花の輪のひとつずつ
タンバシティは、静かな町だった。さざ波と、砂と、風の音と。それら全てが調和していて、それが町の音楽。人の声はどこか遠い。荒波寄せる海の街、とも呼ばれているこの町だ。元々住んでいる人も少ないのだろう。
けれど私は、けっこうこの町の雰囲気を気に入っていた。どこか、グレンに似ているのだ。だだっ広い水平線や、潮の香りや砂の感触。海辺の町に行けばどこもそうかもしれないけれど、ここは好き。だから昼間に散々歩いた砂浜をまた、こうして夜散歩に出かけてしまうのだ。理央たちにバレたら危ないって怒られるかもしれないけど。
さ、さ、と砂を踏む音がやけに大きい。ふと天上を見てみれば、幾多もの星々が私を見守っていた。静かなこの街では、星の音さえも聞こえる気がする。どんな音が似合うだろう。きらきら、ちかちか、ぽろぽろ…いろいろあるけれど。
ねえ彼方、何がいいかな?尋ねようと喉を震わせる寸前で、はっと我に返った。そっか、私、ひとりだ。海辺に来ると、無意識に彼方とふたりきりでいたときを思い出してしまうのかもしれない。あんな風に何気ない、ふたりの物語の中に、私はまだいたい。
波が鳴った。風が髪を揺らした。……静寂。静けさが、寂しい。そんな言葉が、今の情景によく似合っていた。
そんな風に、感傷に浸っていたからかもしれない。普段なら気がつけたはずの、背後の気配に気が付けなかったのは。突如ふわりと飛び込んできた朱色の髪と艶やかな香水の匂いは、さっきまでの静けさとあまりにも差が激しすぎたらしい。くらりと眩暈がした。
「ヒナリ、ちゃんっ!」
「……?え…っ!?」
「驚いた?こんなところでまたあなたに会えるなんて、私もびっくりしちゃった!」
「ま、待ってください、あの、いろりさん…!」
後ろから腕をお腹に回され、柔らかな体に密着され。渋々腕の力を緩めた隙に振り返ると、彼女の笑顔が目に入る。それはまるで悪戯好きなあどけない少女のようで、そこがまたいろりさんらしいと思う。
いろりさん。エンジュで出会い、ヒワダまで私を乗せていってくれた、ウインディのお姉さん。彼方の友達。おとなでこどもなひと。不思議なかんざし。
「ふふ、元気そうでよかったわ、ヒナリちゃん!」
「いろりさんこそ…!お久しぶり、です!」
そして、自由を愛するひと。それは私の、ほのかな憧れ。つめたい潮風が凍らせた私の頬は、いつのまにか彼女の微笑みにつられていたらしい。意識せずとも解れていた。
***
「…でもいろりさん、どうしてタンバに…?」
「知り合いがいるのよ。この近くにね。…ヒナリちゃん、うずまき島って知ってる?」
「…あの、ルギアが住むっていう」
「ええ。そのルギアにね、会ってきたの」
「は、はあ…」
曖昧な返答しか出来ずにいる私を、いろりさんはくすりと笑った。だって、あまりにも話の規模が大きすぎる。私は私のことで精一杯だと言うのに。でもコーヒーカップに口付けている彼女は、さも当たり前のようにそこに佇んでいる。私も負けじとカフェオレを飲み干そうとして、舌を火傷した。またいろりさんに笑われた。
人もまばらな、夜のポケモンセンターのレストラン。いるのは何やら戦略をパソコンに打ち込んでいるエリートトレーナーや疲れた背中のお父さんだったり、日中じゃあまり見かけない人たちで、なんだか私だけ場違いに浮いている気分だ。それでも悠々とした態度のいろりさんはさすがである。そりゃあルギアなんて伝説のポケモンに会うことに比べたら、こんなの大したことないに違いないのだけれど。
そもそも、ルギアって本当にいるポケモンなんだ。私にとっては物語の中の、伝説の存在だったから。そう呟くと、いろりさんは目を丸くして、次の瞬間けらりと笑った。
「そりゃあ、いるわよ!そもそも、彼らを作り出したのは人間だし、彼らの形を保っているのもまた人間よ」
「……?どういうことですか?」
「このジョウト地方の伝説ポケモン――ルギアと、…ホウオウ。彼らは人間の信仰を力の源にして姿を形成したポケモンなの。いわゆる土地神様ってやつね。ここまでは、大丈夫?」
私が小さく頷くと、いろりさんは緋色い瞳をゆるりと細めた。
「神様っていうのは、崇める人間がいるから神様になる。逆に言えば、忘れ去られた神はその姿かたちを保てず、文字通り消えてしまう。彼らの運命は人間に委ねられてるのよ」
「…ああ、ちょっとわかる…ような…?」
昔読んだ物語の挿絵が脳裏に浮かんでくる。悠々と翼を広げる二匹のポケモンを、人々が見上げ崇めているのだ。でも、私が想像できるのはその挿絵の中――ぺったりと平面的で壁画のような、二次元の中の二匹のみ。立体的に現実として、ルギアやホウオウの艶やかな羽ばたきを思い起こすことはできなかった。
しかもいろりさんは、それをまるで昨日の夕飯のメニューみたいにサラサラと話すものだから、なんだかギャップが激しすぎて。私のちっぽけな頭脳では、二匹の大きな鳥ポケモンが不恰好に踊っているだけだ。
「でも、どうしていろりさんはそんな神様――ルギアの元に…?」
「……、ふふ。あなたは、どうしてだと思う?」
「……。質問に質問で返すのは、ずるいと思います」
「…ごめんなさいね、ヒナリちゃん。私から言い出したのに、中途半端にしか言えなくて」
