夕陽の隣で歩むこと
現在、早朝5時。恐る恐る、彼方たちのいる部屋の扉を開ける。できるだけ気配を消して、音を立てないようにして入りたいのに、やけにこのポケモンセンターは老朽化が進んでいるらしい。ぎぎぎと嫌な音を立てた扉に、思わず身を引っ込める。ああ、これじゃあさらにどんな顔をして彼らに挨拶をしたらいいのかわからない!まだ朝だから誰も起きてないだろうけど、それにしたって。
一人、ポケモンセンターの廊下でうずくまる。そもそも、入ったところでまだ誰も起きていないのだから、彼らが起きてくる度にそわそわしなくちゃいけないことになる。だからといって、全員揃ったところに突入していく勇気もない。もういっそ、このままここを飛び出して逃げてしまおうか。そうだ、ちょうど高速船アクア号はこのアサギの港から出航していたはず…。そんなところにまで血迷いはじめていたから、気がつけなかったのだ。目の前でしゃがみこんで、心底不思議そうに、でも微笑みながら私を見つめる彼を。顔を上げた瞬間目が合って、思わず尻餅をついてしまった。…どうしよう。
「ゆ、ゆ、祐月…!びっくりした」
「はい。おはようございます、ヒナリさん。…大丈夫ですか?」
少し眉を下げて、祐月は困ったように笑う。どこを向いたらいいのか分からなくて視線をおろおろと戸惑わせていると、す、と差し伸べられてきた手のひら。ちょっと不服ながらも、その手を借りて立ち上がる。祐月はそんな私を見てまたくすりと笑っていた。
「…ヒナリさん。僕と一緒なら、中に入れますか?」
「え…」
「あ、すみませんいきなり…。さっきの貴女の百面相見てたら、もしかして入りにくいって思ってるのかなって…」
…きょとんと、してしまった。なんで私の気持ちを知ってるんだろう。魔法みたい。でも本人はというと申し訳なさそうに微笑んでるだけ。そうだよ、その通りだよ、…なんて言うのは少し悔しかったから、貸してくれていた手を強く握りなおして、もう片方の手で扉を開く。無言のうちに、えいと入ってしまえばこちらのものだ。ようやく呼吸が出来た気がした。
ありがとう、と礼を言うと、祐月はまたふんわり笑って返事をしてくれた。それから彼の動きをソファーの背もたれからこっそり追いかける。祐月がまず向かったのは、冷蔵庫だった。…て、冷蔵庫?というか、慌てていて気がつかなかったけど、祐月はいつのまにか買い物袋を持っていて、さっきはその帰りだったようだ。袋から取り出されていくのは味噌と、豆腐と、その他諸々。そして最後に出てきたのはエプロンで、祐月はその紐をぎゅっと結び、よし!と意気込んでいる。
「祐月、料理するの…?」
「あ、…はい。初挑戦なのでどきどきですが…」
「えっと…側で見ててもいい?」
「もちろん…あ、折角なら味見のときに手伝ってもらってもいいですか?」
邪魔にならないよう、一歩分距離を置いた隣から祐月の手先を眺める。祐月が最初に取り出したのは、豆腐だった。手のひらに乗せると、その手のひらをまな板代わりにしてあっさりと切っていく。手ぇ切っちゃうよ!と慌てたのもつかの間、祐月はあっという間に一口サイズの豆腐を完成させていた。…す、すごい。
「祐月、本当に料理初めて…?そんな手つきには見えないんだけど…」
「初めてですよ。でも、この前のアサギ食堂のカウンター越しに、おじさんの手つきを見てたので、これはそのまねっこです」
意外と上出来ですね、と祐月は微笑んでいるけれど、そういえばあのおじさん、そんな切り方してたっけ…?まずそこに注意が向いていなかったのだろう。全く記憶がない。というかまず、私は料理風景というものに注目が向いていなかったんだろう。私にとって、そこまで食事に大きな思い入れがないから。
そのあとも祐月は本当に手際よく包丁を使いこなし、鍋も使いこなし、味噌を溶かしていく箸使いなんか、…初めてなんて信じない。試しに一度だけ私もやらせてもらったけど、どうにも不器用らしくて味噌が塊になっていって散乱していく。どうせ溶けるから一緒ですよ、という祐月のフォローが悲しい。
そう間も置かないうちに、お味噌汁は簡単に出来上がってしまい。小皿にひとくち分注がれて、はい、と手渡される。恐る恐る口付けると、…あ。
「おい、しい…」
「……!本当ですか」
じぃん、って音がよく似合う。喉元を通って、おなかに溜まるぬくもり。それでもまだ仄かに残る、舌の上の味噌の味。豆腐もわかめも何も入ってない、ただの味噌味のお湯だっていうのに、どうしてこんなにひとのこころの奥までも温めるんだろう。
お皿を持ったまま固まってしまった私を見て、祐月は安心した風に微笑んだ。
「…なんだか、僕まで幸せになりますね。この仕事。そうか、食べるって、食事って、こういうことですね…」
