泡沫の見た薄明

「ヒナリさん」

そういう風に私を呼ぶ人はあまり多くない、仲間のうちでは祐月だけ。でも、これは祐月の声じゃない。祐月の声みたいに優しくて穏やかな、私を慰め安心させる声じゃない。その逆だ。エンジュへ繋がるゲートを越えたその瞬間、耳に入ってきた不気味な声。ぞわりと身の毛がよだつような、低く、暗い声。

目の前に待ち受けていたのは、大きな箱を背負い、虚ろな眼を持つ青年だった。出来ることならもう会わずにいたかった。キリノさん。そして、たくさんの、たくさんの瞳。私がゲートを跨いだ瞬間、ギョロリ、一気にその瞳孔が私に向けられる。

怖い。そう思ったのは突発的で、即座に頭も心もその感情で埋め尽くされる。怖い、怖い怖い!身体ががたがたと震え、額に嫌な汗が浮かぶ。外気に触れる全ての神経がぞっと冷え、内側からは生温くぬるりとした何かが這い上がってくる。怖い、怖い、怒られる、怒鳴られる…!

「…ヒナリに、何か用?」

彼らは互いにそっと目配せをすると、彼方がキリノさんの前に立ち塞がり、そう言い放った。前髪の隙間から睨みつける赤が周囲を一歩遠ざけるが、それでも彼らを率いるキリノさんは動じない。

一歩、二歩。力の入らなくなった足は無意識に怖いものから遠ざかろうとしていた。そのままぺたんと座り込もうとしかけたところを、後ろから誰かに抱きすくめられる。けれどその声ですぐに分かった。漣だ。大丈夫、ヒナリちゃんは守るから。俺達に任せて。その囁きに、気配に、つい縋ってしまう。痛いんじゃないかってくらい強く、漣にしがみ付いて、その胸に顔を押し付けた。何も見たくない、何も聞きたくない、何も感じたくない。けれど、例え視線が塞がれたとしても、人々のざわめきは止まないし、身体の震えも止まない。

千紘が、そっと私の鞄から何かを抜き取ったようだった。恐らく、あれからずっと私が預かっている短刀だろう。シュルリという独特の金属音が鳴ったかと思うと、それは途中で遮られる。その後祐月が小さく、「止めてください」と言ったから、多分そのせいだ。理央は、どこにいるか分からない。声も聞こえなければ、動作をする音も聞こえなかった。そっと顔を離して辺りを見回すと、腕を組んだまま動いていないようだ。

「用…。じゃあまず、これを受け取ってくれないか」

アタッシュケースだった。キリノさんは前に出た彼方を無視し、つかつかと私に歩み寄ると、それを差し出す。そして、その中身を見せつけてきた。

「何、…!」

「ファイトマネー。俺の、今までの努力の成果だ。これを君に受け取ってほしい、ヒナリさん」

札束――それも、尋常じゃない量の。ドラマなんかでよく見るような、ぎっしりと詰まった大量のお札に、私達はただ驚くことしか出来なかった。いきなり、何なの。それを見ていた街の人が、おおっと素直な歓声を上げ、それからどよめきに変わった。あの子なんでしょ?例の…って。あの人、どれだけ戦ってあんな大金を…。ちらりと聞こえる観衆の言葉の片鱗に、悪寒が走る。

「ねえ!…だからどういうつもり、僕らに何の用なの?こんなお金見せられたって、何にも分かんないよ」

「俺の、…ポケモンの言っていることを、教えてほしい」

「……!」

「皆さん!聞いて欲しい!」

キリノさんは振り返ると、そう叫んだ。通る声で、今までになく感情を込めた話し方で。視線の的になったとしても動じることなく、ただ高らかに宣言してみせた。

「この少女は!ポケモンの言葉が聞こえる!」

……音が、消える。沈黙の中、唖然とする理央や彼方、傍観者たち。

秘密が、秘密でなくなった瞬間だった。

「そして俺はこの少女の力を使って叶えなければいけないことがある…、どうしても、俺はいなくなった相棒の声を聞かなければならない!どうしても、どうしても、相棒と…彼女と話して、彼女に許してもらわなければいけない…!」

