雛がつばさを伸ばすとき
少し目を閉じて歩いててね。そうやって彼方が言うのを不審に思いつつも、素直に従った。彼方の手が引くほうへ、数えられるだけの歩数を進む。もういいよ、と言われ目を開くと、そこに広がっていたのは、大きなみずうみ。…数秒前までは、よくわからないけれど日本家屋のような、古風な室内にいたはずなのに。それが、どうして。
「彼方、今のは一体…?」
「あ、えっと…、うん!大丈夫!ここは42番道路!険しいスリバチ山の麓を切り開いた、山裾の道!だね!」
…あからさまな空元気と明るい声色。彼方は、嘘が下手だ。隠し事をしていることはすぐに分かった。けれど、彼が何だかんだ口が固いことも、私は知っている。多分、何を言っても教えてはくれないだろう。それだけの何かがあるというのなら、無理強いをするのも嫌だし。せめてもの反論として、じとっとした目で恨めしく下から見上げれば、ごめんと小声で謝られてしまった。何かを求めているわけでは、ないのに。
とにかく今私たちが42番道路にいることには変わりなく、そして到底エンジュには戻れそうもないことは確かな事実だった。きっとあの騒動の噂は広まってしまっているだろう。しかもエンジュは古く信仰深い街である。伝達も誇大化も早いに違いない。昔のことから、こういったことには察しが良いのだ。
とはいえ、人の噂も七十五日とはよく言ったもので、しばらく何も起こらなければ噂なんて簡単に薄れていくというのも、また昔のことから知っていた。いつか、またあの古き良き街に戻れる日も来るだろう。コンテストのことだったり、マツバさんとのジム戦だったり、何かと思い出の詰まった街だ。その"いつか"が来るまでに、たくさんの場所を巡って、巡って、その先に…私は、強く変われるんだろうか。
落ち込みかけた気持ちが、半分は無理やりに明るくなろうと、もう半分は諦めたようにどんどん暗くなろうと分裂していく。二つの矢印の摩擦がまた憂鬱に変わって、ふとした瞬間に目頭が熱くなっては振り払っていた。そんな私をどこか腫れ物に触るような扱いをする彼方たちに、少しばかりの不安と苛立ちさえ覚えた。
42番道路を越えれば、そこは次のジムのあるチョウジタウン。けれどこの42番道路を通るということは、つまりスリバチ山を通り抜けるということだ。スリバチ山は、とてつもない広さを誇る天然の大洞窟として知られていて、通るのにはそれなりの対策がいる。そして、私の考えた対策はというと。
「千紘、あの、やりすぎ…」
『…ん。分かってる』
「分かってないってば…」
洞窟内に多く生息するイシツブテに相性の良い、千紘に先陣を切ってもらうこと。でもその千紘の様子がどうもおかしいのだ。力を入れる場所がピンポイントで精密だからこそ、千紘の攻撃力は高いのに、今日はその精密さに欠けている。言ってみれば、力任せ、のような。そして、乱暴。普段は野生ポケモンを必要以上に傷つけないように軽く追い払う程度にしていて、今日もそういう風に指示しているのだけれど、どうやら聞こえていないようだ。瀕死にまで追い込んだ上、さらにリーフブレードを差し向けて脅すような真似をして、私が駆け寄って抱き上げないとそれを止めない。だめだよ、と何度も言っているのに、どこか上の空。
でも、それも仕方ないと思う。千紘は悪くない。だって私が原因なのだ。私がいくら気詰まりなことや憂鬱を抱えていたって、彼らはトレーナー――つまりは私の傍にいて、生きていて、共に旅をしている。私個人の気詰まりなんかで、関係ない彼らの気分を害したくない。それに、もう彼らに頼ることは情けなくて、恥ずかしい。そう感じて考えて、よし、これからは誰かに甘えることなく頼ることもなく、私は私の責任で生きていこう。そう決めたのに、結局私は自分の気持ちの晴れなさを知らず知らずのうちに表に出してしまっている。彼らに迷惑を掛けている。それを優しい彼らはきっと、敏感に感じ取ってしまっているのだ。だから皆どこか視線が逸れているし、千紘はこんなに乱暴な動作をしているのだろう。
