夕陽の隣で歩むこと

彼方たちの治療は、ここのジョーイさんの腕が素晴らしく良かったのだろう。翌朝には三つ並んだボールが手元に帰ってきていた。

負けたことを気にしてか、彼方たちはいつもより少し元気がなく、しゅんとしおらしい。けれど、気持ちが負けてたらバトルも負けちゃうでしょう?ちょっと俯きがちだった彼らの顔を覗き込んで微笑むと、そうだね、とか、今度は絶対勝とう、とか、前向きな言葉が聞こえてきたから、私もすこし口元が緩んだ。

バトルの相手をしてくれたのは、同じポケモンセンターに滞在していた少年。やっぱりミカンさんに挑みにこの町を訪れ、私と同じようにミカンさんに負けてきたらしい。地方によって違うらしいけど、ジョウト地方のポケモンセンターの二階はトレーニングルームやバトルフィールドが設備されていて、利用者はそこを自由に使うことができる。私と彼もその恩恵にあやかって、今こうして対峙しているというわけだ。

彼が繰り出したのはブーバーだった。その身体を彩る赤と黄色の組み合わせを見て、それならばと同じ色を持つ彼のボールを手に取る。…手に、取る。手に取ったはずなのに、なんだろう、この感覚は。まじまじとその球体を見つめるけれど、それが彼方のボールであることは確かな事実。一番年季の入っていて、ボロボロの傷まみれ。それでも一番暖かくて、一番手に馴染むはずなのに、どうしてこんなに冷たく感じるんだろう。どうしてこんなに私を拒絶しているんだろう。どうして私の手は震えているんだろう。

審判をしてくれていた理央が私を呼ぶ声で、はっと目が覚めた。違う、今はそんな些細なことに気を取られている場合じゃない、集中、集中。ふう、と深呼吸をして、カタカタ震える手からボールを投げる。いつもの位置よりだいぶずれた位置でボールがバウンドしたけれど、きっとそれも、些細なこと。気にしたらいけない。彼方が定位置にちょこちょこと四本足で走り、にこっといつもの笑顔をくれた。

「ヒナリも準備、いいね。…それじゃ、バトル開始!」

だけど、次の瞬間。彼方がうしろ足で地を踏ん張り、頭と背中から炎を吹き出した、その瞬間。鋼の尾が振り落とされる。残像さえ残るほど、速くて、重くて、精確なそれが、あの小さな体躯の逃げる隙を許さず、墜落する。それがフラッシュバックであり、幻覚であることに気がついた時には、既にもう私たちは隙まみれだった。

彼方、私の指示がないから、狼狽えてる。指示を、声を出さなきゃ。声を、なんて声を?私、いつもどんな風に声を出していたっけ。だめ、そんなことを考えていたら、また負ける、はやく考えなきゃ。何でもいい、何でもいいからはやく私は、私は…。

一陣の風。
メガトンパンチが、マグマラシのちいさな躰を壁へ吹き飛ばした。一撃だった。

「…マグマラシ戦闘不能、ブーバーの勝ち」

負けた。私は、負けた。
だだっ広いこの世界に、ひとりぼっちの心地がした。


もう一度彼とバトルをした。次は、彼方じゃなくて漣にお願いした。それでも、だめだった。バトルどころではなかったのだ。バトルフィールドに立つだけで、両脚が痙攣したかのようにガタガタと震える。何も力を入れていないはずなのに、無意識のうちにそうなっているらしいから、たぶん私は自分でも気づかぬうちに怯えているのだ。なんて情けないんだろう。なんて弱いんだろう。たかが一度や二度負けたくらいで、トレーナーが務まってたまるか。

