夕陽の隣で歩むこと
「あ、あの、すみません…」
上下左右、どこを向いても鋼の世界、冷たい世界。そんなジムの頂点に立つ彼女は、昨日と同じでやはりどこかおどおどとしている。私に気がつくと、ミカンさんはすっと柱の陰に隠れた。そこから顔だけ覗かせて、恥ずかしそうに私たちを見つめている。やっぱり、この姿だけだとこんな幼い少女がジムリーダーとはなかなか考えにくい。だけどポケモンセンターの噂話を聞いていると相当な強敵らしくて、ここで足止めされてるトレーナーも少なくないんだとか。きっと、侮れない相手なのだろうというのは、分かっている。
「あ、あの、昨日会いましたが…あたしはジムリーダーのミカンです、えっと、お名前は…」
「ヒナリです、えっと、専門は鋼タイプ…ですよね」
「……! はい、あたしの専門、鋼タイプで…、とっても強いんです!そう、強いんですよ!とっても硬くて冷たくて鋭くて…」
「あの…ミカンさん、そろそろ試合を…」
「あ、は、はい!すみません…」
困った風に眉を下げながら微笑む審判さんにたしなめられ、ミカンさんは怯えるように体を震わせた。
けれど、一度ボールを手に取ると、瞼を閉じる。そして、静寂。呼吸音すらも聞こえない、糸が張り詰めたような静寂。怖いと思った。体が、動かなくなる。
目を、開く。そこにさっきまでの引っ込み思案な少女はいなかった。黒の瞳が、挑戦者を貫き通す。ああ、この子は、この人は紛れもないジムリーダーだ。ぞわりと恐怖が駆け上る。だけど、恐怖よりも私は、勝ちたい。
「頼みました、コイル」
「彼方、お願い」
ボールを放り投げたのは同じタイミングだった。彼方に対峙するのはコイル。無表情で、無機質。どんな戦略をしてくるのか、このポケモンからもトレーナーからも読み取れない。それでも彼方がいつものように背中から勢い良くオレンジ色の炎を吹き出すのを見ると、少し心が安らぐのだ。
「それでは、バトル開始!」
「彼方、かえんぐるま!」
「でんじは、です!」
そして、瞬くようなバトルが始まる。
*****
一匹目と二匹目は共にコイルで、彼方の炎技でとくに苦労することもなく倒すことができてしまった。これで私はまだ三匹、彼女は残り一匹。圧倒的に私が有利だ。だけどミカンさんの表情はあの瞬間と――最初に瞳をひらいた瞬間と同じ、表情が全く浮かび上がらない。鋼のように、無機質。彼女が鋼タイプのポケモンたちと相性がいいのは、彼女の冷ややかで静かな空気感に鋼ポケモンたちが共鳴しているからではないかと、ふと思った。
「鍛え抜かれた鋼は、これくらいじゃ錆びないの」
最後のボールを投げるとき、彼女はそうぽつりと呟いた。そしてそのとき、初めて私は彼女の感情を悟った。…これは、余裕。余裕の笑みだ。彼女にとって、ここまでの展開は全て想定済みだったのだ。口端をふと緩ませて、愛おしそうにボールをひと撫で。放物線の先の赤い光が形作ったのは、ハガネールの姿だった。一体彼方の何十倍だろう。このジムの天井まで届いてしまいそうなほどだ。鋼の胴体をくねらせ、巨大な顔面をあんなにちいさな彼方に近づけている。つい一歩後ずさりしそうになるけど、彼方はそんな私とは違って、やっぱり強い。両手両足にぐっと力を込め、炎の勢いは増すばかりだ。私も、頑張らなくちゃ。大きく深呼吸をした。
「彼方、かえんぐるま!」
バトル再開の合図が響くや否や、それまでのコイルと同じように、まずは炎技で特攻を仕掛ける作戦だ。駆け出した彼方、徐々にスピードをあげて、いつものように一度ジャンプして前転するとさらに回転をつけ…、そう、なるはずだった。彼女の指示を聞くまでは、私はそれを確信していた。
「すなおこしです」
長い尾が勢い良く地を滑り、同時に巻き上げられた砂粒が私たちを襲う。砂粒は煙となって視界を遮り、彼方の姿が途端に見えなくなる。なんとか煙が晴れてきたときには、彼方はきょろきょろと相手を見失い、戸惑っているようだ。ああ、私が、指示しなきゃ。
「彼方!地震!」
途端の、地響。地震は、フィールド全体に渡って攻撃する技。これならば視界の良し悪しは関係ない、どこにいたってダメージを与えられる。勝ち筋が見えた気がして、私もついほくそ笑みそうになっていた、ときだった。
「……です」
地響。だけどこれは、違う。衝撃波だ。一瞬の破壊音と共にやってきた圧。再び土煙が晴れていってようやく、私はつい数十秒前そこで何が起こったのかを知った。フィールドを叩き割り、地割れの中に鎮座する鋼の尾。最大の急所である腹部を横にして、ぐったりと力を失った彼方。アイアンテール、だ。ハガネールは、その様子を随分と高くから見下ろしていて、その姿はまるでオブジェのように冷ややかで美しかった。
「マグマラシ、戦闘不能!」
倒れた。彼方が、倒れた。
いくら目をこすっても、目の前の事実は変わらない。彼方は、倒れたのだ。頭がが様々な思いでいっぱいで、その混濁した脳の中身のまま、ぐらり、ぐらりと揺さぶられる。どうしよう。彼方が、倒れたなんて。出会ったときから今までずっと、いつだって、どんなことがあったって、私のそばには彼方がいた。いつも私を見つめて微笑んでくれた。いつも彼方は私の名前を呼んでくれた。なのに、その瞳は開かないし、その口は声を失っている。どうして、どうして、どうして。
