泡沫の見た薄明
悠焔サマに案内された部屋は予想以上に広かった。六人どころか、十人で泊まっても余裕がありそうだ。だけど俺は無理を承知で、彼方たちとは別の部屋を借りた。簡素なベッドくらいしか物がないような、まさに小部屋。普段は使われていない空き部屋らしく、埃っぽいから止めたほうがいいと言われたが、俺はしつこく頼みこんだ。しばらくすれば、掃除が終わったと言って悠焔サマはそこへ通してくれたが、…埃っぽいなんて嘘だろ。野生育ちとしては清潔すぎて気持ち悪いくらい、浄化された部屋だ。
それから何時間か、俺はベッドに身体を沈めたまま。ポケセンくらいにしか泊まったことがないから、こんな梁を眺めるというのは初めてだ。やはり、異常なほど美しすぎる。磨きたてのような艶といい、鮮やかな木目といい。
だがそんなのに見とれたのは最初だけで、それからは混沌の海の中。もがこうにも、もがく資格すら失われているのだ。
迷惑、なんだもんな。ヒナリちゃんを誰よりも守りたいと思っているはずだった。だからこそ許せなかった。あんな風に、嘘つきだとか節操なしだとか、適当なことを言う奴らが。ヒナリちゃんがそんな子なはずがない。彼女の何を知ってあんなことを言うんだろう。つくづく人間には驚かされてばかりだ。彼女の仕草や声や、選ぶ言葉もその根底にある心も、何もかもが無垢で美しい。穢しなどしたらそれは罪に値する。そのくらい彼女は綺麗で、綺麗で。なのに、あんな言葉を掛ける人間が信じられない。
そこまで考えて、はあ、と溜息をついた。ちょっと熱くなりすぎて冷静な思考が出来なさそうだ。まあでも、さっきまで考えてたことは常々思ってることでもあるんだけども。
自分の異常さについては、薄々気がついていた。他の仲間達が気付いているのかどうかは知らないけど。俺はかなり、ヒナリちゃんに固執している。依存とか信仰に近いような感情を、俺は彼女に抱いている。
初めて彼女をこの目に入れた瞬間からそうだ。神様みたい、と思った。あんなか弱い人間の女の子なんて見るのは初めてだったということもあるけど、それにしたって彼女は綺麗だ、姿も心も。それにどんどん惹かれていった俺は、俺自身を全て彼女のためのものに変えていった。この世で何が一番大切って言われたら、迷いなく彼女の名前を挙げよう。俺の感情とか命とかどうでもいい。ただ彼女に捧げるためだけの、この身体だ。
そう思い出したころから、ああ俺はちょっとおかしいのかって気付いていた。けどむしろ、それは満足なことだった。おかしいって、言い換えれば彼女への思いは生半可なものではない、本物だということの証明になるのだから。
だけど、そのせいで俺はヒナリちゃんを泣かせた。傷付けた。この俺の、この腕がふるおうとした力が、この口が発した言葉が、彼女を傷付ける原因となった。彼女に怯えた顔をさせて、涙を流させて、震えた声を絞り出させたのは、紛れもないこの俺の仕業。なんてことを、してしまったんだろう。愛して止まないから、その愛故に、なんて言ったら言葉は良いが、要するにただ俺は自分の感情を暴走させただけだ。気味が悪いとも形容できる彼女へのこの気持ち、もう、どうすんだよ。
ふと、頬に生暖かい液体が伝った。その正体は言わずもがな。まじかよ、俺まだ泣けるのか。変な笑いが浮かんでくる。気付いてしまったが最後、余計に湧いては伝い、湧いては伝い。これが、ヒナリちゃんの分の涙だったらいいのに。俺が泣く分、ヒナリちゃんが笑えるなら、俺は喜んでその役を買って出る。それが、こんな重い罪を犯した俺に対する当然の報いだ。俺はもっとずたずたに、ぼろぼろにならなきゃいけない。
ほんと、どうだっていいんだよ、俺は。ヒナリちゃんが幸せそうなら。その周りに彼方や理央や、千紘も祐月もいて、あいつらがみーんな笑顔だったら、その分俺がどんだけ泣き叫んだって。そこに俺の居場所がなくたって、ヒナリちゃんとあいつらの為ならさあ…。
こんこん、と扉を叩く音で心臓が飛び跳ねた。誰だ。急いで涙を引っ込めて、シーツで乱暴に拭った頃、僕です、と扉越しの声。声と口調から、どうぞ、上体を起こしてそう言うと、遠慮がちに扉が開く。
「…随分凹んでるようですね、漣さん」
口調には似合わず、祐月はふわりと暖かく笑う。それに合わせようと、俺も表情筋を働かせ、ゆるりと口元に弧を描いた。
「そりゃあ、…な。どうした?」
