花の輪のひとつずつ
真っ白な世界に、彼方がいた。進化する前の彼方が、話している。真空のように、音はない。裏表のない、いつも通りの笑顔で、彼方がぱくぱくと口を動かしている。笑ったり、ちょっと怒ったり、首をひねったり、目を丸くしていたり。ころころ変わる表情に、やっぱり彼方は可愛いなあと思ってしまう。
その彼方の隣――つまりは彼方の話し相手――はというと、光。まるで見てはいけないものを隠すみたいに、真っ白な光が、彼方の輪郭を照らしている。でも不思議と、あれは誰?なんてことは、思わなかった。見えるのも、思うのも、彼方のことだけだった。
だからこそ気づいた。その唇がことあるごとに紡ぐ、ある言葉の羅列。ヒナリ。私の名前。それをあんまりにも嬉しそうに、必死そうに、時に頬を赤らめながら語っている。気付いた瞬間、俯いた。やめてほしいんだ、そういう、まるで"好き"みたいなこと。…勘違いしたままでいられなくなってしまうじゃないか。
それなのに。ふと気がつくと、棒立ちしていた私の隣に、いつの間にか彼方がいる。背も伸びて、おとなになってしまった彼方は、微笑み方が少し落ち着いた。緩んだ瞳から注がれるたおやかな視線、唇は閉じたまま、やわらかく両端が持ち上がる。見とれるうちに、彼方はそっと私の頬に手を添えた。ぼんやりした世界の中、急に人肌の生々しい感覚が伝わる。びくっ、と反射的に肩が跳ね上がるけど、それでも、逃げたらいけないと思った。恐る恐る、頬に触れた彼方の手に、私の手を重ねる。じいん…と、染み入る慣れ親しんだ温度。心地いい、彼方の温度だ。
触れられた頬も徐々にその温度に染まって、しあわせがからだじゅうに広がっていく。骨ばった指と指の間に、ひとまわり小さい私の指が絡むと、それは一層に増していく。…しあわせ。あなたに触れられると私、どうしようもなくしあわせで、この心はとてもとても、安らぐの。だからもっと、もっと頂戴…。口許を緩め、瞼を伏せて、その手のひらに私の全てを傾けていく。溶けるような心地がした。
でも、その手の脈は次第に速くなっていってて、…どうしたのだろう。重力に任せて閉じていた瞼をゆっくり開いていくと、隙間から差し込んでくるオレンジ色の薄明。段々とそのまぶしさにも目が馴染んで、視界が明瞭になる。そして私の目が真っ先に捉えたのは、ぱちぱちと瞬きをする赤い瞳だった。
「……、かな、た?」
「! ご、ごめん…じゃなくて、おはよう…じゃなくてやっぱりごめん!あああでもおはようも…あーわかんない!」
私の手をするりと抜け出し、なにやらわたわたと手を動かす彼方。結局、どっちが言いたいのやら。というかそもそも、謝られるようなことされたかな…と、そこまで考えて、ようやく本当の意味で目が覚めた。そうだ、私は昨日彼方に、だ、抱きつかれたまま寝ちゃって…だからあんな夢見たのかな。というかあの手の感覚、やけにリアルだと思ったら、本物だったなんて。それに私、頬擦りみたいなことしてたし、…全てが蘇った途端、私も彼方も同じように下を向き、羞恥を堪えていた。
チュンチュンと、鳥ポケモンたちの鳴き声が、このなんとも言えない空気を嘲笑っているかのようだ。布団の上に並んだふたつの握りこぶしも、なんというか、虚しい。そういえば、あのとき寝てしまったのはシンクの前のはずだったのに、今私のからだを受け止めていてくれるのは柔らかいベッドの上。…彼方が、運んでくれたのだろう。火照りが増した。
でも、いつまでもこうしているわけにはいかないと思ったのだろう。首から下の彼方の身体が、ぎゅっと縮まる。そして顔が上がったかと思うと、
「あの!ヒナリ、あのね、」
「ちょっと彼方、ヒナリ起こしに行ってどんだけ経ったと…って、起きてんじゃん。朝ご飯できてるから、早くおいでよ?」
「あ…う…うん!今行くから理央!えっと、ああ、やっぱり、着替えとかあるだろうし、先行ってるから、ヒナリ!」
