花の輪のひとつずつ

ああ、何だかいい匂い。ちょっと酸っぱいような、柑橘系の香りだ。それと一緒に甘く香ばしい、それはそう、ワカバのおばあちゃんの作ってくれるお菓子が焼けたときのような…。それでようやく目が覚めた。はっと辺りを見回すと、いつの間にか誰かがソファに移動させてくれたようだ。他の皆は既に起きているらしくて、彼方や漣におそようございます、なんて笑われて、ちょっと恥ずかしかった。

「なんだか、いい匂いがするね…」

「それならあれだよ。理央たちの努力の成果」

漣の指差す先には、キッチンの奥のほうにあるオーブン。タイミングよく、チーンと小気味良い音が抜けてくる。焼きあがりの合図だ。

「理央、理央!…焼けた!」

「分かってるってば千紘!おすわり!おて!ふせ!待て!」

ぶんぶん尻尾を振りながら絡みつく千紘を邪険にあしらいつつ、理央はその手の小ささに似合わないミトンを着けると、オーブンから天板を取り出す。千紘の尻尾はもう、諦めた。どうせ室内だし、ポケモンばっかりだし。それよりも、今は天板の上にあるもののほうに夢中だった。もちろん彼方たちも、それに釘付けになって瞳を輝かせていた。

「理央、これって…!」

「そ。シンオウの伝統のお菓子、ポフィンだよ。基本ベースはオレンのみだから、まああのミルタンクも満足するんじゃない?あっちなみに、体に優しいものばっか使ったから病人でも大丈夫」

優しいオレンジ色をした焼き菓子、ポフィンが所狭しと天板の上に並んでいる。上に乗っかっているのはオレンの種だろうか。それがアクセントとなっていて、乙女心をくすぐる可愛さだ。それに、理央のことだ。味のほうもきっとばっちりに違いない。これなら絶対、ミル江さんも喜んでくれるはず!というか、私たちも食べたいな…なんて、多分皆同じようなことを思ったらしい。私と彼方と漣と千紘、四人でじーっと理央を見つめると、何ともわざとらしい溜息をつかれた。いやしんぼう、私だけじゃなくてよかった。

「はあ…予想通りだけどほんと馬鹿…?ヒナリたちの分はちゃんと別に作ってあるから、これはあのミルタンク用。それより羽依は?どこ行ったのあいつ?」

あ、また羽依って呼び捨て…ってだから、何でもやもやしてるんだろう。トレーナーとしての独占欲、なのかな。でもそんな風に思うのってどうなのかな。あんまり良いトレーナーとは言えないような…。こういうことって、やっぱりトレーナー友達がもっといたら相談でもできたのに。つくづく自分の人見知り癖を恨みたくなる。一人悶々としていると、表情の変化からばれたらしい。いつの間にか下からじっとりと覗き込まれていて、思わず心臓が飛び上がる。いかにも訝しんでます、とでも語っているかのような表情。誤魔化して笑っておいたの、ばれてないといいけれど。

「…ヒナリ、何一人で百面相してるの」

「え、し、してないよ…!?」

「……ふうーん?まあ、それは後でね。で、羽依は?」

「羽依さんならミル江さんのところですよ、理央くん」

「じゃあ結局僕が持ってくのか…、もうしょうがないな」

よし、と声を上げてから天板からお皿にポフィンを移すと、ミル江さんの待つ小屋へ歩き出す。その後ろに行列しながら着いていく私達の姿はさぞ可笑しかったことだろう。眠るミル江さんの側に屈み込んでいた羽依ちゃんが、私達を見上げてぎょっとしている。けれど目線が理央の持つお皿に移ると、胸の前で手を合わせて一気に表情を輝かせた。

「理央くん!焼けたんですね!」

「そう。だからほら、まずあんたが毒味!」

「はい?…って、ぎゃあ!はひふんへふはひほふん!」

「ごめん、日本語喋ってくれる羽依ー?」

理央が羽依ちゃんの口に焼きたてのポフィンをねじ込むけど、その表情は何というか、サディスティックだ。慌てふためく羽依ちゃんの様子が心底可笑しいようでけらけらと笑っている。いつの間にか仲良しになってるみたいで、…もう何も考えるまい。

最初ははふはふ熱そうだった羽依ちゃんも、だんだんポフィンの熱が下がってくるにつれて、しっかりと噛み締め味わい出したらしい。もきゅもきゅとしばらく口を縦に動かし続けた後、彼女はぽつりと呟いた。

