冷えた掌で陽に触れて

おねがい。怒らないで、おかあさん。約束するから。おねがい…。

はっとして、目が覚める。とくとくと早かった鼓動がだんだん落ち着いていくのを、胸に手を当てて感じる。…嫌な夢を見たものだ。カーテンの隙間から覗く景色はまだ真っ暗、枕元の時計の針も案の定真夜中を指している。もう一度ベッドに倒れこむのには目が冴えすぎてしまって、もう深夜の物思いに耽ることにした。時計が刻む、こち、こち、という無機質な音がやけに耳障りで、布団を頭まで被せるけれど、あまり意味はない。時は、流れる。流れてしまったものは、だんだんと遠く薄くなって、やがては消えてしまう。それは記憶も同じで。それでも、時計はこちこちと、虚しく時を刻んでいた。

さっき見た夢は、私が覚えている一番最初の記憶だった。母に懇願する私の姿。ポケモンの声を人間が話しているように聞こえるという、私の奇妙な力に気がついてからだ、母も私も、変に距離を取るようになってしまったのは。

それは確か、ジョウトの小さな田舎町に住んでいた時のことだったと記憶している。母に公園で遊ぶようにと命じられた私はある日、木陰に震えながら佇むハネッコを見つけた。母がポケモンとあまり触れ合いたがらないからか、こんなにも近くにポケモンがいるなんて初めてのことだった。恐る恐る近寄ってしゃがみこむと、ときめく心を抑えながら、そおっと。息に混じった言葉が、ハネッコの頭にある二枚の葉を微かに揺らした。そうするとしばらくして、小さなまなこが持ち上がり、私を捉える。

こんにちは、ハネッコさん。あなたは、ポケモン?

…こんにちは。わたしは、ポケモン。ハネッコよ。

へえ、ポケモンってこんなかんじなんだね。ねえハネッコさん、あなたをなでても、いい?

彼女ーーハネッコもまた、何も知らない女の子のようだった。フワフワとした、それこそ宙に浮かぶような話し方の彼女は、私と会話できることを何も不思議だと思わなかったらしい。だからこそ、私は勘違いしてしまったのだ、私は至って普通だと。やがて彼女は、突然の強風に飛ばされ、仲間とはぐれたということを私に教えてくれた。母と離れて一人で冒険してみたい気持ちもあって、一緒に仲間を探してあげるよ、と立ち上がってしまったのが、全ての過ちだった。

また飛ばされないようにと、彼女を腕の中に抱き締めて、私は街のあらゆる鳥ポケモンに尋ねて回った。公園で遊んでいたポッポやオニスズメ、街路樹で眠っていたホーホー、旅のトレーナーが連れていたトゲチックやピジョンにも、そのトレーナーの目の前で尋ねた。

勿論、そんな私を見た街の人は不可解そうな顔をしていたと思う。可哀想な子にも見えただろうし、気持ち悪いと思われていたかもしれない。とにかく大切なのは、ハネッコを仲間の元へ届け終わって辺りを振り返った時、私は様々な種類の、奇異の視線に包まれていたということ。舐めるような、射抜くような。這うような、突き刺すような。避けるような、手招くような。その色はたくさんあったけど、どれも澱み、濁った色をしていた。気持ちが、悪かった。

そんな時に迎えにきた母は、私を酷く叱りつけた。当たり前だと思う。そんな気味の悪い子供を持つ親の心境なんか容易に想像できる。体裁を気にする人でもあったから、尚更そうだ。そして私のことが人に知られる度に、私達は逃げるように引越しを繰り返した。母は守ろうとしていたのだ、私というより、自分の立ち位置を。幼心にそれを悟っていたけれど、別に当たり前だと思っていたし、今でもそう思う。だって、それしか知らなかったのだから。

いってらっしゃい。スーツ姿の背中を見送るとき、嫌悪感とか、そういう類のものは何も抱かなかった。ただ、スッと胸に冷たい風が通り抜けるような、そんな心地がした。それが何という名前の気持ちなのか、私は今だによく知らない。

その代わりといったら良くないけれど、野生のポケモン達とこっそり話しに行くのが幼い頃の楽しみだった。幼稚園から抜け出して、こっそり話しかけてみると、彼らは皆優しくて、あたたかかった。時には人間嫌いのポケモンもいて、噛みつかれたりすることもあったけど、それでもちゃんと痛みを知ることができた。なのに、やっぱり私はどこか抜けているらしい。上手くやっているつもりなのに、気がつけば大量の人々の視線を受けた。そうすれば、怒られることが条件反射のように頭に浮かんで、私はすぐに泣き出した。幼稚園の先生も遠巻きで慌てているだけだし、助けを差し伸べる人もいない。さっきまで話していたポケモン達も戸惑って、やがて住処へ帰っていってしまう。そしてやはり、母に叱られ引越しを繰り返す。そんな日々がいたずらに過ぎていった。

