夕陽の隣で歩むこと

キミの涙は綺麗だとか、まるで宝石のようだとか、物語でも歌でもよく聞くセリフだ。曖昧だけど、涙が宝石になってしまう童話なんかも昔読んだ記憶がある。けれど、そういうことを聞くたびに、私はスッと冷めてしまっていた。だって、知ってるから。涙は――少なくとも私の流す涙は、ただの弱さの象徴であること。きれいだなんて、とても呼べたものじゃない。泣くだなんて、気持ち悪い顔と気持ち悪い声で、ぐずぐずと人に弱さを見せて心配を煽る、最悪の行為だと思う。

ひとりぼっちの部屋に、鼻をすする音だけが虚しく響く。膝の上で握りしめた拳にはもういくつも雫が乗っかっていて、そのうちの数滴は既に乾き、かぴかぴと肌を突っ張らせていた。

あれから彼方たちに支えられて、なんとか自分の部屋に戻った。皆の顔を見る余裕もなくてずっと俯いたままだったけど、一体彼らはどんな顔をしていたんだろう。ちょっと知りたいって思うのと同時に、やっぱり知りたくない。それに何より、こんな顔を彼らに見られたくない。だから、ひとりぼっちにしておいてくれた彼らの配慮は、ほんとうに救いだった。

いつもそうだった。悲しいことや辛いことがあって私が泣きだすと、扉の向こうの彼方は途端に黙った。でもそれは言葉に詰まっているんじゃなくて、言葉にしないだけ。ただ扉越しに寄り添うことだけで、たくさんの想いを伝えてくれていた。それがどれだけ私の救いになっていたことか、彼は知らないだろうけど。

今、こうやってひとりぼっちにしておいてくれているのも、きっと彼方たちが私を思ってくれてるからなのだろう。背中をとんとん叩かれて、おまけに優しい言葉でも掛けられようものなら、もっと悔しくて惨めな涙を流していただろうけど、それに比べてひとりぼっちは、楽だ。自分ひとりで悲しめる。

はあ、と浅かった呼吸がようやく落ち着いた。それでもまだ鼻の奥がツンとして痛いし、喉も一緒に痛くて、時々奇怪な嗚咽をあげている。ほんとうに、なさけない。ばかだなあ、私。そうやって少し感傷に浸ると、やっと枯れたかと思った涙がまたしつこく湧いてくる。一度開いた涙腺は、なかなか閉じないのだ。面倒だなあと思いながら、仕方なく袖口で目元を拭おうとしたときだった。キィ…、と建て付けの悪いドアが開く音。その陰から、ひょっこりと覗いた薄黄色の彼。顔だけを扉から出して、じっと私を見つめる。

「…ヒナリ?」

「ち、ちひ、ろ…?」

突然のことにびっくりしてしまって、涙を流しているという自分の状況さえ忘れてしまっていた。ひょこひょこと足音を立てないようにやってきて、私の隣に腰掛ける一部始終をただ視線で追いかける。なんで、来たんだろう。あまり回らない脳で必死に考えるけど、答えは見つからない。

そんな私の混乱をよそに、千紘は相変わらずのマイペースだ。私よりもずっと背の高い彼が、私よりもずっとあどけない瞳で、ぐいと私に詰め寄る。混じり気のない琥珀色の映す先にあるものは、わかっていた。この目元に浮かんだむなしいもの。何か言われる前にうやむやにしてしまおうと思って、曖昧に笑って目元を拭おうとした、けれど。その手は結局涙に触れることができなかった。千紘が腕を掴んできたからだ。

そしてさらに距離を縮め、瞳がもう、すぐそこにある。びくりと震えて、でもどうすることもできない私だけど、そんな感情とは裏腹、私の頬をふと一筋の涙が伝った。


その瞬間、花が咲いたのかと思った。笑った。千紘が、笑ったのだ。瞳が、口元が、表情の全てが、ふわりと音を立てて緩まる。心臓がふと宙に浮いたかのような感覚を覚えた。きれい。とても、きれいだ。

たかが笑顔にこんなに心揺さぶられるのは、普段の千紘にあまり表情の変化がないからだろうか。…違う。そんな何かと比べたからとかじゃなくて、この微笑みは、それだけできれいなのだ。もし千紘がすごく溌剌とした性格で、表情もころころと変わるような子だったとしても、私は今この瞬間の千紘の表情を「きれい」と感じただろう。