「もし…そうだとしても、そんなの…っ!ヒナリに何の関係もない!」

「関係あるさ。彼女はそういう運命に生まれたんだ。独り占めにしておくのにはあまりにも大きすぎる力だと思ったことはないのか?ポケモンとの意思疎通は、人間が太古の昔から望んできたことだ。それをこの少女は、いとも簡単にやってのけ、その力を持て余している。…宝は、独占されるべきではない。独占は文明文化の発展を妨げる」

宝、なんて。宝なんてものじゃない、先に気持ち悪いと排除したのはそっちじゃないか。私を要らないと言って追い出したのはそっちじゃないか!そんな反抗心は、初めてこんな私を認められた戸惑いも含んでいた。…そうだ。私には似合わないほどの力だ。彼の言うことは、間違いではないんじゃないか。

間違っているのは誰?正しいのは誰?…でもひとつだけ確かに正しいと言えるのは、私の身体はこれだけの人の視線に拒絶反応を起こしているということ、それだけだった。

「だから、ヒナリさん」

かつかつと私の前に歩み寄り、彼は深々と頭を下げた。

「どうか、お願いだ…!金でも何でも出す。俺の為に、一度だけ、一度だけ…!その力を使って、教えてくれ!」

彼は顔を上げなかった。微動だにしないその姿に、またざわざわと、辺りが高低様々、しかしどれも奇異の色を含んだ声に塗れていく。

あの子、ポケモンの声が聞こえるんですって。
まあ!なら私のポケモンの気持ちも教えてくれないかしら。
いや、無理だよ。あの子、あれだけの大金を積まないと教えてくれないんだろ?
そんな力があるからって、きっと得意になってるのよ。嫌な子ね。
そもそも、本当にポケモンの声が聞こえるの?あの男の人、騙されてるんじゃない?
ああそれ、あり得る。
可哀想、あの男の人。
あの子、あんなに怖がってるけど、きっと本当は嘘なのにこんな大声で叫ばれて、どうやって切り抜けようとか思ってるのよ。
周りにいるのも男ばっかじゃん。誑かして遊んでんだよ。
あんなわざとらしく抱きついて、ああ気持ち悪い。
あんな小さな男の子から二十歳過ぎの男の人まで、節操ないわね。

ざわざわ、ざわざわ。…もう、どうしたらいいのかな。誰が正義で、誰が悪?何が真実で、何が嘘?何もわからないよ。無限に聞こえてくる言葉が全て、私の心臓を突き刺していく。何も考えていなかったとしても、確実に、ぶすり、ぶすりと。突き刺さったままだから、血は流れない。でも、重なるうちにどんどん抉られて、傷口が広がってきた。やがて血も流れて、それが目元にやってきたらしい。どういうわけかその血液は、だらだらと目から透明になって溢れ出した。

「…ヒナリ、ちゃん」

「、ごめんなさい…」

「ヒナリ、ちゃん?」

「やだ…っ、おこらないで、……おかあさん、」

意識しないまま口にしていた。まるで子供みたいな、あの頃のような喋り方。グレンに住む前…各地を転々としながら、奇異の視線を向けられる度に母に怒られ、怒鳴られ、泣きじゃくったあの頃。唯一その小さな囁きが聞こえたのであろう、漣は驚愕していた。それでも私はその記憶から抜け出せなくて、小さな、聞こえるか聞こえないかの声を呟き続ける。止まれ、止まれと祈っても、心じゃない、身体がそういう風に口を動かせ、喉を震わせるように、覚えてしまっていた。刻み込まれてしまっていた。

「ヒナリ、ちゃん」

「ごめん、なさい……っ、おかあさ、」

「……、ヒナリちゃんが、どうしてこんな思いを、なんでヒナリちゃんが、」

その声で意識が目覚めて、ふと漣の顔を見上げると、今度は私が驚いた。漣は怒っている。その瞳に映るのはキリノさんと大勢の街の人、…ううん、きっと人間全てだ。人間という生き物に絶望し、怒りに震えているのだ。ぎり、と歯を食いしばる音がした。