「…チャレンジャー!ポケモンを交代してください」
「……、彼方、ごめんね。ありがとう」
彼方の元に歩み寄って屈み込むと、そう声を掛け、すぐにボールに戻した。返事をするような隙は与えなかった。されたら、もっと辛くなっていた。
次に繰り出すボールは前から決めている。けれど、勝てるんだろうか。少なくとも今の私に、勝利の光は見えなかった。
「祐月、お願い」
『大丈夫ですよ、ヒナリさん。僕も、貴女のために尽くします』
祐月はそう言うと、視線だけ振り返ってやわく微笑んだ。その瞳は赤く燃えていて、私も頑張らなきゃと思う、けれど、……。心の底に降り積もったわだかまりは、消えてくれなかった。
それでもなんとか頭を切り替えて、昨日の夜理央と話していたことを思い出す。祐月の得意な技の傾向は、おにびやふういんなど、サポート系の技。それから、かえんほうしゃやだいもんじなどの遠距離攻撃の炎技。祐月にはまず、サポートの役目を果たしてもらって、私も舞台を整えて冷静になろう。そう思って、審判の試合再開の合図とともに叫ぶ。
「おにび!」
「アイアンテールです」
まただ。反射的に、恐怖が全身を駆け抜ける。そんな私の役立たずな状態を察知したのか、祐月はたんと地を蹴り空へと跳ね上がり、振り下ろされた尾をかわす。重力が彼を引き戻す前に放たれた青白い火の玉は、ハガネールの全身に巻きつこうとしていた。よし、これで少しは勝ち目が、そう思った途端の冷ややかな声に、私はまた凍りつく。
「ハガネール、いわおとし、です。あなた自身と、あのキュウコンに」
ガラガラガラガラ…、まただ。あのハガネールは、恐怖を天から落としてくる。ただ一言いわおとしとは言っても、それは無作為に落とされているのではない。全ての落下点を意図して落としている。まずは、自身にまとわりつきだした鬼火たちをひとつひとつ押し潰し、鎮火させていく。もし自らに当たったとしても、ハガネールは鋼・地面タイプ。四分の一のダメージしか受けない、まさにかすり傷だ。
その精密さと轟音に圧倒されているうちに、標的はいつの間にか炎からその持ち主へと変わっていた。逃げた動物を柵に囲むように、岩たちは祐月の逃げ場を無くしていく。あっという間に出来上がっていた、高く積み上げられた岩の柵の中、私にはもう見えない祐月は、きっとすでに瞼を閉じていたんじゃないかと思う。最後の岩石が、降った。音が、土煙が、止んだ。
それからは、まるで積み木崩しのようだった。自ら積み上げた岩山を、自らの尾で崩し、払いのけていく。そうして明かされた、一番下で眠る祐月の姿。審判はそれを一瞥すると、高らかに響き渡る声を上げた。
「キュウコン、戦闘不能!」
駆け寄ることもできなかった。ただ心が死んでいくのを、身を以て感じていた。
どうしたら、いいんだろう。私にこれ以上、何ができると言うんだろう。もはや力が入らなくて、ただ、目をぎゅっと瞑ることしかできない。それでも瞼の裏にはあの光景が焼きついているし、開けたところで脳裏にも同じ光景が鮮明に残っているから、一緒だ。ああ、なんてどうしようもない、私。怖がりの私。
最後のボールを放り投げる。漣は、ゆっくりと振り返り、微笑んだ。だいじょうぶ、だいじょうぶという、無言の声が聞こえてくる。曖昧に微笑みかえして返事をしようとしたら、表情筋が働いてくれなかった。
無情に再開されたバトルは、漣が先手を取ったようだった。
「うたう…!」
か細く、掠れた声を、漣は聞き取ってくれていた。前に聞いたのとはまた違う、賛美歌のメロディ。長調の美しすぎる旋律も、今だけは不似合いで、なんだか余計に物悲しく聞こえた。
一方のミカンさんは、おや、と意外そうな顔をしていた。もしかして、あまり想定されていなかったのかも。彼女はしばらく考えるそぶりを見せていたけれど、そのうち何かを閃いたらしい。少女の小さな唇は、ゆるりと弧を描いた。
「いやなおと、です」
ああ、だめだ、もう。うとうととしかけていたハガネールはミカンさんの一声ではっと目覚め、その鋼の体をこすり合わせることで耳をつんざくような音を鳴らした。漣も私も、審判の人も観客席の理央も千紘も、皆表情を歪める。その音が高いのか低いのかもわからないほど、耳が麻痺してきているようだ。とても歌どころではない。
そして、漣のしまった、という声を聞いたときにはもう遅かった。いつのまに、その指示を口にしていたんだろう。鋼の尾が、落ちる。地響。
「ラプラス、戦闘不能!よって勝者、ジムリーダーのミカン!」
アイアンテールを食らい、漣の首は項垂れたまま。さっきと同じで、瞳も開かない傷まみれの姿に、湧き上がったのは懐疑だった。漣の耐久力は絶対だ。氷タイプに鋼タイプが効果抜群とは言っても、漣ならどんな攻撃だって一発は必ず耐えてくれる。おかしい、何があったんだ、そこで思い出した。"いやなおと"は、防御をがくっと下げる技。漣の耐久力はそれのせいで、普通のポケモン並みに落ちてしまっていたのだ。
漣をボールに戻した後、気がついたら、地面にぺたんと座り込んでいた。やがて歩み寄ってきたミカンさんは、そんな私を見下して、淡々と口を動かしていたようだった。
「 」
めのまえが、まっくらになった。
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