「…おい、しい!」

「当然でしょ、僕の指導の賜物なんだから」

『…んー?何や羽依、うるさい、なあ』

頬を落としてしまいそうなくらいに緩め、ポフィンを頬張る羽依ちゃんの声で目が覚めてしまったのか、ミル江さんがのそりと上体を起こす。彼女は重い瞼を擦ると、羽依ちゃんの手中にあるポフィンをまじまじと見つめた。

『…なんや、それ』

「私と理央くんと祐月さんで作ったんです、ポフィンって言うんですよ!ほら、ミル江さんのために作ったんだからミル江さんが食べないと!」

羽依ちゃんはニコニコ抑えきれない笑顔を浮かべながら、はい!とポフィンを一つ、彼女に手渡した。360°から訝しげにそれを見つめていたミル江さんだけど、やがてそれを口元に、運ぶ。…どう、だろうか。ミル江さんが咀嚼する様子をじっと見守る。

「ミル江、さん。どうですか…?」

どきどき、早まる鼓動を抑えているのが、見ている私達にも伝わるような、羽依ちゃんの言葉。

『…、うまいなあ…なんやこれ、なんや、これー!めっちゃうまいで!羽依おま、ほんまにこれ自分で作ったんか!』

…無事成功、みたいだ。ミル江さんは残りのポフィンも乗っかったお皿を奪い取って、口の中いっぱいにポフィンを詰め込む。熱い熱いと言いながらも嬉しそうなミル江さんに、羽依ちゃんだけじゃなく私達皆がふっと笑顔になった。食欲もあるし、これであとは熱が下がれば、ミル江さんの体調も何とかなりそうだ。ふと視線を羽依ちゃんに移すと、黒い瞳を柔らかくミル江さんのほうに向けていた。どことなくその様子がおとなしいのを察したのか、ミル江さんも彼女を見つめ返す。

「…ミル江さん、ほんとに、よかった」

『羽依?どうしたんやお前』

「ミル江さん、…あたしミル江さんたちに怒られてばっかで、正直逆らいたい気持ちもあったんですよ、でも今ミル江さんがこんなに幸せそうなのが、すっごく嬉しいです」

『気持ち悪いなあ、なんや急に』

「なんか…やっと努力が報われたなって…!ううう、羽依は嬉しいんです…!」

喋り方にだんだんと高ぶった感情が滲んできて、そのうち手で顔を覆うと、うえーんと声を上げて泣き出す羽依ちゃんに、なんとなく微笑ましい気持ちになる。羽依ちゃん、ミルタンクさんたちに不満ばっかで、ビジネスライクな付き合いを求めてるのかと思ったら、そんなこともないらしい。ちゃんとミルタンクさんたちが大好きじゃないか。あれだけ慌てながらも一番ミル江さんのために奔走して、暇さえあればミル江さんのそばにずっといて、だいじょうぶだと声を掛け続けていて。それは単なる仕事だからとできることの範疇を超えている。そこには想いがある。そう、思うのだ。

そんな羽依ちゃんを、ミル江さんはぽかんと見つめていたけれど、やがて馬鹿にしたように笑う。

『はあ?何言っとんのや羽依、お前が頑張っとんのはよお知っとんで?何を今更』

「…はい?」

今度は羽依ちゃんがぽかんとする番だった。そして、私たちも。ミル江さんはそんな私たちを見て声を上げてより一層笑う。

『揃いも揃って変顔すんなや、アンタ若いしいじり甲斐あるでなあ、つい。まあ口うるさいしめんどいのは確かやけどな!』

にししと笑うミル江さんは、ポフィンを頬張りながらもばしばしと羽依ちゃんの腕を叩く。そのうちポフィンの匂いを嗅ぎつけたのだろうか、他のミルタンクさんたちがぞろぞろと小屋の中に入ってきた。不思議な空気に、なんやなんやと騒いでいた彼女たちだけど、そんな中ミル江さんが一言発する。

『なあ、ミル野さんミル田さんミル沢さん、羽依のことどう思っとる?』

『阿呆』

『ドジ』

『間抜け』

『やんなー』

「…ううー、分かってるけどツライです」

『でも毎日毎日よくやっとるとは思うで』

『まあな。重労働やでな、牧場の仕事って』

『羽依が来る前よか、随分うちらの環境がようなったのは確かやね』

まあでもやっぱりドジやけどな!なんて言って、がははと笑うミル江さんたちに、反応のない羽依ちゃん。表情を覗き込めば、やっぱり呆然としたままだ。声を掛けても何も反応がないから、大丈夫かなあなんて思った時だった。不意に、羽依ちゃんの身体が前につんのめる。…理央が、見事なひざかっくんを決めたのだ。

