泡沫の見た薄明
こんなの白昼夢じゃないと可笑しいはずだ。俺の腕の中には、今、彼女がいる。愛してやまない、ヒナリちゃん。同じベッドで、同じ毛布で、同じ体温で。陽の光が高くなってもずっとこうして、ふたりぼっちの世界で溶け合ったままだった。
たとえば、俺が少し身をよじらせると、彼女はふと俺を見つめ、微笑みで俺を柔らかく包み込む。何かがあるわけではなかったけれど、強いて言うならばその少しだけ空いてしまった隙間を埋めたくて、ぎゅうと抱き締め直す。華奢な肩に首を乗せて、からだも全て密着して、それはまるで母親に縋るこどものように。彼女はまた少し微笑むと、そっと俺の髪を掻き上げ、指先で地肌を撫でる。
そんな他愛もない戯れを永遠に繰り返す、微睡のなかの昼下がり。すぐ傍には、眠る彼女の整った息遣いが聞こえる。…まるでこの世界が全て俺のために作られたような錯覚。俺だけが彼女を独占して、愛しているのだ。勘違いは何ら不自然じゃない。このまま、俺の神様でいてくれたら、いい。他に誰もいない、何もないこの部屋で、ずっとふたりでいられたら、いい。
肌蹴た毛布を直そうと、上体を起こしたときだった。ふと、彼女が眠たげな唸り声を上げた。起こしてしまったのかと思ったものの、まだまだ瞼が開く気配はない。ただ、俺に触れていた彼女の手のひらが、ぱたんと反対側の布団へと倒れていった。それと同時に、上半身ごとひねられ仰向けになる。彼女はまだ、目覚めない。
そこで俺は、はっと息を飲んだ。そして、その息が空虚になっていくのを感じた。笑いたくなったし、泣きたくなった。窓から射し込む、まっしろな天の光が彼女を照らしていたのだった。シーツに散らばる淡い胡桃色の髪はそれを反射し、一本一本がきらきらと輝いて、頬の輪郭はやわらかな光にふちどられ、真白。光が粉のようにふるわれた睫毛も、白をまとった細い脚も、全てが光に包まれていて。まるでそれは天から祝福を受けているかのよう。ああ、こんなにも彼女は、うつくしい。一線区切られた影の中で座り込んで泣きそうになる俺を、彼女は知る由も無い。
嗚呼そうだ、元はそうだったのだ。彼女のような人に、俺が触れていいはずがない。俺だけのものにして、俺の影の中に閉じ込めるなんて、甚だ恐ろしいことだ。彼女は光の中にいるべき存在なのだ。自由の風に煽られて、瞳に映る様々な色彩にひとつずつ想いを馳せて、陽の光の中で、うつくしく無垢なまま。俺はその中には行けない。行きたくても、足掻いても、俺はもう既に泥のような思いに汚れている。そんな俺が彼女を独占することを、何よりも俺自身が許せないのだ。
俺の居場所は彼女の隣かもしれないけれど、彼女の居場所は、俺の隣じゃない。
そう、そうなんだよ、なあ。…なんという皮肉だろう。口元が自然と笑えてきた。同時に、目頭が熱くなった。握りしめた拳も、微かに震えた。
「……ヒナリちゃん」
だから、夢から醒めよう。彼女は、いるべきひとの隣にいるべきだ。俺がどれだけ身を焦がそうとも、彼女には、ふさわしい場所がある。
「ん……、れ…ん」
「おはよう。…帰ろう、あいつらの…彼方のところへ――あなたのいるべき場所へ」
***
「…だいじょうぶ?」
彼方の「だいじょうぶ」の意味がどういうことかははっきりはしなかったけど、私はとにかく、無事だ。抱きすくめられたまま頷くと、彼方はそっと腕を緩め、微笑んだ。
最初に彼方たちのいる部屋のドアを開いたのは私で、漣はドアの陰にもたれかかって沈黙を貫いていた。途端に彼方が凄い形相で駆け寄ってきて、そのあまりの剣幕に一歩慄きそうになったところを、ひしと抱き締められた。…"彼"とは違う、"彼"の温度。"彼"はいつも、私を和らげる温度。それでいて、まっすぐな熱。けれど"彼"は静かな、かなしみを押し堪えたように広がる熱さだった。そんなことをぼんやりと、彼の腕の中で思っていたとき、さっきの小声であった。
「体も普通に動くし、いっぱい眠れたし、もう平気だよ。心配かけてごめんね」
「ヒナリが無事なら、それでいいよ。…よかった」