そう自分を叱咤し、鼓舞する。両足をべたりと地面に縫い付け、歯を食いしばり、痙攣を無理矢理に抑える。そしてボールを握ろうとする、けれど。それすらも敵わなかった。脚を無理に抑制した分なのか、今度は手のひらが震える。私の意志を離れ、びくびくと痙攣するそれは、私のものとはとても言い難いもの。まるで化け物でも取り憑いてるみたいだ。気味が悪い。悲嘆か、自嘲か。不思議と口元がなさけなく緩んでいるのを感じた。終いにボールは手のひらから零れ落ち、ころん、ころんと数回転して、一歩先で止まった。

一度ならず、二度までも。バトルの相手をしてくれていた少年も心配してくれて、一旦バトルは止めようと提案してくれた。だけど私はその提案を断った。そんな気持ちの問題だけでバトルを中断するなんて、あまりにもなさけない。ばからしい。ボールの中の彼方は、漣は、祐月は、ずっと審判をしてくれている理央は、観客席で私を見つめる千紘は、何を思っているんだろう。こんな姿で、彼らは私をトレーナーだと認めてくれるんだろうか。ううん、認めてもらうんだ。今からはちゃんとして、背筋を伸ばして、笑顔で、薄暗いところは見せないで、がんばる。

もう一度バトルフィールドに立つ。瞳を閉じ、深呼吸をする。集中しなくちゃ。集中、集中…、しなきゃ、いけないのに。瞼の裏に焼き付いた光景。圧倒的な力の差を見せつけられて、次々に大好きな彼らが地に伏していく。私のせいで。私が、彼方が倒れたことで一度怖気付いてしまったから。もうあのイメージが離れない。私、どうしてバトルなんて、怖いことを今まで出来ていたんだろう。違う!ちがう、私はちゃんと、トレーナーをしなきゃ、バトルをしなきゃいけない、あんなこと想像しなきゃいいんだ、些細なことに気を取られたらいけない!私がバトルできなくなったら、私は一体何者になるって言うの?またどこかに閉じ篭って不自由に、籠の中で暮らすの?そんなの嫌でしょう。落ち着いて、冷静に、もっとシンプルに、単純に考えなきゃ。落ち着いて、だいじょうぶ、がんばれ、がんばれ…。

『理央くん』

腰元のボールがひとつ落ちて、祐月が出てきていたことにも気がついていなかった。祐月は体を私に向けたまま、視線だけ理央へと目配せをする。赤色はやわらかくて、慈しみに満ちてて、それだけでもう限界なのに、…もう、やめてよ。蔦みたいにぐちゃぐちゃ絡まり合った感情が、もっと私の中を蝕んで、こみあがってきてしまう。

『バトルは、一度止めましょう。今はするべきじゃない』

「どうしたの祐月、私なら大丈夫だよ。…戻って?」

『…理央くん、分かるでしょう。無理にでもやめさせないと、彼女が壊れてしまう』

壊れちゃう、だなんて。…その言葉が一番私のこころを壊すって、祐月なら分かってると思ってた。最後の一撃、祐月がとどめを刺した。

ふと力が抜けて、腰が抜けた。ぺたんとお笑いみたいに座り込んで、赤い瞳と視線が重なった瞬間、まずは瞳が壊れた。漏れ出したこれは涙。ひと粒、またひと粒と雫は頬の輪郭を伝い、落ちる。その冷たい感覚、泣いているという事実が、次は喉を壊した。漏れ出したこれは嗚咽。なんて、きたない。もう、それなりに大きくなったつもりだった。気のせいだった。年だけは順調に重ねて、ようやく旅に出られたけれど、こころはずっと昔においてけぼりで、何も変わってない。何も変わっちゃいないんだ。自己嫌悪が、アイデンティティーを壊す。ハリボテの誇りを壊す。私が全て、壊され、た。

「……っ、あぁ…もう…やだ、いやだぁ…っ!」

ばらばらになった私の理性は、もうまともに働いてくれない。こんなところで泣くのが嫌とか、カッコ悪いとか、これからどうしたらいいのかとか、全ての理性が壊されていて、私は泣くことしか知らない子供になることしかできなかった。
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