そして私も歳をいくつか重ねた。ある程度の物の良し悪しも分かり、野生のポケモンとも一定の距離を保てるようになった時、私のこころにはどこか凍りついてしまった一箇所があった。奥底に眠るその氷は、今でも時々私を支配しているらしい。ヒヤリと凍りついたような感覚が、時々私を包み込むのだ。一瞬で全身が霜焼けになって、全ての神経が麻痺するようなつめたさ。もう、慣れてしまったけれど。

だからなのかもしれない、私がまた、ポケモンというあたたかさを求めたのは。

私と母が最終的に落ち着いたのは、グレンタウンというのどかな島だった。少しずつ人間の友達も出来たけれど、今一つ心を開くことは難しくて、正直孤立気味だったのだと思う。唯一心を開いたのは、グレンジムリーダーであり、島の人にとって頼れる存在であるカツラさんだった。ジムに一人でひょっこり現れては、彼のギャロップやウィンディをじっと見つめる不思議な少女を、カツラさんも気にかけていてくれたらしい。だんだんと人見知りも解けてきた頃、私はついに自分のことを全て話してしまった。母のことも、力のことも。さすがのカツラさんも驚いていたが、ギャロップ達と当たり前のように会話をする私を見ると、泣きそうな顔で力強く私を抱き締めてくれた。そんな人だから、頼めたのだ。十歳になって旅に出るより前に、ポケモンが欲しい、と。

あれは確か、穏やかな陽射しが心地よかった春のこと。ガーディと戯れている同い年くらいの男の子を横目に、私はグレンジムへの道を駆けた。あの子は確か、親からあのガーディを預けられたと言っていたっけ。いいなあ、あんなにあったかそう。まだ冷える指先を吐息で温めながら、ジムの自動ドアを開けて、おろおろしながらも進んでいった。顔見知りのジムトレーナーのおじさんがどうしたの、と声を掛けるのも、今日は無視。いいな、いいな。私も、大好きな唯一無二の相棒、なんて存在に、幼いながら憧れていた。クイズを出してくる機械は小さい体を駆使してさっと潜り抜けていくという、いつものズルをして(カツラさん公認だから、なんとなく許されていた)、カツラさんのいる部屋に辿り着く。だけどいつもの禿頭のおじさんの席は空で、…もしかして、おでかけしてるの、かな。仕方なく待とうとしていた時、ちょん、と私の頭を後ろから突つくものがいた。驚いて振り返ると、そこには炎のたてがみを持つポケモンが、柔らかく微笑んでいた。

「ギャロップ、」

『ヒナリ、どうしたんだい。うちのマスターなら今出掛けてるよ』

わあっとこみあげた嬉しさから、その首に抱きつこうとするけれど、背が届かないで苦しむ私を見て、ギャロップは脚を折り畳み座り込んでくれた。改めてぎゅっと抱き締めると、ギャロップの鼻先が私の首筋を掠めたのがちょこっとくすぐったくて、また笑った。

やがて私も床に座り込んで、ギャロップを真正面から見つめる。いかにも真剣な風に話す私に、ギャロップは首を下げて、やっぱり優しかった。

「ギャロップ、あのね。…カツラさんにはまだ、秘密にしておいてくれる?」

『…おう。何だ?俺が聞いてやろう』

「…私、ポケモンがほしいの。自分のポケモン。あったかい、ポケモン」

『…ほーう。俺じゃ足りないのかい?』

「そうじゃないよ!ギャロップも、あったかくて優しくて、私大好きだよ。でもね、やっぱりギャロップは、カツラさんのポケモンだから、ずっと一緒にいるわけにいかないもの」

『なら俺、ヒナリのものになろうかな?』

「そんなのだめ!ギャロップは、カツラさんのギャロップだからギャロップなの!」

からかうような台詞にも一生懸命に反論するものだから、ギャロップも笑ってしまっている。むう、と私が拗ねると、ギャロップは小さく謝って、続きを促すように視線をくれた。

「だから、ね。ポケモンが、ほしいんだ。私だけを見てくれるポケモン。ちゃんと友達になって、相棒になって、たまには喧嘩もしたいな。それで、色んなところ…高くて広くて遠いところを一緒に目指すの。ずっと一緒に。ずっと、あたたかいの!」