「いえ。ただ、大丈夫かなと」
「大丈夫だよ。さすがにしばらく落ち込んでたけど、今はヒナリちゃんのほうが心配。…ヒナリちゃんの様子は?」
祐月は手近にあった椅子に腰掛けると、すらりと足組みをした。足組みみたいなちょっと品の悪いこと、彼方たちの前では滅多にしないのにな。
「まだ目が覚めないみたいで、ずっと彼方くんたちが付いてます。恐らくですが、体に染みついた拒絶反応みたいなものだと思うので、からだの病気とかではないかと」
「からだじゃないなら、こころの問題か」
「それは貴方もでしょう?」
「何、心配してくれてんの?」
「違いますよ。貴方の弱みを握れて楽しいだけです」
「…とことん俺には性格悪いよなあ、お前さあ」
ああ俺、ちゃんといつも通りに喋れてる。冗談めかした口調の俺に、祐月はくすりと笑った。それからその赤い瞳を俺に差し向ける。それに込められたのが敵意ではないことに、俺は内心ほっと溜息をついた。赤に対して、過剰に臆病になっているらしい。
「そうですよ、なかなかこれという弱みを漣さんは見せてくれないじゃないですか。貴方が心配したり面倒見るばかりで、僕たちには貴方のことを心配させてくれない」
「そりゃあまあ、当たり前だろ。俺これでも最年長だし」
「歳を取ったからもう悩まなくていいなんて、そんなことあり得ません」
「…祐月は優しいなあ」
拗ねたみたいに話す祐月に、ああ、こいついい奴だ。そう素直に思った。こいつの過去のことで最初に怒鳴ってしまったからこそ、どうも一歩開けているような感覚がする。彼方やヒナリちゃんたちとはまた違う居心地の良さ、というか。知り合ってからの時間は一番短いけど、それを忘れそうになるくらいだ。ふっと俺が笑うと、満更でもなさそうにあいつも笑った。でもその後はいつになく真剣な表情で、祐月は俺に語りかけた。
「ヒナリさんのところに、行かないんですか」
…答えられなかった。最早、俺は彼女の傍にいる資格すら無い。そう、俺が決めた。黙ったまま、眉を下げて笑っていると、祐月は溜息をついて言葉を続けた。
「普段の漣さんなら、絶対にヒナリさんの側を離れなかったはずです。理央くんに止められようとしても逆らって、傍にいようとして、見守ろうとしていたはずです」
「……」
「…出来なくなったんです、よね、きっと」
こち、こち、こち……時計の針が煩わしい。喉元で止まった空気の塊を、笑いながら吐き出した。そうだよ、その通り。ほんとそういうところ祐月は聡いから嫌だ。あーあ、カッコ悪いな、俺。
「それは今まで、俺がヒナリちゃんとあいつらの傍にいることで、あの子たちを守れると思ってたから。でももうそうじゃない。俺が傍にいたら勝手に爆発して傷つけちゃう可能性があるんだから、いれる訳ないだろ?随分と嫌われたっぽいしなあ、あいつらにも」
思いのままを吐き捨てると、改めて自分の状況の惨めさをまじまじと見せつけられて、気が重い。重みに耐えきれなくて沈めば、深くなる。深くなればなるほど水圧が掛かる。苦しい。苦しい。でも仕方ない。自然の摂理だ。
なのに、その摂理すら無視して、祐月は語る。
「…漣さん、僕に言ったこと忘れたんですか?まだ出会ったばかりの頃、お前だけの気持ちじゃなくて、お前を思ってくれたひとの気持ちにもなってみろ…って。それを忘れたとは言わせませんよ」
「は…?」
「僕たちの気持ちを考えたことがありますか?」
ぽかんとした表情の俺を見て祐月は少し微笑むと、仕方ないひとだと突き放すように俺に問いかけた。祐月たちの、気持ちか。馬鹿、そんなの考えなくたって分かる。ヒナリちゃんを傷つけた俺を許すはずがない。ヒナリちゃんが特別なのは、俺だけじゃない。彼方だって、理央だって、千紘だって祐月だって、俺たちは皆彼女に思いを馳せ、自由を受け取り、惹かれ、愛してきたことは、俺だってよく知っている。祐月はなんだかんだ優しいから、今こそこうして普通に接しているが、あの時はきっと怒りに燃えていただろうに。
「言っておきますけど、恨んでるとかそんなのあるはずないですからね。そこまで僕たちはネチネチしてないです」
心を読んだみたいに、じとっとした目を俺に向ける。…優しいからか、嘘が上手いな。祐月は目線を格子の外、街のほうへと外して、ゆっくりと俺に語りかけた。
