臭いお節介ばっかで、街も生まれてからずっと見てきたけど、それでもみんな、あたしを受け入れてくれる

「…うん」

――ヒナリちゃんたちも、きっと受け入れてくれるんだろうなあ。きっとこんなじゃじゃ馬なあたしだって、そっかって言ってあたしのワガママ聞いてくれるんだと思うんだ。出会ったばかりだけど、ヒナリちゃんはそう思わせるような不思議なこころの持ち主だって、あたし分かる。だから、これはあたしの気持ちの問題で、あたし、あたしは…

俯いていた目線がふと持ち上がり、ライムグリーンがもう一度真昼の太陽を反射して、きらきら。
彼女は私の両手を包み、そっとモンスターボールを私の手の内に戻した。私がそれを見つめてぱちぱちと瞬きをしていると、彼女はぱっと手を離し、照れ臭そうに頬を人差し指で撫でていた。

――ありがとう!ヒナリちゃん。あたし、やっぱりまだヒナリちゃんに敵わない。あたしはここを捨てられるほど、強くなかった!…あたしから言い出したのに、ごめんね

「ううん。…あなたの、本当の気持ちが見つかってよかった」

私たちは、どうにも近いものが見えないらしいから。そう言ってくすりと笑うと、彼女も全く同じ顔の同じ表情で笑っていた。あ、やっぱり、なんだかんだ似た者同士かも。私は地上に、この子は空に生まれた子で、全然境遇は違うけれど、こうしてここで天からやって来た彼女と今一緒だと笑いあえてることは、少し胸の内を暖かくしてくれる。

「空から、天から、来て、来たりて…、うーん」

――? どうしたの、ヒナリちゃん?

「…あま、き。天より来たりて、來たりて。天來、でどうかな?くるって漢字は、せっかくだからちょっとカッコいいほう。あなたの名前に…嫌だったら言って?」

頭上にハテナマークがいくつも浮かんでいる彼女を少し笑ったあと、指先で空に文字を描いて説明する。天より來たりて。彼女を何より大切に思う空の世界、天の世界。その大切な空間があるからこそ、今彼女はここにいる。どうかあなたの居場所を大切に、大切にしたまま、いつか大きな世界を飛び回れますように。そんな少し大袈裟なまでの願いを込めたから、きっと言霊とか、そんな神様たちも認めてくれるといいな。まあそれより先に認めてもらいたいのは目の前の彼女なのだけれど。

あまき、あまき、あまき…。彼女は噛みしめるようにその名前を反芻する。どこか遠くを見たままだったから、私の不安な気持ちは高ぶるけれど、それはすぐに吹き飛ばされる。彼女の――天來の満面の笑みは、雲の遮りを許さないほどまぶしい光だった。

――天來、あまき!あたしの名前は、アマキ!素敵だよヒナリちゃん、あたしにぴったり!可愛くてきれいで、あまき、アマキ、天來だー!

ばっと手を空に伸ばしたかと思うと、唐突に勢いよく彼女は私を抱きしめる。いつぞやの彼方みたいだけど、な、なかなかに苦しい。けれどその苦しさも、幸せにほころぶ彼女の表情を横目に見れば、なんだか愛おしく思えてくる。思い切って抱きしめ返してしまえば、もっと苦しくなって、それはもっと愛おしさが増すということで。
無限の幸せのループはこのちいさな橋の上でいつまでも続くかと思ったけれど、そうはうまくもいかない。聞きなれた元気な声たちが橋の下から飛び込んできて、思わず身体が跳ね上がった。

「やっと見つけたヒナリとあんた!…えっと、馬鹿!もう逃がさないから待ってろ馬鹿!漣、この辺で降ろして!千紘も僕と一緒に降りて回り道で逃げ道塞いで!」

『よし分かった、後で俺も追いかけるから頼んだ!』

「ん!」

『こら馬鹿妹!またそうやって逃げ回るから俺たちがどれだけ苦労してると思ってんだー!』

――違うよお、理央クンも兄ちゃんも!あたしの名前は馬鹿じゃない!あたしは、あたしは、天來だー!天來チャンと呼べえええ!

どうやらこの街中の水路を使い、ラプラスに戻った漣やラティオスたちが私たちを探し回っていたらしい。拡声器でも使っているわけでもないのに、理央の声はこの距離をも気にならないほどよく通る。それに対抗するかのように、彼女もまたよく通るテレパシーで、自分自身の名を名乗った。それを見る私も、どこか堂々とした気分になった。

「はあ?アマキ?意味わかんないけど…じゃあ天來!それからヒナリも!そこで逃げずに大人しくしててよ馬鹿!」

――やーだね!逃げるなって言われて逃げないやつがどこにいるのー?理央クンのばーか!

「はああ!?…あんた、僕を本当に怒らせたら怖いんだからね?絶対とっ捕まえてやる、とっ捕まえてはっ倒してやる馬鹿天來ー!」

階段をダンダンと駆け上ってくる音の迫力に思わず身を震わせていると、不意に手を引っ張られる。掴んできた手の主はもちろん天來で、行こ!の一言でまた駆け出していく。訳のわからぬまま走り出していたけれど、やっぱり彼女といるのは、楽しい。背中に翼でも生えたかのように、街中を駆け回るのは結局夕方の出発直前まで続いていた。
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