つまり、答える気はないということだ。こういう大人の常套手段は嫌いだけど、謝られてしまうと何も言えなくなってしまうから、余計にこのひとは、ずるい。
「でもね、私がこの話を切り出したのはそっちが目的じゃないの。…ヒナリちゃん、キリノというトレーナーを知ってる?」
「!」
途端、ヒュッと心臓に空いた穴に冷たい風が通り抜けた。キリノさん。ヨシノシティで私のこの"力"を知ってしまって、利用しようとしたのだろう。無茶なバトルを仕掛けてきた男の人。大きな箱を背負った、虚ろな人。忘れられるはずがないけれど、あまり思い出したくもなかった。
彼女は私の反応で答えを悟ったらしい。険しい表情でさらに続けた。
「彼がね、うずまき島にいたの。しかもルギアが現れるという滝の前に…ずっと何かを懇願してた。自分の名を名乗って、祈りというよりも、懇願。痛々しいほどの懇願…。その中にね、あなたのことがあったから、伝えておかなければならないって思ってね」
「私のこと…?」
「そうよ。ルギアは結局、彼の前に現れたの。彼はルギアがテレパシーを使えるものだと信じていたらしいわ。でもそれは伝説の中だけだった。鳴き声をあげるルギアに必死に彼は懇願したけれど、彼にはルギアの拒絶の言葉が通じなかった」
うずまき島に行ったことはないから、あくまでもいろりさんの話の中だけど。滝の前、大きな翼を広げる伝説ポケモンを前にして、彼は叫び続けたのだという。痛々しいほどに声を張り上げ、やがて声を枯らし地面に拳を打ち付けるあの人。…ヨシノシティで出会った時との印象の差が激しすぎて、よく、つかめない。
「元々、あの引きこもりの神様は引きこもることで神性を保ってるのよ。出てくるのは天変地異の大嵐のときだけ。人間じゃどうしようもなくなってしまったとき、それを治めるのがルギアの仕事。そのとき初めてルギアは信仰に対する御利益をばらまくの。だから、一個人の願いを叶えるなんて、ルギアの仕事に入らないのよ…それを彼は理解できなかった」
「いろりさんは、それを見ていたんですか…?」
「ええ。彼より先に着いていたから、滝の内側からこっそりと覗かせていただいてたの。マジックミラーみたいですごいのよ、あの滝。……でもようやく、彼も意思の疎通ができていないことに気がついたらしいの。そこであなたのことが出てきたわ」
――ここには通訳がいるんだ…俺の願いを代弁してくれる、ポケモンの考え方を伝えてくれる、そうだ、やはりあの少女が必要なんだ…ポケモンの言葉を理解していた、あの子だあの子が必要なんだあの子が絶対に絶対に絶対に…次は…ホウオウのときは必ず…。確か名前は、
「ヒナリ。…あなたの名前を、彼は確かに呟いていたわ」
あの真っ黒で底のない眼が、長い前髪の中で鈍く光る。その後彼はジュゴンに乗り、その場を立ち去ったと言う。それが、いろりさんの見た一部始終。ごくりと喉が鳴った。…キリノさん。一体何がしたいのか。
分からないものは、怖い。怖いものには、触られたくない。優しいものに触れられていたい。その願いを、あまりにも簡単に叶えてくれるひとが、私の周りにはたくさんいてしまうから。温度のない掌に、陽のぬくもりのような熱が重ねられる。慣れ親しんだ温度。ばっと顔を上げると、優しすぎる彼はあたたかな色の瞳を緩めた。
「かなた、」
「…ヒナリ。だいじょうぶ。僕らがいるから。大丈夫」
「あら彼方、いつの間にか進化してたのね、一瞬誰かと思っちゃったわ!おめでとう」
繋いだ手はこの前のとは違って、男のひとのそれだけれど、そのことさえも気にならなかった。それくらい、私は依存している。不安を全て、これで溶かしている。彼方はそっと微笑みを浮かべたあと視線を流し、目の前に座るいろりさんを真っ直ぐ見据えて、告げた。
「ありがとう、でもいろりねーさん、ヒナリをいじめないで」
「ごめんなさい。…そうね、伝えたほうがいいと思ってのことだけど、これじゃあ怖がらせてるだけね。もう少し言い方を考えるべきだった…駄目な大人ね、私」
「いえ、そんな、いじめただなんて!むしろ伝えてくれて、ありがとうございます…」
あたふたしながらもそう伝えると、あなたは優しいのね、と微笑まれた。優しいのは、あなたのほうだと思った。
「あー彼方!ヒナリ見つけたんなら早く連れ帰ってきてよ!明日のジム戦の作戦会議するんでしょー!」
「ほら、呼ばれてるわよ?ふたりとも、今日は遅いし、またゆっくり話しましょうね。それから彼方、」
理央のよく通る声がずんずん近くなってきて、それと一緒に日常の空気が戻ってくる感覚がする。いろりさんという非日常が少し遠くなった瞬間、彼女は私の手を引いて立ち去ろうとしていた彼方を呼び止めた。つられて私も振り返ると、もう随分と遠い世界に彼女がいるような気がした。
「…ヒナリちゃんを、ヒナリちゃんの強さを、助けてあげて。支えてあげて」
「うん。大丈夫だよ、いろりねーさん」
行こう、と手を取られ、理央の元へ帰っていく中、ふと振り返る。夜中のレストランの端っこに、ちっぽけでちいさな女のひとがいた。
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