「僕らの仲はそんな浅いものじゃないと思ってたんですが、漣さんは違ったんですね。一度繋がった縁をそう簡単に切れるほど、僕らは器用じゃありません」
「……、でも、おれ…、は、」
そう言って、はっと口を塞いだ。自分の声とは思えないくらい、情けない声、弱々しくて到底頼りにならなさそうな声だったから。こんな甘えた声、誰かに聞かせてたまるか。甘えられるならとにかく、俺が甘える、とか。かあっと頬が熱くなる。
祐月が、貫くように俺を見据えた。その赤からつい目を逸らすけれど、その色にやはり敵意はない。目を、伏せる。
「大丈夫ですよ、どうせ僕しかいません」
「お前でも大丈夫じゃないっての…」
「…漣さん。僕は、ひとの感情の動きにはけっこう敏いみたいなんです。だから貴方がどれだけカッコつけで気取り屋でプライド高くて、ひとに頼りたがらない性格なのか、僕にはずっとバレバレですよ」
はは、とつい笑ってしまった。何だよ、俺そんなんじゃねーし…。誤魔化すように呟くと、祐月の微かな笑い声が聞こえた。それは馬鹿にするようなものではなく、珍しい柔らかなものだったから、余計にタチが悪い。
盛大な溜息をついて、ごろんと上体をベットに沈めた。知らない場所の、知らない天井。動かない、意志のないそれをぼんやりと見つめていると、なんだかどうでもよくなってきて。頭が考えていない、心が想うことを、俺の口はぽつりぽつりと紡ぎだしていた。
「…おれは、ヒナリちゃんを…大事なあの子を悲しませた」
「……はい」
「ヒナリちゃんを、おれは、よけいに泣かせた。怖くて震えてる時に、もっと怖がらせるようなことを、ヒナリちゃんが何よりも怖がることを、してしまった」
「……はい」
「そうだよ、おれはヒナリちゃんを泣かせたんだよ…!それは絶対的な、確実な罪だ!あんなに綺麗な、綺麗なヒナリちゃんが涙を流すなんて、しかも怖かったせいで、おれのせいで!何かと比べるなんておかしいくらいの罪!ヒナリちゃんに、あいつらに、いくら嫌われて蔑まれても許されるはずがない、許されてはいけない罪…!だから、おれは…っ、もう、」
「……」
「おれは、ヒナリちゃんをまもれない…おれには、価値がないんだ、いっしょにいる価値がない…」
自分の掠れた声が、空気に馴染んで消えるのをたしかめて、目を閉じた。…時計の針が、何もない空間を静かに刻む。ごめんな、と口に出そうにも、上手くいかなかった。
…ギシリと、ベッドが軋む。隣の気配は、俺の方を見ないでいてくれた。
「…漣さん、貴方はどうして、ヒナリさんが好きなんですか」
「…はは、気が狂ったか祐月?なんで突然、男同士の恋バナなんか」
「いいから」
嘲笑すると、案外真面目に怒られてしまって。ヒナリちゃんを好きな理由?そんなの、いくらでも出てくるに決まってるだろう。今となっては懐かしい彼女との思い出と、そのときの彼女のたおやかな笑みが、はらはらと雪のように降ってくる。
「ヒナリちゃんは、はじめて俺を憐れんで、可哀想と言ってくれて、名前をくれた、こんなつまらない俺に…。それから俺を広い世界へと連れ出してくれた、知らないことを教えてくれた。俺に優しくしてくれた。救いをくれた…こんな気味の悪い世界の中で、唯一の穢れない、無垢な美しさを、希望を、見せてくれた、」
「…そうですか」
大方思いつく限りのことは言い尽くした。彼女が俺にとって、どれほどの救いになっているのか。どれほど今の俺を保つ、依存の場所となる、神様なのか。でも、全てを言い終えたあと、宝箱の底に残っていたちいさな、でも確かな想い。それを、見つけてしまった。
「……。いや、それだけじゃない、それが一番じゃない。俺は…おれは、ヒナリちゃんという、ひとつの、魂に惚れたんだ。何をされたか、何を言われたかじゃない、彼女が、好きだ…好きだ、愛してる…」
たとえばヒナリちゃんじゃない、他の子が俺に同じことをしたって、確かに好ましくは思っていただろう。でも、愛しはしない。ここまでの思いを抱いたりはしなかっただろう。俺が今、こんな愛を抱いているのは、それが彼女だからだ。他の誰でもない、彼女の魂そのものに惚れたからだ。その結果として、彼女の言葉や行動がとても愛おしいのだろう。
「…なるほど。じゃあ、どうして僕らが同じように思わないと、言えるんですか?」
はっ、と祐月の言葉が、俺だけの世界から目を覚まさせる。祐月はまだ目を合わせないまま、仕方なさそうに話し出した。