抱き返して、彼方の背中をとんとんと叩くと、どちらからでもなくお互いに体は離れていった。それから祐月に自然と手を取られ、理央たちのいる部屋の中へといざなわれる。振り返ると彼は――漣は、まだ壁にもたれかかって俯いたまま。だけど、ふとその顔が持ち上がったとき、漣のその青い瞳がビー玉のように丸くなる。彼の目の前で柔らかく笑った彼方は、ポケットに突っ込まれていた漣の両手を引っ張り出し、その手と手を重ねた。そして面食らったまま、私と同様、部屋の中へ引き込まれていく。
「お、おい、かな…っ!?」
「漣、あのね」
ばたんと扉を閉めた途端、くるりとカーディガンの裾を翻し、彼方は漣に向き直った。底光りする赤がじっと、狼狽えるように揺らめく青を捉える。漣は、すこし怯えているようだった。それほどに、彼方の瞳の赤には、ひとを圧倒する強い"何か"が篭ることを、私はすでに何度も見ていて、知っている。それは不純物のない宝石のように強く硬く、真っ直ぐすぎるもの。だから時に恐ろしく見えるのかもしれないけれど、ただ彼は、純粋なのだ。自分自身の心を、裏表なく伝えようとしているだけなのだ。
「ごめん」
頭を、下げる。…両の拳を握りしめて、ずっと。漣も、私たちも皆、黙るほかなかった。
「僕はあの時、漣に敵意を向けてた…。漣に怒ったんだ、意味もなく、八つ当たりして。よく考えてみれば、あの時本当に敵意を向けるべきだったのはキリノのほうなのに、僕は…」
「…彼方、それは違う」
「違わない!…違わない、んだよ」
ばっと顔を上げ、彼方はまた瞳で漣を捕える。真っ直ぐな贖罪の思いを、その色の無垢で告げている。
「あの時、僕は漣を、本気で睨んでた。それってすごくひとを傷付けることだって、分かってたのに。僕はわざときみを、傷付けようとしてたんだ」
「……」
「漣が僕のことをどう思うかは分からないけど、でも僕は、漣のことずっと大切だし、すきだよ。もっと長く、一緒にいたいって思う…。そのくらい僕にとって漣は、だいすきなひと、だから」
赤い瞳が零れ落ちそうなほどの澄んだ思い。それを照れることも恥じらうこともせず、真っ直ぐに言い切るものだから、逆に漣のほうがどうしたらいいのか分からないようだ。ぽかんとまんまるだった瞳が、だんだんと斜め下に逸らされていき、やがて漣は手で口元を覆った。
「……。お前なあ、それをなんでヒナリちゃんに言えないんだよ…」
「……へ?」
「てかほんとお前怖すぎ…、どんな顔してたか鏡持ってきてやりたかったよ」
「う、ご、ごめん…」
「……彼方」
それまでの茶化した口調がふと、落ち着いたトーンになるから、私も一緒になってどきりとする。ふたりの真っ直ぐな視線の重なりを見つめながら、言葉の続きを待った。
「ありがと。…でも、お前は悪くないよ。俺が悪いから。だから、もう謝らなくていい」
「そんなの…!」
「もうお前、今から何も喋んな。…それで、だ。俺は、ヒナリちゃんも、お前らも、皆大事っていうか、ちょっとお前らの想像を超えるくらいの相当重っ苦しい愛をだな、俺はお前らに持ってるわけで、その結果ああいう風に感情が走っちゃうときがある、というか…言い訳したいんじゃないんだけど、あー」
あー、だの、うー、だの呟きながら、もやもやした自分の心情を何とか言葉にしようとしているのを、彼方が一生懸命に見上げて聞いているものだから、漣も余計に詰まってしまっている。ちょっとおかしくて内心微笑んだ。
「だから!…えっと、何言わなきゃなんないかっていうと、ごめん。冷静さを欠いたのは俺の責任だ。それから、そんな酷いことをしたって言うのに、俺はこれからもヒナリちゃんとお前らの傍にいたい…って、思ってるらしい。あわよくば、ちょっとでもヒナリちゃんを、お前らを守ることが出来たならいいなあ、なんて…そしたら俺も、ちょっとはいていいのかなって、思える気がするから…」
「漣!あのね、僕らも漣にここにいてほしいんだよ!漣は、」
「だーっもうほんと止めろ!喋んなって言ったろ!俺に喋らせろ!」