だから、千紘がそんなことをつぶやいた瞬間、私は相当に驚いた。

「…ヒナリ、きれい」

「……、私?」

「ヒナリは、ヒナリ。ヒナリ、きれい」

千紘の指す"ヒナリ"とは、ほんとうに私のことだろうか。そうだとしたら、千紘はちょっとおかしい。こんなぐちゃぐちゃの顔の私をきれいと言うだなんて、それもその発言をした千紘自身がこんなにきれいな顔をしているというのに。それとも、慰めようとしてくれているのかな。そうだ、きっとそうに違いない。一体どこでそんな洒落た慰め方を覚えてきたというんだろう。そう思うとようやく少しだけ笑えた。

「私は、違うよ。けど、千紘の笑った顔、私すごくきれいだと思う」

「違う、じゃない」

「泣いてるとこなんて、とてもきれいなものじゃないよ。それよりもずっとずっと、千紘の笑顔のほうがきれい。嘘じゃない、心の底から、ほんとうにほんとうにそう思う」

「……」

ああ、いつもの無表情に戻ってしまった。千紘は少し考え込んでいるようだった。千紘は物事を考えるのにひとより時間をかける癖がある。それだけ、彼が日々触れるものが瑞々しくて初々しいものばかりで、彼はそのひとつひとつに真摯に向き合っている、ということだ。だからこうして一生懸命に思考する彼の表情は、たとえ無表情だったとしても、とても愛おしく感じる。

間近でそれを眺めながら、そっと掴まれていた腕を外し、今度こそ涙の浮かぶ目元を拭おうとすると、またもやそれは阻止されてしまった。俺の話を聞いて、と言わんばかりに、私の両手首を掴んで自分の膝の上に置かせる。そうしてまた瞳をぐいと詰め寄らせれば、私はもう彼の澄んだ飴色の中から抜け出せない。

「…ヒナリは、俺のこと信じて、くれない?」

「そういうことじゃないの、すごく信頼してるよ、だけど…」

「じゃあ、こう、する。ヒナリが俺の笑うとこを、きれい、って言う気持ち、と、おんなじ気持ちで、俺も、ヒナリの泣くとこ、きれいって、言ってる。信じ、て?」

……そんなの、ずるい。いじけて顔を逸らすと、千紘はまた小首を傾げてほんのりと笑った。ああ、きれい。でも、今私の中に芽生えてる気持ちと同じ気持ちで、千紘は私をきれいだと言っているんだ。というか、最初からそうじゃないか。千紘は嘘をつかない。嘘をつこうとしたとしても、私はすぐに見抜ける自信がある。なんだか悔しくて、不意に抱きしめてきたのにもヤケになったみたいにすぐ体を預けてしまった。背中に回された腕の力が、ぎゅうと強くなった。

ああ、それにしても結局私はオンナノコなのだ、改めてそう思わされた。心から発せられた"きれい"というたった三文字の言葉、他に装飾も御託も何もない言葉。それだけでこんなにも胸が熱くなる。ついさっきまで全てをはじき返してたトゲトゲの心が、簡単に包み込まれて、絆されて、丸くなってしまう。千紘の腕の中、男のひとらしい筋肉質な、でもしなやかな腕の中。その心地よさに、どうしようもない安心を覚えてしまう。なんだか、くやしい。彼の背中に添えていた手の力をぐっと強めると、千紘は何か察してくれたらしい。私の肩に顎を乗せ、ゆっくり、訥々と、言葉を紡ぐ。

「俺、は、」

「…うん」

「俺は、ヒナリが好き」

「…あ、ありがとう…?」

「ヒナリ、好き。だから、だから、泣いてるとこも、笑ってるとこも、俺は全部好き、でも、ええと、だから…」

千紘は何か、困っているみたいだった。言葉尻がごにょごにょと曖昧になっていく。けれど、その様子からわかることだってある。千紘は、何かを伝えようとしてくれているのだ、私に。普段はゆっくりと言葉を選ぶのに、それすら待てないほど、千紘は私を思ってくれて、雲みたいに掴みどころのない自分の感情を、言葉というかたちにしようとしてくれているのだ。それが、嬉しかった。抱きしめられるぬくもりと一緒に、私のささくれだった心をなだめていく。

