泡沫の見た薄明
私だ。全ての原因は、私だ。
「理央、どうしたの?急に変なこと言って」
「急じゃないよ。先に嫌われるかもしれないって、言った」
慄いた。彼方の明るい言葉が、まるで静電気みたいに跳ね返されたから。冷たい、あくまでも冷淡な口調。温度が、刺すように冷たくなってゆく。
「ヒナリが原因なんだ。ヒナリの弱さが、いつまでも怯えてるヒナリの弱さが、一番の問題だ」
誰も、何も口を開かなかった。いや、開くことを許されていなかった。理央の声も立ち姿も視線も何もかもが私たちを捕らえて、そうすることを許さなかった。
時を動かす、理央の一歩。そしてあの清廉な理性をたたえた瞳で、私をじっと、見る。
「…ねえヒナリ、どうして、ヒナリは旅をしているの」
「それは……っ、旅をするため。旅をして、ずっと見たくて見れなかった世界を見て、その先にはきっと私の知らない何かがあると思って…、自由がそこにあると思って、そうしたら、私は少しだけ、変われるんじゃないかなあ…って」
「…自由かあ」
言葉にしながら整理していたら、自然と出てきたのだ。とても甘美な、誘われる響きだ。ずっと部屋の中に閉じ込められていたから、その反動、というのもあるかもしれない。あの頃は自由なんて到底存在しなかった。体は勿論、思考や心さえも陰鬱さに縛り付けられていた。そんな風に閉じ込められてばかりだった私だけど、ううん、そんな私だからこそ。自由に知らない世界を歩き回って、最後にシロガネ山に辿り着く頃には、きっとほんとうの意味の自由が掴めるんじゃないか。私は、変われるかもしれない。そんな希望と夢が、今までの私を突き動かしてきた大きなちからだと、思う。
けれど理央は、それを「すてきな言葉だね」と少し笑った。その後、すぐにさっき無表情に変わる。無表情、とも少し違うかもしれない。嘲りのようなものも、僅かに混じっているように見えた。
「ヒナリの昔のこと、彼方から全部聞いたんだ。…ああ、漣は知らなかったか。おかーさんに怒られたことと人前に出ることが結びついちゃってるから、怖くなっちゃうんだって」
そう思うと、私はまるで、パブロフの犬みたいで。羞恥に顔が熱くなる。事実、私はもう母親からずっと離れた場所にいるのに。そういう風に学んでしまったから、本当は繋がりのないふたつの出来事が、繋がってしまう。
でも、今更変えようがないよ…もう、このままでいいじゃないか。だって私は、そうやって生きてきて、彼らもそんな私をただ優しく受け止めてくれる…変わらなくて、いいじゃないか。そんな甘えた猫撫で声が不意に脳裏に降ってきて、はっ、とした。変わりたいと願っていたのは、誰だっけ?