「だって漣は自分のこと全然分かってないから!漣はここにいなきゃだめなんだ!ここにいてほしいって、僕らが言ってるんだ!なんですぐに自分の思い込みの中にこもっちゃうんだよ、漣のばかやろう!!」
ムキになって言い返した彼方の言葉に、漣の口がふと、虚をつかれたように噤まれた。ようやく理解してくれたんだろうか、そのまま呆然としている漣に、彼方もはっとしたようだった。おずおずと顔色を探るような視線を向けていたけれど、やがて心は決まったようで、凛と姿勢を伸ばし、照れ臭そうに笑った。
「…ねえ、漣。いっぱい酷いことして、ごめんね。僕は、きみと仲直りがしたいんだ。僕は、きみのともだちでいたいんだ」
そっと、彼方が右手を差し出した。漣はその手のひらをまじまじと見つめていた。漣はまるで狼狽えているようだった。それでも彼方は、その顔を逸らそうとしない。ずっとずっと、真っ直ぐに、見つめ続けていた。
結局、根負けしたのは漣だった。おもむろに彼も右手を差し出すと、ぐっと握りしめる。そしてようやく、やっと、微笑んだのだ。へにゃりと困ったように眉を下げた、いつもの漣の、笑い方で。
「……仲直り、しよーぜ」
「……うん。これで、仲直り」
固く結ばれた手と手、やっと重なった視線と視線。それはまるでふたりの絆のようで。しばらくじっと見つめ合っていたふたりだったけれど、やがて同じタイミングでぷっと吹き出す。「お前何真面目な顔してんの!」「漣こそ、そんなじっと見られたら笑うって!」お腹を抱えて笑い出すふたりに、私もむくむくと嬉しさとおかしさが膨れ上がってきて、ふたりに後ろから駆け寄って一緒に抱き寄せる。びっくりして前のめりになったふたりにまた笑って、ふたりに抱き返されて、笑って。
そうだよ、彼方と漣が仲違いするなんて、まるで可笑しな話だ。それに、すきなひととすきなひとが仲が良いのは、単純に嬉しい。…ちょっぴり嫉妬しそうな気持ちもあるけれど。それでもやはり、このふたりはこうあるべきなのだと思ってしまうから、仕方ない。
その一歩離れたところで、祐月がそっと微笑んでいた。それを千紘が見上げて、何かを尋ねているようだ。よくよく聞いてみると、
「…ごめん、って、なに?」
「誰かに悪いことをしてしまったら、そのひとに償わないといけないんです。もしくは、許してもらうか。その許しを求める言葉、ですね」
「じゃあ、ごめんって、言わなかったら?」
「…それはとても、苦しいものですよ」
「ふうん…」
不思議なところで途切れた会話だったけど、そんなことを吹き飛ばすような彼方と漣の様子に、気が逸れてしまっていた。
笑い声の絶えない中、何かが足りない。いつも漣を茶化したりいじったり、散々な扱いをしてる声が。いつもはちょっと可哀想じゃないかなと思うけど、こういう時こそいなくてどうするんだ、理央。彼方たちも何となくそのことに気がついたらしい。少し遠巻きで俯いたままの理央に声を掛ける。
「ねえ理央、理央も来てよ!こんなときに理央がいないと、」
「……。そう、漣も、彼方も、自分の弱さには気が付いているんだ。知識は、あらゆる意味での武器になる」
静かな口調。落ち着き払った口調。私達の心を占める温度とそれはそぐわなくて、どうしたんだろう、と視線が注がれる。俯いたまま、ゆっくり私たちのほうに歩み寄る理央は、どことなく異様だった。
「理央…?」
「ごめんね、今から僕はきっとヒナリたちに嫌われるようなことを言うよ」
「そんな、」
嫌いになるなんて、出来ないよ。
理央はそっと顔を上げた。常に正しさを与えてくれる水色の瞳が、私達を惹きつける。
「キリノのことで、僕たちはまだ根本的な解決をしていないんだ。…その原因となるひとが、いるとするならば」
正しいことは、それだけで武器となる。それは守るための武器にもなるし、攻撃するための武器にもなる。理央の視線の先には、紛れもない、
「ヒナリだよ」
私がいた。
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