泡沫の見た薄明

ぞわり。

背筋に走り抜けた悪寒で一気に飛び起きる。呼吸は荒く、額にも薄らと汗をかいていた。しばらく他に何もできず肩を上下させていたけど、ようやく息がつけて、もう一度ばたんと布団に倒れこんだ。

…私は、夢を、見ていた。悪い夢だ。でも、既にぼんやりと靄の向こう。何か、あまりいいものではなかったのは覚えているのだけれど。忘れたほうが、いいのだろう。曖昧な思考の海の底から少しずつ光が見えてきて、体を起こす気にもなってきた。

まず、そもそも私は何をしていたんだっけ?記憶の糸を辿ろう。確か私、エンジュシティに着いて、キリノさんに詰め寄られて、それで、また…。心臓が押しつぶされたような気分の悪さが襲うけれど、もういい加減に慣れなきゃ。

それから、ここはどこ。上体を起こし、あたりを見回す。私がいるのは部屋の中のベッドで、彼方が突っ伏して眠っている。理央も祐月も千紘も、お互いに少し距離を置いて思い思いに睡眠をとっている。漣だけがいないのが、気がかりだけど。…ポケモンセンター、かな。そう思ったけれど、それにしては随分と古めかしい建物だ。窓はガラス製じゃなくて木製の格子だし、床はフローリングではなく板敷だから、歩くたびにぎしぎしと音が鳴る。エンジュだから、こんなポケモンセンターもあるのかもしれないけれど…。できるだけ忍び足で、足を進めてみる。

格子から外を覗いてみると、そこには夜の華やかなエンジュの街の全貌。ここは随分と高い場所らしかった。でもその中にポケモンセンターの赤い光も見つけて、じゃあ、ここはどこ?彼方たちは私を一体どこに連れてきたのだろう。それと、漣はどこ?私が今会って話をしないといけないのは、あんな悲しそうな顔をさせてしまった彼だ。彼に会いたい。私が部屋をこっそりと抜け出すのに、そう時間は掛からなかった。

扉を出た先の廊下には、いくつもの同じような扉が並んでいる。まるで旅館みたいだと思ったけれど、旅館のように人の空気がしない。どちらかというと、神社や神殿の類の空気に近い。じわじわと静寂という不安がにじり寄ってきているし、はやく、はやく漣を見つけなきゃいけない。

「れん…どこ…?」

ちいさな声が、暗い廊下に溶けて、消える。…暫しの静寂。しばらくして、ぎしり、ぎしりという、私が足を進める音だけがまた鳴りはじめる。やっぱり、呼んだら出てきてくれるなんてことはないよね。でも、漣なら出てきてくれる気がした。彼は私に優しい。どうしたのヒナリちゃん、なんて、ひょっこり出てきて微笑んでくれそうな気がした。でも、今は私が探すから。私が、あなたのもとに行くから。ね、だから、漣。どこにいるの…?立ち止まって祈るように呟いた、そのとき。

――ぎしり、と、音がした。床板の音かなと思ったけれど、私は今立ち止まっていた。それに、どちらかというと、寝返りを打ってベッドが軋むときのような音だった。その出所は、すぐ隣の扉の奥。でもまだ確かじゃない。もう一度、もう一度だけ聞こえたら、お願い…!

「……、ヒナリ、ちゃ、ん、」

…漣だ。微かな声だったけど、ちゃんと分かる。扉を開けて、ベッドに倒れこんでいる彼を見つけた。うずくまり、泣き腫らした目元の彼は、まるでちいさなこどものようだった。か弱くて怖がりで、とても臆病。それがどうにも愛おしくて、愛おしくて。

やがて意識が少し目覚めたのか、あお色がじわりと滲む。そして寝起きの低い声で、彼は泣きながら私に囁き続けた。その言葉は、彼の奥の奥にある不安と恐怖と、愛。繊細で、脆く壊れやすいそれらに、私は直にこの手で直に触れていった。彼が、私の不安や恐怖を取り除いて、愛をくれようとしてくれたように。

ねえ、漣。私だって、ちゃんとあなたを見つけられるんだよ。されるばかりじゃない。私だって、あなたにできることはたくさんある。私はいつも、優しいあなたからたくさんの愛をもらってばかりだ。だから今、心から思う。見栄も虚勢もない、そのままのあなたを守りたい。あいしたい。

祈りながら、彼の頬に触れていた。彼の涙を拭いながら、声を掛け続けていた。

***

それからそのまま、私は彼のベッドの傍に座り込んで眠ってしまっていたらしい。なのに今、私の体が柔らかい毛布に包まれているのは、きっと彼が代わってくれたからなのだろう。

ゆるい瞬きの隙間からようやく見えてきた漣は、私が目を覚ましたことに安心したのか、ふと表情を緩めた。微笑み返したあと私が上体を起こすと、彼は私の肩に、ゆっくりと頭を沈める。らしくない、縋るようなその行動に驚いたけれど、だんだん目が冴えてくるにつれ、驚きは愛おしさに変わってくる。そっと背中に手を回し、あおい髪を手櫛ですぅ、と梳くと、彼はようやく言葉をくれた。耳元で、何とも頼りのない声で。