「…それにしてもさ、それって、ただの弱虫だよ。変わりたいって思ってるくせに、いつもヒナリは人前から逃げてばかりだ。立ち向かえてないじゃん」
…ずきり、ずきり。そうだよ、その通りだ。理央の言葉は全て真実。だからこそ、痛い。辛い。怖い。指先が凍るように冷たくなって、そこから手のひら、腕へ、身体へ、心臓へと、氷が蝕んでくるようだ。そう思えば私は、恐怖を感じると身体が冷たくなる癖があるのかもしれない。カツラさんにポケモンが欲しいと頼んだときの理由も、あたたかいから、と言った記憶があるし、アルフの遺跡でも指先が冷えているのを漣に心配された。コンテストのことを聞いたときも真っ青だって言われたし、この前だって。きっと、何もかも、私が弱いままだから。結局、私は口先だけ綺麗事を並べているだけで、中身は弱くて臆病者のまま、何も変わっていないんだ。
「今のままのヒナリがシロガネ山のてっぺんに行って、それで私は自由だ、私は変わったなんて、言うつもり?…そんなの、ばからしい。ヒナリは絶対、自由になんかなれてない。ヒナリは一歩も動けてないんだ、彼方と出会う前の、グレンで独り怯えてた頃のヒナリから、一歩も!だってそうでしょう。自分自身の心に縛られたままなんだから、怖い怖いって言って逃げて、いつまでも昔のことに縛られたままじゃんか、」
まるで悲劇役者みたいな足取りと口調で、理央は私に少しずつ、少しずつ近寄ってくる。一緒に近づいてくる言葉に、耳を塞ぎたくなる。後ろを向きたくなる。逃げたい、逃げたい逃げたい逃げたい…!――助けて、ほしい。自分のほんとうの姿が、結局囚われの自分の姿が、惨めなほど露わになっていく。怖がりで、彼方たちが助けてくれるのを待っていて、彼らに依存したままの私。過去から逃げて、自分自身から逃げて、立ち向かうことを諦めた私。握りしめた指先が肌に食い込んで、痛い。目を強く瞑って、体を震わせて、逃げようと、目を逸らした先の、きれいですてきな夢の世界へ逃げ込もうと苦しむ。痛い。すごく、痛いよ。誰か、たすけて。
「そんなののどこが自由だって…?自分自身の過去から全然自由じゃないのに。偽物の、ハリボテでしかない自由。それに満足して、やったね、やったねって喜んでさあ…何も変われてないって言うのに」
うん、そうだね、そうなんだ。でも、どうしたらいいのかな、私。逃げ場は全て塞がれてしまったよ。それは、このちいさな少年ひとりのことばによって。理央が私の前に立ち塞がる。俯いたまま、床に向かって叫び続ける彼を、私は唖然と、ほたほた涙を零しながら、見つめるしかなかった。
「そんな浅はかな夢を、絵空事を、僕らも一緒になって信じて、一緒になってぬか喜びしようとしてるんだ。一緒になってばかをしようとしているんだ!でも、そんなの、…そんなの、そんなのそんなの…っ!いつまで経っても籠の中の鳥気分で夢見る少女でそのくせ本当は逃げることに必死なただの女の子に、僕ら踊らされてるだけだ!!」
「……っ!!理央!!」
ぽとん、と握られた手に冷たい雫が落ちたとき、理央の姿がふと持ち上がった。横から踏み込んできた漣がその胸倉を掴み上げたのだった。両足が宙に浮く姿にハッと嫌なものを想像して息が詰まったらしい、咄嗟に声が出なかった。
「…今言ったことがお前の本音なら、お前が本気で彼女を侮辱しようとしているなら、俺はお前をどう思ったらいいのか分からなくなる。…止めろ」
「……。悪いけど、もう僕は引き返せない」
全身の毛が逆立つとはこのことかもしれない。どこか諦めたように瞼を伏せ、顔をそらす理央に、漣はかっと目を開き腕に力を込め、さらに怒りを露わにしていた。理央も流石に、小さなうめき声と共に表情を歪めた。彼らには彼方や祐月の制止の声も、聞こえていないようだった。
「……っ、ヒナリちゃんは何も悪くないだろ…!ヒナリちゃんが弱いって言うなら、俺がその分補って強くあればいい!痛みでも何でも背負う!なのに何でヒナリちゃんを傷つけるようなこと言うんだよ…!苛々してんなら俺に当たっても何でもいいから、ヒナリちゃんだけは、ヒナリちゃんだけは、傷付けるな…!俺はどうなってもいいから、なあ、そんなの、お前らしくねえよ、理央」