「ひえーっ!り、理央くん!危ないじゃないですか!」

「ぼーっとしてる羽依が悪いの!ほら、ああ言ってくれてるんだから、何か言うことあるんじゃないの?ね、そう思うでしょ?」

理央がにやりと私たちに問いかけるから、そうだね、とばかりに微笑み返す。なんだ、ちゃんと両想いじゃないか。それなら普段の気持ちを教えてくれたミルタンクさん達に、言うことはただ一つ。

「…っ、ありがとう、ございます…!羽依は、これからも精進します…!」

またぽろぽろと大粒の涙を流す羽依ちゃんに、なんや泣くなや鬱陶しいでー!なんて言いながら爆笑するミルタンクさん達を見たあと、顔を見合わせた私たちは、こっそりと小屋を後にした。もう、私達はあの場に必要ない。仲直り、なんて言葉は似合わないな。仲は最初からこじれていなかったんだから。一件落着、って感じだ。喧嘩しながらでもいいから、彼女達がこれから上手くやっていけますように。

***

エンジュシティまではあと少し、牧場を出て東に真っ直ぐ進めばすぐらしい。羽依ちゃんだけじゃなくて、ミルタンクさんたちーーもう全部覚えた。ミル江さんにミル野さん、ミル田さんにミル沢さん!勢揃いの盛大なお見送りだ。眩しい夕焼けをバックに、彼女たちの姿が遠くなっていく。なんだかんだミルタンクさん達と仲良くなったらしい彼方たちが手を振っている間、不意にねえ、と腕に絡み付いて私を見上げたのは理央だった。

「わっ…!理央、」

「しーっ!もうちょっと声小さく」

口元に人差し指を当ててそう言う理央につられて私もひそひそ声で話すけど、どうしたっていうんだろう。彼方達はまだ後ろを向いたままだ。頭上にハテナマークを浮かべていると、にんまりと理央は口端を緩ませる。

「ねえヒナリ、羽依にヤキモチ妬いてたでしょ。僕が羽依のこと呼び捨てにするから」

「え、…え?」

なんでバレてるの…?というか、別にヤキモチとかじゃない、トレーナーとしてちょっと複雑だなあというか、違和感を覚えただけで…。あれ、これがヤキモチって言うのかな。ぐるぐる戸惑う私をよそに、理央は続ける。

「僕ちゃーんと見てたんだから、僕が羽依って言うとヒナリがいっつも変な顔するとこ。正直に話したら?」

「ええっ…別に、そういうのじゃ、」

「ばーか、僕に嘘つけると思ってるの?」

だんだん恥ずかしくなってきて、顔を逸らす。それでも理央はにやけた声で私をいじめ続けて、私の頬が赤くなっていくのを楽しんでるみたいだ。…この、悪ガキめ!細められた水色の瞳がすごく憎たらしい。可愛いけど!黙ってしまった私に、理央がとうとう溜息をつく。諦めてくれたのかな、とほっとした瞬間、理央は私の首に手を回すと、ぐいっと背伸びして、顔を近付ける。

「り、理央?」

「だーいじょうぶヒナリ、僕はヒナリ以外の女の子に興味ないもん」

「……、理央?」

「ヒナリ以外、これからも絶対好きになったりしない。だからヒナリ、僕が大きくなったとき、ちゃーんとこの僕に見合う女の子になって。いい?」

にこっと笑って、頬にキス。思わず目を瞑る…って、え?気がついた時には事はもう済んでいて、ぽかんとした顔の私を見て理央はにししと笑っている。ちょ、ちょっと待って、今、理央は何を?

「というか、ヒナリが僕に見合う女の子になれるように、僕が何でもしてあげるから!覚悟しててねヒナリ」

「え、ちょっと、理央…!」

「ああ、それ誓いのキス。唇がよかった?」

「よくない!よくないってば!」

「どうかしましたかヒナリさん、ミルタンクさん達のお見送り…って、理央くん!ヒナリさんに何してるんですか!」

声のボリュームがいつの間にか上がっていたらしい。祐月の驚く声に、漣や千紘、祐月も振り返る。真っ先に動いたのは彼方と漣で、彼方が理央を引き剥がして、漣が私を後ろから抱き寄せる。た、助かった…のかな?けど、これはこれで恥ずかしい。

「ヒナリちゃん!大丈夫?あのクソガキに何かされてない?」

「誰がクソガキだばーか撫で肩!」

「わあっ、ちょっと暴れないで理央!てか何してたのほんと!ヒナリに何かしてないよね!」

「うっさいヘタレ野郎!」

「へ、へたれ…」

「理央がいいなら、俺も…」

「ち、千紘くん真似しちゃ駄目です…!」

…てんやわんや。眩しい夕陽に照らされて、六つの影がばたばたと動き回っていた。人はきっとこれを、しあわせなひとときと呼ぶのだろう。
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