そんな独り言に、はっとする。食べることは、生に直接繋がること。一時は拒んだそのことを、祐月は今みずから…しかも、私という誰か、他人と共に。
ふと、昔のことが頭をよぎった。母親と暮らしていた頃のことだ。買い置きの弁当が冷たく、むなしくテーブルに鎮座していて、そのせいで幼いながら電子レンジの扱いには慣れていた。そのときの、ひとりぼっちのお弁当の温度と、今ふたりで飲む味噌汁の温度。触れた温度は同じくらいかもしれない。けど、心の底にじぃんと溜まるこの温度は、比べるまでもない。いつまでも残る穏やかな熱が、祐月のご飯にはあった。
「祐月、あの、お願いがあるんだけど…」
「はい、何ですか?」
「…また作ってくれる?この、お味噌汁」
ぱちぱち、赤い瞳から星がこぼれる。私も少し照れ臭くなってきて、視線をどこか逸らしたとき、ふんわりとやわらかな声が降ってきた。幸せになる、あたたかい魔法の声。
「…はい。僕に任せておいてください」
「お、なんかいい匂いする…」
「漣さん、おはようございます」
「…どうしたんだ祐月、エプロンってお前、また新妻みたいな恰好…」
「……。漣さん、おやすみなさい」
「えっ」
のさのさ起きてきた漣を一目見て、慌てて祐月の後ろに隠れる。…うう、上手く話せるかなあ、どんな顔して会ったらおかしくないかなあ、変に気を使われたくないなあ。悶々とあれこれ思いを巡らせながら俯いていると、ふと、その視界が暗くなる。
「ヒナリちゃん、おはよ。よく眠れた?」
何気ない、何てことなさそうに。漣は少し屈んで私と目線を合わせると、ふと微笑んだ。あまりにもいつも通り、いつも通りに、今の私はどうも救われてしまう。そのままソファにかけようとしていた漣の服の端っこを摘む。
「れ、れん」
「うん?どうしたの?」
「あの、その、……おはよう」
もじもじと、目は合わせられなかったけれど。なんとか声を絞り出して、それから摘んでいた手を離す。…沈黙。ああ、こうなってしまうのが怖かったんだ!おはようのたった一言さえも上手に言えなくなるなんて!顔は見れていないけど、きっと、漣も戸惑っているだろう。急に私が一人でうじうじしてるから。
祐月は、お味噌汁の面倒を見るのに戻ってしまったようだ。ふつふつ泡が出てくる音と、ことことお玉が鍋に当たるがする。ふつふつ、ことこと。
「ヒナリちゃん」
低い声に思わずびくつくけど、次の瞬間にはそれも出来ない。それくらい強く、抱き締められていた。びっくりして声も出ない私に、漣はすぐ力を緩め、額と額を付き合わせる。そして少しはにかんで、言うのだ。
「…ほんと、敵わないよ。おはよう、ヒナリちゃん」
「う、うう…おはよう…」
「漣さん、ヒナリさん困ってますよ」
「え、まじで?ごめんヒナリちゃん、」
「ふあ…おはよ祐月ー…って漣あんたまたヒナリにちょっかい出してー!ヒナリ!こっちおいで!」
理央が起きてきて、静かな朝がだんだんと賑やかな声で満ち溢れてくる。気がつけば、いつも通りの朝、いつも通りの会話。それはとても愛おしくて、優しくて。私が私でいるために必要不可欠なものなのだ、きっと。ぎゃーぎゃー喧しい理央と漣と、祐月がお皿を運ぶ手伝いをしている彼方と、椅子に座ってまた船を漕いでる千紘とをそれぞれに見て、ふと思った。
「ほら、漣さんも理央くんも座ってください!千紘くんも起きてください、朝ご飯ですよ」
祐月の呼び掛けに、一同が続々と席につく。白米とサラダとお味噌汁。それだけ。ポケモンセンターの食堂で出されるもののほうが正直メニューは多いのだけど、肝心なのはそこではない。皆もおおーっと感嘆の声をあげて、まじまじとテーブルの上のご馳走を眺めていた。
…でも、やっぱり言わなくちゃ。ううん、言いたい。うやむやにして、過去に流してしまうのは、楽なこと。でもそうして、彼らが私のことを考えてくれたこと、気を使ってくれたことにも目を逸らすのは、失礼だと思うのだ。
私はちゃんと知っている。彼らがどんなに優しくて、私を励まそうとしてくれているのか。
「…あの!」
予想以上に響いてしまって、自分で自分の声にびっくりする。きょとんとお揃いに目を丸くする五人分の瞳につい怖気付いて、視線は俯いたままだけど。言葉を選んで、放つ。
「ありがとう…、いっぱいありがとう。それと、ジム戦絶対勝つから、もうちょっとだけこんな私に付き合ってくれ、ま、せんか…?」
彼らは、言葉にはしなかった。微笑みで、その想いの全てを伝えてくれた。
「もう!辛気くさいんだからヒナリは!早くご飯食べよ!それと今日は僕の考えた特訓メニューもあるんだし!」
「そ、そうだね!それじゃあえっと、」
いただきます。
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