泡沫の見た薄明

「ヒナリ!」

最初に叫んだのは彼方だった。彼方の腕の中でヒナリちゃんは意識を失ってしまったらしい。地に倒れ込み、真っ白に血の抜けた顔は、いつだか、ちょうどエンジュに向かっている時…、その時のことを思い出させた。そうだ、あのときも確かヒナリちゃんは、コンテストのことを話し出した途端に一気に体調が悪化していた。きっとコンテストという言葉から人前に出るということを連想してしまったからだろう。そして今、ヒナリちゃんが再びこんな状態になっているのは、紛れもない俺のせい。俺がつい頭に血が昇って、暴力に走りそうになって、気持ち悪いだけの言葉を重ねてしまって、結果彼女の最も恐れる人の目というものを、余計に浴びるようなことをしてしまったから。

座り込んでヒナリちゃんの名前を呼び続ける彼方と祐月の姿を、俺は呆然と見つめていた。俺のせいで、俺が一番守りたい子を、こんな状態にしてしまった。俺が彼女を傷つけた。その事実だけが、頭の中に反芻する。

「ヒナリ、ちゃん」

ぽつりと、無意識のままに口にしていた。なぜ彼女の名前を呼んだのかも分からないが、そのせいで彼方がばっと俺を見上げ、…そして俺は、びくりとこの身を震わせることになった。

ぎらりと、彼方は俺を睨んだのだ。鮮血のように澄み渡った真っ赤な瞳。混じり気の何もないその瞳は、確かに普段俺に笑いかけてくるときのもの。そのはず、なのに。今同じ瞳が、同じ赤が、紛れもない俺への敵意を乗せている。漣のせいだ。漣のせいで、ヒナリが。言葉がなくとも、そんな台詞が伝わってくる。いつもなら、目線だけでちょっとした頼み事なら通じてしまう俺達の間柄が、皮肉にも今活きてしまっていた。嗚呼、俺はそれだけの、罪を犯してしまったのだ。俺が、無駄な口を聞いて、彼女の恐怖を煽ってしまったという、大罪を。

それに、もし彼方と俺が出会ったばかりだとしても、俺はこの赤に慄いていただろう。それくらい、本能的に恐怖を感じさせる目をしていた。考えてみればそうだ。大事な大事な、唯一無二の存在を傷つけられたんだから。その証拠に、この血みたいな目を見ていた人間は皆俺と似たり寄ったりな顔をしていた。

「漣」

振り返ると、俯いたままの理央がいた。表情が読めない。震えた心臓のまま、俺は理央の言葉を聞いてしまった。冷たく、色のない声。

「漣。下がって」

「は…、何、言ってんだよ」

「今のあんたは、良く、ない」

「…理央」

「あんたのやり方は今この状況に、適してない。…だから、下がって」

…はは。迷惑だってさ。ずっとずっと、俺が生きる意味だとさえ思っている彼女を守るという行為が、迷惑だってさ。分かっている。俺が勝手に激昂しただけだ。こんなの、守るのでもなんでもない。

俯いて、片手で目元を隠した。泣いてるわけじゃない。ただ、誰にもこの顔を見られたくなかった。

呆然と笑う俺の代わりに、前に出たのは理央と千紘だった。理央はキリノの目の前に立つと、「いらない」と一言だけ言い放つ。そして千紘が、アタッシュケースを蹴り飛ばした。顔を上げたキリノは無表情、さっきの大演説の時の見事な表情の変化はどこへやら。

「…早く、どこかへ行って。僕達の前に現れないで。今度またこんなことしたら、僕たちはもう容赦しない」

「俺は、相棒の――彼女のためなら手段を選ばない。大義名分を掲げても、群衆を利用しても、あの少女の心の傷を抉っても、だ。だから、」

「消えて?…早く、消えて?」

千紘が軽く胸倉を掴んで突き飛ばしただけで、キリノは予想以上に遠くの人混みまで吹っ飛んでいった。所詮は人間。きゃあ、なんて不愉快で気味の悪い悲鳴を上げて人々はキリノを避けた。大丈夫かと介抱する者もいたが、そいつもそいつで気持ち悪い。何であんなやつを助けるんだ。何で同じ人間なのに、ヒナリちゃんは気味悪くてそいつが正義のヒーローみたいになってるんだよ。…いや、同じ人間じゃなかった。彼女のほうがずっと美しくて穢れない。あんな奴らと比べることすら罪なほど。

「…交渉は決裂、か。それでも俺は諦めないよ。あの少女の力は、今よりもっと有効的な使い道があるはずだ」

キリノはのそりと起き上がると、いかにも被害者、正義という口調でそう言った。同情するような溜息が辺りを包む。…やっぱり、到底許せるわけがない。人混みの中に紛れて消えるあいつの背中を追おうと一歩踏み出す。しかし、その俺を小さな、でも大きな抑止力を持つ手が止めた。

「…離せよ、理央」

「馬鹿。状況をよく見なよ。…どう見たって、僕達が悪者だ」

四面楚歌。四方八方からの視線。あの子が恐れて止まないもの。俺達を取り囲むかのように、人々は存在していた。揃いも揃って不気味なものや奇怪なものを見るような目をした人々がそこにいる。はっ、とした。そして、俯いた。ヒナリちゃんは、これをあんなにも小さな身体ひとつで受け止めていたのか。身動きひとつ取ったものなら――例えば今俺が衝動に従い、キリノを追いかけて殴ろうともしたなら、余計にこの視線は激しく色を変えてしまう。そうすれば、ヒナリちゃんは悲しむ。俺はまた彼女を傷付けてしまう。