遮られてしまった彼方は、ばっと大袈裟に立ち上がると、ぎこちない笑顔を私に向けた。私が上手く反応できていない間に、理央の後を追って扉を閉めようとするけれど、このままじゃあまりにも私の気持ちが収まりきらなくて。
「待って、彼方!」
空気に馴染まない私の声が部屋に響いた。でも、彼方はどう足掻いても、ポケモンだ。トレーナーである私のことを無視できないのは分かっているから。権利の乱用かもしれないけど、それでもいい。案の定ピタリと足を止めた彼方は背中を向けたままだけど、動けずにいる。その間に、ひんやりしたスリッパに足を滑り込ませ、ぱたぱたと歩み寄った。
「……彼方、」
もう一度、彼の名を呼ぶ。今度は静かに、ちいさな声で。振り返って向き合った彼方の姿に、私はふと夢の中の彼を思い出した。伏せがちな瞼の奥から注がれる、甘い赤色。
「……。ヒナリ、覚えてる?」
「何を…?」
「何って…えっと、昨日僕が言ったこと…」
彼方は俯いて、今にも蒸発しそうなほど顔を赤らめていた。昨日の夜の記憶を引っ張り出したとき、引き出しの一番上にあるもの。たったあの二文字の言葉が、曖昧な記憶の中で唯一くっきりと輪郭を保ったままでいた。つまり、私は彼方の質問にイエスと答えるべきなのだ。それは、分かっている。
でも、今私の目の前にいる耳まで赤い青年は、その答えを望んでいないのだろう。多分。きっと。…いや、絶対に。それに、もし私が本当のことを言ったなら、これから私と彼方の関係はどうなってしまうんだろうか。出会ってからずっと築かれてきた『幼馴染』とか『相棒』とか『ポケモンとトレーナー』とか、そういう関係に割り込んできた『これ』は、何という名前をつけて私たちの中におさめればいいんだろう。そもそも、おさめるなんてできるのかな。それに、まず本当に実在するのかも分からないのに。
ともかく『これ』は、今の私たちにあってはいけないもの、なのだ。存在してしまったら最後、いつも通りではいられなくなってしまうのだろう。彼方も、私も。解決策は簡単。私が気づかなければいい。たったそれだけのこと。
握りしめていた拳に、もう一度ぐっと力を入れ直す。呼吸を落ち着けてから、ばっと顔を上げた私に、彼方はびくりと目を丸くする。さあ、言わなきゃ。そうは思えど、私の口ははくはくと音にならない言葉を紡いでいる。ヒナリ…?と、戸惑うような声を上げかけた彼方を遮って、私は場違いなほどあかるく笑った。
「ううん!寝ぼけててあんまり記憶がなくて!…だから、何も覚えてないよ」
「……!そ、そっか、じゃあよかった」
「何かあったの?」
「ううん、覚えてないならいいんだ、そっちのほうが、いいんだ」
彼方はまるで自分に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返していた。それは、結果的に私にも重い楔となって突き刺さっていることを、彼は知らない。
「それならいいけれど、彼方もきっと寝ぼけてたのかもしれないね。ほら、お酒入ってたし、思いもよらないこと言っちゃったのかも。気にしなくていいんじゃないかな」
「…うん。そうだね。ごめんねヒナリ、朝から変なこと言っちゃって」
「大丈夫、気にしないで!ほら、理央にまた怒られちゃいそうだし、彼方は先に行ってて?」
「うん、じゃあ、待ってるね」
泣き笑いみたいな表情を浮かべると、彼方は扉の奥へと消えた。その背中を笑顔で見送ったあとも、私はしばらくそこから動けずにいた。…やっぱり、本当を言ったほうが良かったのかな。あんな寂しそうな顔をさせたくはなかった。でも、もし本当を言ったなら、何よりもまず、私が怖い。なんて我儘で、自分勝手な理由。ぺしゃんと座り込んで、しばらく頬に両手を当てていた。
……ごめんね、彼方。でも、これで同じ。いつも通りの、これまで通りの幸せが続くから。
こうして私は、生まれてはじめて、彼方へ嘘をついたのだった。
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