「れん、」

「…理央。まだ動かないのか」

「まだ、時期尚早。今派手に動いたところで逆効果、」

「……。ああそうかよ、お前はヒナリちゃんが今目の前でこんなに苦しんでるのに、それでもいいって言うんだな!?」

「そうじゃない漣!今動くのは、」

「おい彼方、ヒナリちゃんは任せた」

温もりがなくなったかと思えば、今度は彼方に抱き留められる。彼方も戸惑っているようだった。…相手と対峙して守るのは彼方で、私を抱き締めて守るのが漣という構図が多かったから。漣は私の視界を塞ぐように立った。そして、俯いていた顔を大勢へと向ける。ぎらりと憎しみに溢れた蒼の瞳で、大勢を睨んだ。その不気味なほど静かな表情に、彼らは何か異形のものを感じたらしい。表情が震えた。

その先頭で眼光を一直線に受けているのにも関わらず、キリノさんは微動だにしない。寧ろ、その冷たさ、金属のような無機質な風格がより一層極まっただけだった。それが余計漣の怒りを買ったのか、漣は表情を無くす。そして勢いよく歩み寄ると、…その胸倉を掴みあげ、拳を振り上げた。きゃあと、観衆の悲鳴が上がった。

「馬鹿、漣!!」

理央の叫び声のおかげか、それとも最初からそうする気だったのか。漣はキリノさんの頬まであと数センチの寸前で、その拳をぴたりと止めた。それでもやはり動じない、冷徹なままのキリノさんに、漣はあくまでも自身の感情を抑えつけながら、静かな口調で語り出した。

「ヒナリちゃんが、ヒナリちゃんが何したって言うんだよ…。なんでこんなに綺麗な、…俺とか普通の奴が容易に触ることなんか許されないくらい、綺麗なこの子に、なんでそんな不気味そうな目を向けるんだよ…、消えろよ」

もういいの。それ以上言ったら、きっとあなたも私も、抑えきれなくなる。そんな心の声は聞こえるはずもなくて、漣は堪えていたはずの怒りを徐々に洩れ出させて、ギリギリと胸倉を強く握りあげていた。

「なあ言え。お前らが言った言葉のソースはどこだよ。誰が、誰がこの子が節操なしだって…?全部お前ら人間の妄想じゃねえかよ!そうだ、ずっと前からそうだったんだ、お前らは俺の一番大切なものを奪う!俺の、こんなに綺麗な、神様みたいな子に何すんだ!」

「ああ確かにヒナリちゃんは宝物だ、何より愛すべき、俺の大切な子だ…!惹きつけられる気持ちもよく分かるよ。でも、お前らが思ってるような意味じゃない、彼女の力がどーのこーのって意味じゃない!この子の無垢な魂が何よりも美しいから、俺はこの子に惚れたんだ、惹かれたんだ!お前らみたいな安い感情がこの子に向けられてたまるか!」

もう、いいんだよ。漣。もういいの。

「気持ち悪がるなら俺でいい、俺はいくらでも、何されたっていい!ヒナリちゃんの為ならどうなろうと構わない!」

「…れん」

「だからこの子にだけは干渉するな!美しい彼女を穢すな!」

「れん、もういいよ」

「なあ!!それで何の問題があんだよ!!」

「漣!!」

はっと、振り向いた時の漣の表情は、ひどく怯えているようだった。絞り出した声が思ったより大きくて、再び私に視線が集中する。誰もかものざわめきが止まった。時の全ての権利を私が持っていた。

「漣、もういいんだよ…ありがとう」

「ヒナリちゃん、」

「もういいの、だから、だからもう、これ以上やめて……!」

ぼろぼろ、ぼろぼろ。たくさんの粒が私の頬を伝った。これ以上、人の視線を浴びるなんてこと、私は耐えられない。弱い。でももう、弱くたっていいような気さえしていた。だってこんなの、怖くて、怖くて。

ふ、と明かりが消えたような気がした。力が一気に抜けて、彼方達の声が遠くに聞こえた。そしてとうとう、ぷつん、……。私に纏わる全ての感覚が、消えた。
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