「貴方がしてくれることとか、貴方が言ってくれることが好きだから、確かにそれもあると思います。でもそれは、結果だ…貴方そのものが好きだから、ヒナリさんも彼方くんたちも、貴方が好きなんじゃないかと、僕は思います」
「でも、おれはそんな、」
「そういう『好き』は、簡単に覆りませんよ。貴方が一番よく知ってるくせに。だいたい、貴方は自己評価が低すぎるんですよ!証拠を言いましょうか。さっきだって彼方くん、ずっと貴方のこと心配して申し訳なく思ってたんですよ。それから僕も。あのとき貴方という他人に初めて怒られて、貴方の心に触れて、それがどれだけ僕を救ってくれたことか」
ああ、だからもう、さあ。優しいこと言われたり、甘やかされるのには慣れてないんだよ、馬鹿野郎。話してる間に怒りが募ってきたらしい祐月は、とうとう寝っ転がったままの俺を見下しながら、これ以上ないくらいの優しいことを言い始めた。
「ヒナリさんのことも心配ですけど、漣さんだって大事な僕らの仲間なんです。漣さんがヒナリさんを守ろうとしていたことだって、ちゃんと分かってます」
「…祐月」
「貴方ばっか守るだの愛だの、カッコつけたことばっか言ってるのはずるいんです。僕らだって漣さんを助けたいし守りたい、貴方は愛されてるんです!そもそも、そんなこと言う割に案外コロッとバトル負けるくせに!」
まるでさっきの俺みたいだった。夢中になって喋り切ったかと思うと、ふと冷静になったらしい。恥ずかしくなって俯けば、優しい月の色をした髪が落ちて表情を隠す。どんな顔をしているのかは容易に想像できた。
のっそりと上体を起こす。男二人が神妙な顔で並んで座るベッドというのは、改めて考えれば相当気持ち悪い。が、まあ、今はそれでもいいかな。
「ありがとな、祐月」
ぽん、と頭に手を置いてやれば、即座に払いのけられ顔を逸らされた。そりゃあそうだろう、こんな歯が浮くような言葉をぺらぺら喋っちゃったんだから。よりにもよって、俺にだ。ほんと、綺麗事みたいな言葉。でもそれは、こんな弱々しい俺にとったらこれ以上ない、救いだ。うっかり、そのことをまた表に出してしまいそうなくらい。
「祐月、ほんとにありがと。だからごめん、一回出てもらってもいい…?」
ばっと顔を上げた祐月の瞳は、どこか泣きそうだった。
「…僕は信用ならないですか」
「違うよ。違うから、そんな顔しなくてもいい。…ただ、ちょっと、ね」
含みのある言い方で察しないほど、祐月は鈍感ではない。分かりました、にこりと微笑んでそう俺に告げると、すぐに立ち上がった。俺も一緒に立ち上がって、その背中を見送る。
「今日はもう遅いです。ゆっくり休んでください」
「ありがと。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ばたん、と扉が閉じたのを合図に、俺は何度目かもわからない溜息をついた。そのまま扉にもたれかかると、ずるずるとその場に座り込む。
「守られるだの、愛されるだの、ね…」
祐月の言葉が脳裏に蘇る。ほんと、笑っちゃうくらい甘ったるいことを言ってくれたものだ。だけどそれは、今までの俺にはなかった発想で。だって俺は何かをして「あげる」ことで、自分を認めてもらってると思ってたから。「もらう」ことなんて、そんなのヒナリちゃんとあいつらの幸せで十分だよ。なのに、俺は、守られて、愛されて、いいんだろうか。こんなちっぽけで、つまらない俺なのに。そんなのに値しないようなどうでもいい存在なのに。
けど、それでももし、彼女が、あいつらがいいと言うのなら。淡い期待が俺を引き上げる。嬉しいけど、なんだかすごく恥ずかしいや。でもその分、俺もやっぱり、あいつらを、彼女を守りたい。守らせて欲しい。たとえ無駄だろうと傍にいて、愛させて欲しい。それが俺の思う、俺の価値だから。
「…ヒナリちゃん」
ヒナリちゃん、俺の大事な大事な、神様。
「ヒナリちゃん…ヒナリちゃん、ヒナリちゃんヒナリちゃん…っ、ヒナリちゃん…」
思えば思うほど、涙が溢れるよ。とうとう嗚咽混じりの声が、孤独な部屋に響き始めた。
――その扉一枚越しには、黙ったままの祐月が佇んでいることも知らず。
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