『…そうか。多分その夢、叶うぞ』

「え?どういう、」

「ヒナリ!クイズだ!だーれだ?」

突如、背後から伸びてきた手によって視界が真っ暗になる。ひゃっ、とびっくりした声をあげてしまったけど、この陽気な声、このごつごつしい手のひらを、私はよく知っていた。火山の町グレンタウンで、誰よりも熱い人。…でも、全部聞かれてたと思うと、何だか悪事がばれた気分。ごにょごにょと誤魔化すように、小声で答えを呟いた。

「か、カツラさん…」

「だーいせーいかーい!ギャロップ、留守の間ヒナリのことをありがとうな。好きにしていていいぞ」

『いや、好きでやってるだけなんだけどな。…でもまあ、俺はここで退散するのが一番みたいだし。じゃあな、ヒナリ』

またねギャロップ、ばいばい。ゆっくりと立ち去る背中に小さな声を投げた後、カツラさんと目が合う。…なんだか、決まり悪いな。視線をうろうろさせていると、カツラさんは座り込んで私の両方の頬を手のひらで包み込み、サングラスの奥の瞳を和らげた。

「…ちゃんと、わしに言ってごらん」

早まる心臓に手を当てる。ああ、私はここで生きているのだ。ちゃんとあたたかな存在なのだ。そのことを、瞼を伏せて確かめる。思い切ったように真正面のカツラさんを見つめ、私は素直に言うことができた。

「カツラさん、…あのね、私、自分のポケモンがほしい」

「どうして?」

「みんなみたいに、戦ったり、お世話もして、それでいつか、一緒に旅をしたいの。どこか遠いところに、一緒に行きたい」

「…ふむ」

「そしたら私、寂しくないよ。お父さんもお母さんもいなくても、ひとりじゃないもの。それに、もうお母さんにめいわくかけないでいること、できるよ。だいじょうぶ、だから、」

その時カツラさんは、とても憐れむように私を見ていたのを、今でもはっきりと覚えている。別に私は、自分を可哀想な子に見せたかったわけでも何でもなかったし、そんな発想すらなかった。ただ、その時のありのままの本心を口にしていた。

やがてカツラさんは、私の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。大きな男の人の手。父親がいたら、きっとこんな風だったんだろうか。そんなことをふと思っていると、カツラさんは微笑みながら私にもう一度、さっきと同じことを言った。

「ヒナリ、クイズだ!」

「…なあに?」

「ポケモンとくらすうえで、いちばんたいせつなものってなーんだ?」

「いちばん、たいせつなもの?」

「そう。いちばんだからひとつだけだ。さあ、どうする?」

自分とポケモンが、一緒にいるところを想像する。そこでいちばん、たいせつなもの。そう考えたら、答えはそれほど悩まずにスラスラと言葉になっていた。カツラさんとギャロップ達を見ていても、ガーディと男の子を見ていても、そういえば同じことを思っていたっけ。

「あったかいこと。あ、からだじゃなくて、心が。一緒にいると、あったかくなれること。ポケモンも、人間も!それが私の知ってる、いちばんたいせつなもの」

どうかなあ、とばかりに小首を傾げてみせる。寂しさは冷たいけれど、それも二つ、寂しさと寂しさが混じり合えばぬくもりになると、本で聞いたような記憶があったのだ。ぬくもりは、きっと私もポケモンも幸せにしてくれるだろう。

カツラさんは、言うなればそう、マメパトが豆鉄砲を食らったようにきょとんとしていた。きっと、信頼とか愛情とか、そんな言葉を予想していたのだろう。そう思うと、私の答えは少し奇妙かもしれないけれど、それでも私の出した答えはこれだ。私が短いけれど生きてきた中で見て触れて知ったものは、これだけだ。やがてカツラさんは、私の力を知った時と同じように、ぎゅっと力強く私を抱き締めた。

「お母さんには、わしが何とか説得してやる。でも、ヒナリもちゃんとお願いするんだぞ。約束できるかな?」

「うん、約束、するよ!」

「…よし!クイズもだいせいかいだ!ヒナリ、わしがとびっきりのポケモンを連れてきてやろうじゃないか!ヒナリにぴったりの、あったかいポケモンを!」

「ほんとう?」

「ほんとう!」

途端に笑顔が身体の内側からむくむく溢れてくる私を、カツラさんが抱き上げて振り回す。ほんとうに、ほんとうに、夢じゃない、未来になっちゃった!私のポケモン、ともだち、相棒!泣きたくなるほど嬉しくって、私は必死にカツラさんにしがみつきながら、未来のことを夢想していた。
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