力の無い、微笑。震えていた漣の腕が、がくんと脱力して落ちた。それと一緒に理央も床に落とされ、どさりと倒れ込む。咄嗟に駆け寄った彼方が介抱していたけれど、理央自身の表情は俯いてしまって見えない。
ああ、折角漣が苦しそうじゃなくなって安心したのに、また悲しそうな顔してる。みんなそうだ。理央も、彼方も、千紘も祐月も、みんな笑ってない。悲しそう、寂しそう、苦しそう。全部、私がもともとの原因なんだ。私が悪いんだ。私がこんなにも臆病者の意気地なしで、今だってまるで一切の言葉を奪われたみたいに、何も出来ずにただ泣いて震えている。誰かが助けに来るのを待っている。全部理央の言う通りだよ。私はいまだ、籠の中の鳥なのだ。いくらバッジを手に入れたって、どれだけたくさんの場所を訪れたって、私はまだ、"あのひと"の籠の中。ちっとも進んでやしないのだ。
沈黙。私の啜り泣く声だけが、そこにあった。なんて無様なんだろう。私はただ籠の中、誰かの助けを待っていた。
そして、ほんとうに助けてしまうひとが現れてしまうから。真っ平らな水面を破る雫を落としたのは、祐月だった。
「……違うんです。理央くんは、決して苛々しているわけじゃない。そんな感情任せのものじゃない。僕には分かる。伝わってくる」
「…祐月、やめてよ」
「いいえ。これは、貴方の名誉にかかることでしょう、理央くん。貴方が言わないのなら、僕が言う。違うのなら違うと、言ってください。…理央くんは、覚悟の上です。攻撃的な言葉の全ての責任を、きちんと自分で負うつもりです。それは、彼が僕らの仲間から外れることも含んでいるんじゃないかと、僕は思います」
千紘と共に部屋の隅にいた祐月が、そっと歩み出す。視線は斜め下に落としたまま、漣のほうへと。皆立ち尽くすしかなくて、顔も上げなかった。
「誰かを傷付けるためには、傷付けたのと同じだけ、いや、それ以上の傷を、自分も受けなければならないでしょう。それが大好きな人というのなら、尚の事。こんなにも聡い理央くんが、そのことを知らないはずがない。それでも理央くんは、ヒナリさんを傷付ける言葉を使った。漣さん、それが、苛々とか感情任せのものに思えますか」
「…そんなの、ヒナリちゃんを傷つけるなら一緒だ」
「じゃあ理由を考えてください。理央くんは、何がしたかったのか。…理央くんは、ヒナリさんをほんとうの意味で幸せにしたかったのだと、自由という夢を叶えたかったのだと、思います。ただ優しいだけの温床では、彼女は自由になれない。必要なのは、困難。敵。でもヒナリさんのほんとうの敵は、ヒナリさん自身の中にいることに、理央くんは気がついた。そのことにヒナリさんは気がついていない、目を背けている。…なら、その敵を引き摺りだして、目の前に見せつけるしかない。そうでしょう、理央くん。そのためなら、嫌われ役にでもなってみせようと決めたんでしょう」
理央は返事をせず、俯いたまま。無言は、肯定だった。ただ少し、肩が震えていた。
「でも、そう決意をしたのは彼の理性です。不思議なほどに大人びた"頭脳"の部分なんです。その反面、彼の"こころ"は、大好きで仕方ない人を傷付けること、嫌われることをずっと恐れて、泣いている」
彼の"こころ"は、等身大の、まだほんの幼いこどもなんです。
場違いなほどに甘く、慈しむような口調で紡がれた祐月の言葉。まただ、理央の肩が震えた。それに気がついた漣ははっとして、俯いたままの理央の顎をぐいと摘んで持ち上げた。
そして現れたのは、溢れそうなほどたくさんの涙の粒を乗せた水色の大きな瞳、真っ赤な頬、噛み締めすぎた唇。感情でぐちゃぐちゃにかき乱された、年相応の幼い表情が、そこにあった。
「……!やめて!触るな…っ!」