「…おはよう、ヒナリちゃん。…夜は、ごめん。夢かと思ってたら、現実だったんだね…」

「ううん、漣が謝ることじゃないの。私がありがとうを言いたい。…おはよう、漣」

はっと、息を飲む声がした。それから彼は、投げ出したままの腕を、おずおずと私の背中に回した。抱き締めるちょうど良い位置を探すように身じろぎをするなんていう、子供みたいな動作につい微笑むと、意地になったように腕の力を強められた。…かわいいひと。だからもうすこし、いじわるをしてみたくなって。

「…ねえ、顔、見せてくれないの」

「うーん、…あはは。ちょっと今は、無理かなあ…」

はらりと垂れた彼の髪をひと束、耳にかけてやると、その耳はほんのりと熱い。照れ笑いを含んだその言い方がおもしろくって、私も理由の分かっている問いを続けた。

「どうして?」

「だって俺、昨日からずっとこんな醜態晒しまくってるし…恥ずかしいって…」

「ふふ。漣、かわいい」

「かわ、いいって…。似合わなさすぎでしょ…」

余計にじっと熱くなる彼の温度を感じる。だって、かわいいひとにかわいいと言って、何がいけないの?そうやって口元を緩ませ微笑んでいると、彼の頭がもぞりと動いた。せっかく私が耳に掛けた髪ははらんと滑り落ち、また彼の表情を隠してしまう。けれど、彼が額をこつんと合わせてきたから、案外すぐにその顔にまた会えた。

深いあおいろ、細かな髪の隙間。少し頬を朱に染めて、長い睫毛の奥から私を見つめている、潤んだ蒼い瞳。みなものように光を滲ませ、きらきら、ゆらゆらと輝くそれは、気後れすらしてしまううつくしさだ。私がはっと息を飲んだのを見て、漣はそんなうつくしい瞳を、これ以上なく優しく、蕩けるように細めた。

「かわいいのは、あなたのほうだよ、ヒナリちゃん」

「…赤い頬したひとが何を言うかと思ったら、もう、またそういう」

「はは。…でも、ほんとうのことだから」

薄く開いた唇から、ささやく吐息。すぐ息の届く距離でその呼吸を感じながら、私も息をしている。

「おれ、甘え方とか頼り方とか、正直何も分からなくて、だからこうして抱き締めることしかできないんだけど、これで、いいのかな…」

「それで漣が楽になれてるのなら、それが頼るってこと、甘えるってことだよ」

「そっか…。おれ、今すっごい幸せだから、これが、そうなんだね。好きな人が、こんなに近くで、おれを想ってくれる、しあわせ…」

もう一段強く、抱き締められる。また彼の表情は見えなくなってしまったけれど、すぐ耳元の声で、彼の想いを胸一杯に感じる。

「ねえ、ヒナリちゃん。もうひとつ、おねがい」

「…うん」

「やっぱりおれも、いっぱいあいさせて…。あいしてるって、言わせて」

…なんて、あなたらしい欲望。誰かを愛することで、自分の価値を見出しているのね。誰かのために生きることで、自分の居場所を作っているのね。あなたは、あなたのために、生きてもいいのに。それができないから、あなたはやっぱり、かわいいひと。

返事の代わりに、ぽんぽんと背中を叩く。彼はその意味をちゃんと分かってくれて、ありがとう、と微かな吐息で囁いた。そして、あまい、あまいつぶやきを重ねてゆく。それに私も、身を委ねた。

「ありがとう、あいしてる、あいしてる、おねがい、あいしてます…ヒナリちゃん」

「…漣、」

「あいしてます、うつくしい、おれの、大切な、神様…」

歯が浮くような、大げさすぎる謳いも、今は微笑んで受け入れられた。けれど、かみ、さま…私は彼の、かみさま?それ以外は全て透き通ってゆくのに、その言葉だけが、不思議と胸にふわふわとした違和感として残る。でも今は、彼の願いの全てを受け止めたいと思うから。きっとこれは、謙遜やそういう類の感情なのだろう。そんなの、今はいらないものたちだ。彼の気付かぬ間に、それらにそっと、目を閉じた。

不意に腕の力が緩まり、再び視線と視線が淑やかに絡まる。それが彼にとって何かのきっかけだったのか、彼は私の瞼に影を近寄らせる。不安と、ほんの少しの期待を込めて、私が瞳を閉じた瞬間、だった。コンコン、という、場違いなノックの音がしたのは。

「…漣、起きてる、かな?」

「どうでしょう、でも、無理に起こさないほうがいいかと…」

彼方たちの声だ。どうする?と視線で問いかけると、漣は困ったように眉を下げて笑った。そして、ないしょ話をするような声色で、そっと囁く。

「…まだばれないよ。まだ、もうすこしだけ、ふたりきりで、いさせて」

彼方たちの話し声が壁一枚越しに聞こえる中。私は瞼に触れる彼の温度を、これ以上ない幸福感の中で受け入れていた。
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