泡沫の見た薄明

扉一枚越しに、漣さんは泣いていた。あんなに強いひとが泣いて、心の弱さを露わにしていた。それでもやはり、僕たちの前では絶対に弱い部分を見せないところが、あのひとの強さであり、強情という欠点でもある。僕たちは、少なくとも僕は、その弱さを受け入れることが出来ると、伝えたつもりだったし、伝わったと思う。それでも独りになりたがるというのは、もうあのひとの矜恃のような気がした。

「祐月」

彼方くん達のいる部屋へ帰ってきた途端、千紘くんはいきなり僕の目の前に立つと、ぎらりとした視線を向けてきた。拳や肩、身体中に力が入って震えている。思わず一歩下がるけど、そうすれば千紘くんはもう一歩、僕のほうに迫った。

「どうしたんですか、千紘くん」

「なんで、しなせたら駄目なの」

「千紘くん、」

「なんであいつら、みんなしなせたら駄目なの…?俺、すごいあいつらが、嫌だ。しねばよかった!のに、なんで祐月、止めたの?」

千紘くんが彼女の仲間になった経緯は、だいたい聞いている。自分のための欲望だけで生きてる、と理央くんは言っていた。けどこの様子からすると、そんなこともなさそうじゃないか。仮に今までそうでなかったとしても、今こうしてヒナリさんを傷付けた人間に、怒りという感情を抱いている。ヒナリさんのために、怒っている。多分、千紘くんは今困っているのだと思った。初めてなんだろう、誰かのために怒るというのが。だからこうやって、僕に不満をぶつけるのだ。

僕を見上げる琥珀色の瞳に映るのは、やはりそんなような感情。怒りとやるせなさがせめぎ合っているみたいだ。

「馬鹿千紘、祐月に怒ったって意味ないじゃん」

「怒って、ない」

「…あのね。あんなところで千紘、刃振り回して誰か殺したりしてみなよ。そうしたところで、何かいいことが起こる?…何も起こらない。ヒナリのためになることなんて、何も起こらない。ただ、僕らが離れ離れになるだけだ」

少し遠くに座っていた理央くんが、視線も向けずにそう言葉を投げつけた。確かに、僕の言いたいことを代弁してくれている。千紘くんはう、と押し黙ると、俯いてしまった。

空気が重い。

単に漣さんがいないってだけじゃない。千紘くんはこんな調子だし、理央くんも何か難しいことを考えているらしく、ぼーっと一人で小さな格子の外を眺めていた。彼方くんは、ここに辿り着いてから一度もヒナリさんの眠るベッドから離れていない。真っ白で小さな手のひらを、まるでこの世に繋ぎ止めるみたいに握りしめ、彼女の目覚めを待ち続けていた。

僕だって、到底明るい気持ちにはなれそうにない。あんな意味不明な侮辱をされて、不愉快にならないはずがなかった。それに、ヒナリさんが悲しいと、僕も悲しい。彼方くんの座る横に僕も椅子を持ってきて、一緒にヒナリさんを見守ることにした。

僕が漣さんの元へ向かう前、理央くんに問い詰められ、彼方くんはヒナリさんの昔話をしてくれた。ポケモンの言葉が聞こえるという不思議な聴覚のせいで、幼い頃から苦労していたらしい。物心つかないような女の子だ、つい好奇心に駆られて道端でポケモンと会話してしまうことがあって、それを誰かに見られ、噂になってしまう、大勢の人の視線を浴びる。そんな街の中で暮らすわけにもいかず、引っ越さざるを得ない。彼女の母親はそんな彼女を酷く怒鳴りつけたようだ。だから、大勢の人前で視線を浴びること、それから母親が、怯えの対象になってしまったのだと。

白い肌は、もう白を通り越して青にさえ見える。表情も苦しそうに歪んでいるし、見ているだけで心臓が痛めつけられた。彼女の過去を知れば、尚更。それと同じように、酷く絶望の過る彼方くんの表情にも、心が痛くなる。声を掛けて、いいんだろうか。彼方くんの思いだけはじんじんと伝わってくるけれど。僕が俯いたままでいると、彼方くんのほうから声を掛けてきてくれた。睫毛を伏せ、ぽつりと、呟きみたいな声で。

「…漣、は?」

「…やっぱり無理して、笑顔を作らせてしまいました。でも、本音はちゃんと言ってもらいましたよ」

「そっか、よかったあ…」

それまでずっと張り詰めていた彼方くんの赤い瞳に、ほんの少しの安堵の色が戻る。あれから、誰よりも漣さんのことを心配していたのは彼方くんだった。悪いのは漣じゃなくて、あの場にいた人間なのに、僕はどうしてか咄嗟に漣を睨んでしまった、と。二人の間に強い絆があるのは仲間になってすぐ見て取れたけど、こうした時、改めてそのことを確認させられた。お互いが、お互いを想っている。