ああ、彼方が必死に何か話そうとしている。漣もそれに一生懸命乗っかろうとしているけど、どっと盛り上がったのは一瞬だけで、その後は沈黙が帰ってくる。元々口数が多いほうではない祐月は曖昧に微笑んだままそんな様子を観察しているだけだし、かと言って口数が多いはずの理央は、…私たちの後ろに一歩分距離を置き、俯いたまま石ころを蹴飛ばして遊んでいた。
ほんとうは、私が何とかしなくちゃいけないことなのに。トレーナーである、私が。一生懸命話題の種を考えるけど、そうするとすぐにさっきの理央の言葉が蘇ってきて、全てを打ち消す。私は、ほんとうは何のために旅をして、何のために生きているの?私がほんとうにすべきことは何?先のことを思うと、もう他に何も考えられなくなってしまうのだ。
…スリバチ山の大滝の音は、内部に進むにつれて大きくなる。そうすればお互いの声も聞こえなくなるから、話すことを考えなくていい。そのことに少しの間だけ救われた。話さないことに安心するなんて、と、その後すぐに卑下に走ったけれど。
そうして歩き続けていると、ようやく眩しい外の光が暗闇の中に差し込んでくる。洞窟の出口はすぐのようだ。そうすれば、明るい外の世界。…なんて、からっぽな言葉の響き。彼方がやはり、嬉々とした風に声をあげた。
「ほら、もうすぐだよ!チョウジタウンって確か忍者の里なんだっけ?」
「へえー忍者!忍者、忍者、忍者かあ…、」
「あっ、名物はいかりまんじゅうだって!千紘良かったね、美味しいものがあるんだって!」
『……ん』
「…えっと千紘、こしあんとつぶあん、どっちがいい?」
『……ん』
「千紘くん、要らないんですか?おまんじゅう」
『……ん』
「千紘が、食べ物を断った…!?」
「天変地異の前触れか…明日は雪が降るぞ…」
漣と彼方の茶化しにも反応せず、祐月の落ち着いた問い掛けにも反応せず。葉っぱのかたちをした尻尾も地面と平行で、全く元気がない。どうしてしまったというのだろう。だって理央とのことだって、千紘はほぼ遠くから様子を眺めているばかりで、会話には関わっていない。理央に手を振り払われたのは、確かに直接的な不安に繋がるような気もするけれど、比較的気にしていない方だと思っていたんだけどな。千紘にもやはり、何か思うところがあるのだろうか。
先頭を歩いていた千紘が、とうとう洞窟の出口に到着したようだ。ひとの姿になり、外を向いたまま立ち止まっている。外の真っ白な光にその輪郭を縁取られる千紘。なんだか、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。
ふと、彼が振り返る。そして私は、怖くなった。彼の薄い唇が「"ヒナリ"」という言葉を紡いだのだ。それがあまりにも弱々しくて儚くて、まるで助けを請われているような気がして。今の私は、もう夢も希望も置いてきてしまった、ただの抜け殻に過ぎない。”ヒナリ”なんて、もうどこにもいない。なのに、どうしてそんな風に、私を通して"ヒナリ"を見るの?目頭まで上り詰めた熱を必死に収めて、私は彼の視線から逃げた。
そうして動揺している間に、私はすっかり取り残されてしまっていたらしい、彼方が少し先で私を待ってくれていた。ごめんね、と曖昧に笑って、一緒に洞窟の外へ一歩踏み出した時だった。急に彼方がふらりとよろめいて、私のほうへ倒れこんできた。
「……!彼方!?」
「うっ……へへ、ごめんねヒナリ、僕はだいじょうぶだよ。漣たちは、……漣!」