一歩下がって佇むと、からからと笑いが喉を通って音となった。その意味は絶望だ。あーあ、どうすんだよ。ヒナリちゃんを傷つけてしまって、こいつらにも嫌われて、これから俺、どうすりゃいいんだよ。

「…理央くん、教えてください。貴方の思う、正しい判断を」

状況をいち早く把握し、それに適した最善の、正しい判断を導き出す。理央のそういう気質は、幾度となく俺達を支え、救ってきた。今もそう。祐月が小さく呟く。いつになく、低く冷静な声だ。理央は分かってるというようにこくりと頷くと、辺りを見回した。

「救いは、ここがエンジュシティということ。それから、彼方の交友関係。策はあるかもしれない。…千紘」

「……ん」

「この人混みの中に、普通じゃない、おかしい匂いを探して」

「おかしい、匂い……?」

「そう。明らかに異様な匂いを。普通の人間やポケモンには分からなくても、千紘ならきっと分かる」

何を言っているんだと思った。おかしい匂いって、何だよ。だけど千紘は理央の言葉に素直に頷いて、辺りを見回しながらくんくんと鼻を働かせている。つられて俺もぐるりと視界に目を通す。…その時、だ。あった。千紘だけじゃなく、俺でも分かる。明らかに異様なもの。赤銅色の長髪なんていう、滅多に普通の人間がしなさそうな髪の色だ。それだけじゃない。空気が明確に違う。一般人を装っているが、その厳かさが隠し切れていない。あれは、きっと、……。

千紘も同じ人物に気がついたらしい。ついて来い、とでも言うように北のゲートの方へと歩いていくその男を見据え、千紘は理央に目線で合図を送った。

「…分かった、行こう」

「理央くん、でもこの人混みの中をどうやって」

「今から何も考えないで。ただ足を進めるだけでいいから。そうしたら、自然とこんな人混みなんか退いてくれる。所詮は、意思の薄い群れだから。…彼方、」

「うん、分かってる」

愛おしそうな手つきでそっと、彼方はヒナリちゃんの背中と足に腕を通し、抱き上げた。そして立ち上がり、目線を上げる。ああ、あの赤だ。敵意に満ちた、静かな激情の赤。誰よりも愛するヒナリちゃんを傷付けた全てのものを憎んでいる。ヒナリちゃんを見つめているときの瞳の色からは全く想像できないような、生々しい、グロテスクな鮮血の色。人々が皆、それを見てびくりと肩を跳ね上がらせた。…俺も、その中の一人。

ヒナリちゃんを抱き上げた彼方が、ゆっくり、ゆっくりと歩み出す。それに続くように理央と千紘、それから祐月と俺。会話など、あるはずがない。ただそれぞれの思いを歩みに乗せ、重い一歩を踏みしめる。その光景の異様さ、不気味さに慄いて、人混みは俺達を避け、割れていく。再び始まったざわめき、それから彼女が何よりも恐れた奇異の視線を浴びながら、俺達は足を進めた。しかし、頭を過るはヒナリちゃんの懇願する姿。…ほんと俺、最悪だ。他の四人が怒りに震える中、俺は一人笑っていた。笑うしか、なかった。

やがてエンジュシティ北側のゲートに辿り着くと、先陣を切っていた彼方が一人の男を睨み付けた。…あの、異様な男だ。切れ長の紅い瞳は俺達を一瞥すると、ふんと言い払う。

「…貴様か、彼方」

「悠焔、さま」

男の名は悠焔と言うらしい。彼方の口からいつだか聞いたような気もする。確か、俺が仲間になる前に出会ったとかいう。…こいつか。以前出会った煌輝といい瑞芭という女といい、何でそんな奴らがヒナリちゃんに関わるんだ。

「千紘、当たり。ありがと」

「…ん。それより、彼方」

理央がふ、と微笑みを漏らした。しかしそれは安心から来るものではなく、嘲笑に近いものだったが。

「悠焔さま、」

「何だ。さっさと言え」

「悠焔さま、力を貸して…、ヒナリを、助けて。ヒナリが逃げられる場所を、教えて」

悠焔サマは、しばらく答えなかった。ただひたすら、彼方の赤と視線を戦わせるのみ。その思いの誠実さを確かめるかのように。それは本来の時間の流れよりも遅く感じるほどであった。やがて、悠焔サマはその重い口を開く。

「…貴様の炎を見てやるのは、随分後になりそうだな」

ついて来い。ジャージの裾を翻し、悠焔サマは言った。威厳に満ちたその歩み、ついさっき以上に人々は俺達の姿を恐れているようだ。それはつまり、さっき以上に奇異の視線を向けられるということ。彼女が意識を失っていることを、今だけは幸運だと思った。やはり、全部俺が背負えたらいいのに。俺が彼女の痛み全て、身代わりになれたら、そうしたら俺はどれだけ死にそうになったって、いや、極論死んだって構わない。それは悔しいけど叶えられないそうにないから、今は目を逸らしていて、ヒナリちゃん。その間に、俺が全部、全部…、

漣、もういいんだよ…ありがとう

もういいの、だから、だからもう、これ以上やめて……!

…ごめん、ごめんねヒナリちゃん、本当に、ごめん。ヒナリちゃんにそんな顔をさせたのは紛れもなく俺だ。俺はヒナリちゃんの為にと思ってしたことが、ヒナリちゃんを傷つけることになってしまったんだ。守るとか、身代わりになろうとか、散々考えてきたくせに、いざとなったらこれかよ。こんな、何の役にも立たない、むしろ傷つけるような真似をする俺が、ヒナリちゃんの側にいる資格なんて、ない。
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