「漣に、早く謝りたい」

ほら、だからこんな言葉が溜息と同時にさらりと出てくるのだ。

「漣、きっと傷付いてたでしょ…?僕が、カッとなっちゃったから。あの時冷静になれてたら、漣はここまで傷付くことなんてなかったのに、僕のせいで」

「彼方くんのせいじゃないです…、勿論、漣さんのせいでもない。それ以上暗い顔したら駄目です、ヒナリさんが目を覚ました時、悲しませちゃいますよ」

ヒナリさんの名前を出した瞬間、彼方くんはびくりと反応する。彼女の手をぎゅっと強く握りしめると、そうだね、とあまり上手じゃない笑顔を僕にくれた。ヒナリさんの元にいつの間にかやってきていた千紘くんも、無表情ながらも少し和らいだ表情をくれて、ようやくいつもの暖かい光が戻りつつある。そのことに僕も、ふわりとした希望に包まれた。

「そう、彼方も漣も、誰も悪くない。悪いのは、誰でもない。けど、……」

理央くんがぽつぽつと歩み寄り、そんなことを語り出す。けれど途中で止まった言葉に、僕達の注目が集まる。理央くんの視線の先には、眠り込むヒナリさん。

「理央…?」

「なんでもないよ、千紘。…あーあ、最初はこんなに入れ込むつもりなんてさらさらなかったのに、どうしてこんな」

どうしたんだろう。座り込んだ理央くんはやはり、ヒナリさんをずっと見つめていた。彼女の頬に触れたその手が、優しく優しく、撫で上げる。理央くんにしては不思議なくらい、優しい手つきだった。

「僕も、ほんとうにヒナリを思うのなら、逃げてばっかじゃいられない。僕のやり方で、ちゃんとヒナリに向き合わなきゃ。それが、僕らを、ヒナリを、僕を、……」

独り言のような言葉に、何か理央くんの決意が滲み出ているように見える。常に真っ直ぐに真実を見据える水色の瞳は、ヒナリさんを心から愛おしんでいる、でも同時に射抜くようでもあった。
理央くんはそれから、ヒナリさんの髪を一束掬う。

「ヒナリ、全部、ヒナリのためだから」

そのまま、彼女の髪に優しく口付けた理央くんを、僕達はどこか遠い視線で眺めていた。


***

…ん、れん、漣

何時かも分からない。あれからただ、ベッドの上に転がってヒナリちゃんのことばかり考えていた。どうやら、夢を見ているらしい。愛しい彼女の、遠い鈴のような声が、薄らいだ中に聞こえてきた。

「ヒナリ、ちゃん」

掠れた声を、何とか絞り出す。視界はまだ明瞭じゃないけど、幻覚だろう。ベッドの脇に佇むヒナリちゃんの姿が見えた気がした。上から降って来る声、きっとこれは、天からの声だ。かみさまの声だ。

漣、ごめんね、起こしちゃった…?

「ううん、だい、じょうぶ」

大丈夫そうじゃないよ、…気づいてないと思ってる?

天から伸びてきた手のひらが、俺の頬をなぞる。干からびた涙の跡、ばれていたらしい。

漣、泣いてたんだね

ヒナリちゃんはそう言って、慈しむような微笑みを浮かべていた。それがあまりにも綺麗すぎて、遠い存在のように感じて。俺の頬に触れている、ヒナリちゃんの手のひらをそっと両手で包み込んだ。そばに、いたい。だから、まず何よりも言わなきゃならないことがある。

「…ごめんね、ヒナリちゃん、おれのせいで」

ごめん、本当にごめん。何度も何度もその言葉を発し続けていると、ぎゅう、と胸が締め付けられる。それと一緒に、俺の声もだんだん切迫したものになっていく。やがては薄らと涙もまた浮かんできた。それに気が付いたヒナリちゃんは、もう片方の手で俺の目元を拭うと、そっと柔らかな、でも確かな意思のある声を俺へと降らせた。

ううん、違うよ。それは絶対、違う

「違くない…、おれがあんなことしなかったら」

違う。違うから、漣。漣のせいじゃないよ、信じて…?

そう言ってくれるヒナリちゃんの言葉に、嘘はなさそうだ。優しい口調で、あやすように音をくれる。

「ヒナリちゃん…、おれ、ヒナリちゃんのそばに、いてもいいの…?」

いいよ。私、漣にそばにいてほしい

「おれは、ヒナリちゃんをまもれる…?」

うん。でもね、守ってもらってばっかは嫌だから、私も漣を守らせてね。…そうしても、いい?

「おれを、あいして…?」

…うん。好き。漣が大好き。あなたを、あいしてる

ヒナリちゃんの手が、また俺の頬を撫でる。その手のひらが、俺を救い上げてくれた。混沌の深い海の中から、とうとう俺は開けた世界を目の当たりにする。果てしなく広がる、自由。ヒナリちゃんや祐月が、ずっと引き上げてくれたおかげだ。

「ヒナリ、ちゃん、…も、う…おれ…!」

視界が涙で霞んで、ヒナリちゃんの表情が薄らんでいく。天から降る声も、手のひらも、ほんと神様だ。こんなにも美しい。眩しくて、泡沫のような自由に手を伸ばす。でも届かないなんてことはなくて、ちゃんと、触れられる。あなたはこの世に、確かに存在している。だからこそ守りたい。愛したい。あなたの綺麗な笑顔に守られていたい。愛され、たい。

こんな汚くて弱々しい俺を彼女の前で見せることは恥ずかしいことだし、申し訳ないと思う。けど、彼女がそんな俺でも認めてくれる、守ってくれるなら、…愛して、くれるなら。だから俺はまた、嗚咽を漏らし、とりとめなくぼたぼたと涙を流し続ける。
ALICE+