彼方の声で、私もようやくはっとした。漣が、洞窟の壁によろよろと背を預けると、座り込んで項垂れてしまったのだ。慌てて駆け寄ってしゃがみこみ、名前を呼び続けていると、なんとか荒い息ながら顔を上げてくれた。そしてにへらと笑って、力の無いピースサイン。すぐに立ち上がれるくらいの一瞬のものだったらしく、びっくりしたー、大丈夫だよ、とは言うけれど。…違う、そんな無理を見たいわけじゃない。
「でも一体何なんだろう、僕は一瞬変な感じがしただけだったのに…千紘は?」
「ん……へいき」
「僕も彼方くんと同じで、一瞬脳が何かに押し潰されそうになったというか…。理央くんはどうですか、……って、理央くん?」
理央の姿が、ない。どんなにあたりを見回してもいないのだ。まさか、この隙にいなくなっちゃったとか…?そんな最悪のことを思い浮かべてしまったけれど、それはすぐに打ち砕かれた。ちょんちょんと服の裾をつままれ振り返ると、そこには白い髪のつむじがある。
「理央、よかった、だいじょうぶ……、っ!」
「ごめんヒナリ、ちょっと、無理か、も……」
私を見上げるその表情が、やけに赤く、力無い。それでもへにゃりと笑っている理央は、明らかに不規則な呼吸をしていた。まさかと思って両手で頬を挟んだとき、ぼん、と一瞬にして理央の姿が消える。これにはもう見慣れていた。人の姿になることを解いた、いや、解かざるを得なかったのだ。本来のパチリスの姿に戻った理央は、私の腕の中で倒れこんでしまっていた。ぜえぜえとちいさな身体全体で息をして、手にも足にも力が入らないようだ。真っ白な尻尾をクッション代わりにして、理央は倒れてしまった。
「理央!!理央、やだ、理央…っ!」
慌てて揺さぶるけれど、意識が朦朧としているようだ。私の名前を必死に呼ぼうとしていたけど、その瞼が閉じてしまうと、荒い呼吸音しか聞こえなくなってしまった。理央、理央と何度も呼んでも返事がない。頭が真っ白になりそうだ。さっきまで理央が何も喋らなかったのは、きっとこのせいもあるのだろう。調子が悪いのを隠そうとしていたから…!理央の馬鹿、どうして隠したりするの!それにどうして私は気付いてあげられなかったの!私のせいだ!文句も謝罪も自己嫌悪も全部が私に押し寄せてきて、それが震えや寒気や涙に変わっていって、ああそうやってまた私は怯えて怖がるだけで何も動こうとしない!
「理央…っ、理央、どうしよう私ひとりじゃどうしたらいいのか分かんないよ、理央…!」
「ヒナリさん落ち着いてください、とにかく今はポケモンセンターへふたりを、」
「でも理央、やだ、もういやだどうしよう私のせいで…!私がもっとちゃんとしてたら、……っ!」
「ヒナリ!」
赤く、強い、双眸。
両肩に捕まれ、真正面から赤が私を、"ヒナリ"を、一直線に貫く。ひとたびそれに囚われれば、もう逸らすことはできない。それくらいに彼方は、何か恐ろしく優しい、強いものを内に飼っている。それは昔から壊れてボロボロになりかけた私を、いつも支えてくれていて、今もそう。涙を浮かべたまま固まってしまった私に、彼方はもう一度、私の名を呼んで、思い出させてくれた。強い、芯の通った声で。
「ヒナリ。…だいじょうぶ。理央は、だいじょうぶ。だから、今僕らができることをしよう。ヒナリ。信じて」
「…っ、かなた、かな、た…、ポケモンセンター、連れて、いかなきゃ…!」
「じゃあ僕と千紘くんで先に行ってジョーイさんを呼んでおきます!ヒナリさんは理央くんを、彼方くんは漣さんを支えて歩いてきてください!」
祐月の言葉に、彼方がこくりと頷く。そして一斉にしてそれぞれが動き出す。彼方が漣の首に腕を回して担ぎ上げ、祐月と千紘が目配せをして駆け出していく。私も服の袖で無茶苦茶に涙を拭い払うと、前を向く。今の私に出来ること、ようやくひとつ見つけたこと。行かなくちゃ、進まなくちゃ。
腕の中の理央をしかと抱きしめ、駆け出した私を、もうすっかりずっと先にいる千紘が、ぼんやりと振り返っていた。
← * →