彼の胸に顔は押し付けたまま、くぐもった声で呟いた。

「…ありがとう、大丈夫千紘、伝わった、」

「ううん、伝わってない、言えてない、…言いたい」

ふと抱きしめていた腕を緩め、顔と顔を突き合わせる。もう一度目にしたふたつの飴色。いつも通り半開きでぼんやりとしたものだけど、その瞼の影から覗く光はいつも通りじゃない。ご飯を前にしたときやバトルをしているときともまた違う、淡く零れ落ちるような、甘い色。その色に瞼をかぶせ、千紘は語る。…惹かれた。

「ヒナリは、泣いてたって笑ってたって、勝ったって負けたって、トレーナーだって、そうじゃなくたって、ヒナリ。俺の好きな、ヒナリ…だから、だから、ヒナリはここにいて、いい。俺の好きなひとは、ここにいなきゃ、だめ」

なんて拙い言葉だろう。なんてたどたどしい言葉だろう。でも、全部伝わる。流暢で上手な言葉遣いよりも、ずっと。言葉という、ほんのひと欠片をかじっただけで、靄みたいな彼の気持ちのすべてを知る。私へと向けられた、濁りのない感情。ああ、これだから慰められるのは苦手だ。また泣き出してしまいそうになってしまうじゃないか。

ばれないように、必死に彼にしがみつく。でも、不規則な呼吸をするときにどうしても肺は動いてしまうから、きっとばれてる。それでももう、よかった。千紘は何も言わない。ただその存在だけで、私を包み込む。

「…ありがと、ちひろ」

「…ヒナリ、」

「なあに…?」

「ねむ、い?」

言われてみれば、泣き疲れたせいだろうか。目元がぼーっと熱くて、瞼が自然と落ちてきている。

「ねむいなら、ねたらいい。ねると、忘れる、から。いろんなもの、眠ると、忘れられる、から…」

私を一度離すと、彼はぽすん、とベッドに上半身を落とす。そこからじいっと見つめられて、私もいつのまにかそれに倣っていた。ぽすん。落ちる。

ああ、ほんとうだ。ややこしいこと、頭の中のごちゃごちゃ絡まっていたものが、だんだんと薄らいで、遠くなっていく。微睡んでいく意識の中で、抱き締められる心地がした。それももう、きもちいから、いいや。


***

「…ヒナリ」

青年は、腕の中の少女の涙を見た。夢の中でも、まだ悲しみに苛まれているのかと思うと、青年はすこし、嬉しくなった。また、彼女の涙が見れる。それほど青年は、彼女の泣き顔を気に入っていた。もちろん、青年は彼女の表情の全てを好んでいるが、その中でもお気に入り、なのだ。

「ヒナリ、ヒナリ、…ねむってる。俺は、……」

青年はびくんと体を飛び跳ねさせた。今、脳裏に、何かが走り抜けた。正体の掴めない、何かぼんやりとした気味の悪いもの。ぞっとするような恐怖。心臓が嫌に煩くなった。青年は必死に呼吸を整える。靄のかかった白く不気味な何かが頭の中に遡ってくる感覚。きもちわるい。思考を失おうとしかけた中で、唯一浮かんだのは、腕の中にいる彼女のことだった。彼女なら、彼女に頼れば、無条件に救われる。楽になれる。だが不幸なことに、彼は「たすけて」という言葉を知らなかった。溢れる感情と欲望だけが、煙のように彼の頭を満たす。

「ヒナリ、ヒナリ、ヒナリ、ヒナリ…っ、ヒナリ」

たすけて、ヒナリ。ようやくその言葉が頭に浮かんだときだ。微かに身をよじり、うっすらと、彼女の瞳が開く。

「……ちひろ?」

「ヒナリ、…ヒナリ、俺、……」

「……。だいじょうぶ、わたしがいるよ、こわくても、だいじょうぶ…」

彼女のちいさな手が、青年の髪に触れる。瞳をやわらかく細め、愛おしそうにその薄黄色を撫でる彼女に、青年はぐ、と唇を噛みしめる。こらえきれなかった涙が一滴、頬を伝い、枕に染み込んだ。

「ヒナリ…ヒナリ、ありがと…たすけて、くれ、て、」

「…ん、どういたしまして…」

抱きしめれば、同じだけの力で抱きかえされる。少女のまどろみが完全な睡眠へと変わるまでを見届けると、青年もふと、目を閉じる。ふたりが意識を手放し、抽象の世界に入ったとき、ふたりの頬にはまたもうひとしずく、涙が伝った。
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