咄嗟に漣の手をはたき落したけれど、もう遅い。袖口で目元を乱暴に拭うと、どん、と漣の体を押し返した。そして、私たちの視線が自分に注目していることに気がつくと、一瞬怯えたように瞳を震わせて、もう一度俯いた。体に沿うようにくっつけられた腕の先の握りこぶしは痛いまでにがたがたと力の行き場を無くし、俯いたままの頬からもぽつりぽつりと雫が落ちている。それを見て、私の頬にももう一筋、涙の跡が出来た。
もう、何を思ったらいいのか分からないのだ。ただひたすら、とめどなく、熱過ぎる感情が湧いては溢れ、湧いては溢れ。どうして、そこまでに私を思えるの。どうしてそんなに葛藤してまで、縛られてまで私を思えるの。苦しさに喘ぎ、悲しみに打ちひしがれながら、どうして、どうして。悲哀も慈愛も憐憫も自虐も全部一?くたになった私の感情はいくつもの雫となって、ぼたぼたと無様に頬を伝って床へと落ちていった。
立ったまま、声をあげずに泣く理央に、ふと歩み寄ってしゃがみこみ、視線を合わせたのは千紘だった。金色の、物言わぬ瞳に見つめられ、理央ははっと涙に濡れた瞳を開いた。そっと、千紘の手が理央の髪に伸びる。しかし、理央はその手を突然払い除けた。そして唖然とする間もなく千紘を押し返し、目元をごしごしと服の袖で拭い、もう一度漣に向き直り叫んだ。
「…漣!あんたはヒナリを甘やかしすぎ!補うって、そんなこと言ってるからヒナリは弱いままなんだ!ヒナリをそうやって、いつも逃がそうとしてる!優しさと甘さを勘違いしてる!あんたはただ甘いだけだ!」
理央は私の目の前に足を進めると、じっと私を見上げる。赤い目元や浮かんでくる雫が、酷く胸を刺してくるようだった。
「漣だけじゃない…、彼方も千紘も、祐月も、それから、僕もだ…。僕たちは皆、ヒナリのためと言って、ヒナリに甘すぎたんだ。でもそれには原因がある。僕らは、ヒナリのおかげで救われたんだ。知らないことを教えてくれて、生きる場所を与えてくれて、愛してくれて。僕らはヒナリのそばにいることで、自由へのきっかけをもらったんだ」
彼らとの出会いを一つずつ思いかえす。…そう、なのかな。私は、私の思うがままにしていただけだ。けれど彼らの表情を見渡すと、理央の言うことは確からしい。皆、それぞれ重ならない視線のまま、思い当たる節を感じているようだった。
「だから、……ヒナリ。今度は僕が、…僕らが、ヒナリをほんとうに自由にしてあげたい。ヒナリの夢を、しあわせを、叶えたいんだ。それがそのまま、今の僕の夢」
まだ泣き止まないで目元を拭う私の手を、理央は同じ涙に濡れた手でそっと包み込んだ。そして、愛おしげにその手を撫でる。私よりも随分とか弱くちいさな手のひら。彼の"こころ"は、もしかしたらここにあるんじゃないか。そのくらい、その手つきは柔らかく、儚く、脆く。今にも消え入ってしまいそうだったから。
「でも、自由って言葉を、現実逃避の言い訳にしちゃだめだよ。真実から逃げてしまったら、絶対に自由にはなれないんだから。だからね、ヒナリ。いっぱい、考えよう。僕らはどうやって自分と向き合えばいいのか――僕らはどうやったらほんとうに自由になれるのか」
へたくそに笑うのと一緒に細められた水色の瞳から、またもう一粒、零れ落ちる。私はこれから、どうしたらいいんだろう。どうしたら私の望む、自由を手にすることが出来るんだろうか。何も見えない、何も分からない。だって私は、ずっとずっと、旅立ちのとき、ワカバに閉じこもっていたとき、彼方と出会ったとき、ううん、もっともっと前、きっとこの世界に生まれたときから――私は、私の思う自由に憧れて生きてきたのだ。それを失くしてしまったら、私はもう、遥か彼方の世界が見えない。薄暗く分厚い雲がいくつも現れて、視界を遮ってしまった。
「ヒナリ」
私の名を呼ぶ、声がした。そしてその声の持ち主が、腰に抱きついてくる感覚がした。どちらも、とおい。とおい、感覚。
「ごめんね。…でもね、だいすき」
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