両親にも担任にも顧問にも、やめる、と言った。皆腫れものに触るような、でもどこか安堵した風だった。そりゃあそうだろう。莫大な受験費も顧問のボランティアも要らなくなったのだから。次の日、我が家のご飯はちょっと豪華になった。普段よりすこしだけ高級な生姜焼きの肉は柔らかくて、そこで初めて泣きそうになった。
 あのときの女の子と男の子――ヒナリちゃんと彼方くんは、無事にうちの高校に合格し、ヒナリちゃんは美術部の後輩になった。彼女は私なんかを随分と気に入ってくれたらしくて、自己紹介する前からみょうじ先輩、お久しぶりです、と声を掛けてきてくれた。廊下ですれ違うときも、私は出来るだけ気付かないふりをして通り過ぎたいのだけれど、律儀に彼女が挨拶をしてくれるのをぎこちなく無愛想な笑顔で返していた。
 結局は、ただの気の迷いみたいなものだ。小学生の頃はじめて漫画を読んで、私も漫画家になる、って夢見て卒業文集に書いたのと同じだ。似たような挫折話、本でもネットでも探せばいくらでも出てくる。もっと頑張って、もっとドラマチックで劇的な挫折もいくらでもあるだろう。私はそんなものにもなれなかった。ただ、それだけの中途半端な挫折の話。何かを成し遂げることもなく、音もなく静かに終わった挫折の話。つまらない、盛り上がりもない、完結すらできていないような挫折の話。

「……ごめん、なさい」
 口をついたのは、謝罪だった。彼はそれに反応し、ふと顔を上げる。話が終わったことを察したようだった。それを、間近で見惚れる。普段なら怖くてたまらないのだけど、今は彼の瞳を見たい、と欲したのだ。あかいろ。不気味なあかいろ。私のくすんだ世界の中で、一番の彩度を誇るのは彼の瞳だと思う。手首から血を垂らしてそのまま詰めたようなあかいろ。もし彼の瞳に血が足りなくなったら、私の血液を差し出したい。吸血鬼みたいに吸ってくれたらいいのに、と思う。そうしたら私は幸せだ。私は死ねて、彼に色彩が宿る。いいなあ。彼の世界に飲み込まれて、こういうふうによく意識がなくなっていくのが、今はとても気持ちがいい。私が、私じゃなくなっていくみたい。本当に、そうなれたらいいのになあ。
「それで、僕に答えを求めたと」
「まあ、そうなのかも…しれない、です」
 正直よく分からない。何かを得られる確証もなかった。ただ、私は誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれない。真実を無意識化でちょっぴり美化した私の話を聞いて、憐れんでほしかったのかもしれない。そんな私の承認欲求によりにもよって彼を利用したのかと思うと、今すぐここから飛び降りたくなる。けどそれは流石に現実的ではないので、とりあえずは閑話休題、話題を戻すことにした。
「ゆづきくん、の、将来は、」
 隣同士に座った彼と私。私のたどたどしい問いに、彼はすぐには答えない。片膝をすこし曲げて、手を後ろについて、軽く背伸びをする。気高い猫のようなその仕草にはっと心を奪われている間に、彼の視線は私へと向けられていた。向きは横顔のままに、彼が私を見ている。鼻と唇に乗った光が、彼の顔を構成するものひとつひとつの尊さとその闇を強調している。ふと、一文字に微笑みを浮かべていた上唇と下唇が、余韻を含んで離れた。
「未来が、無くなればいいと」
「……え?」
「無くなればいいと思います。でも、叶いそうにないですね、夢」
 未来が、無くなる。その言葉は、フロートのアイスみたいに私の液状化した脳内に乗っかった。じわじわと沈んでいくけれど、すぐには溶けず、言葉の意味も理解できずただ音だけが反芻する。未来が無くなる。将来が無くなる。将来が……無くなる。
「……いい、なあ」
「……」
「私の未来も、将来も、無くなればいいよ……」
 殆ど無意識の露出だった。声になって聞こえて、数秒後に声になっていることに気がついた。あ……と戸惑う声を上げるのもなんだか嘘臭くて、ただ羞恥で顔を埋めてしまった。ゆっくりした動作で膝を抱え込み、顔を太ももに押し付ける。そうして落ち着こうとしたのだけれど、自分の体の温もりも嘘みたいだ。熱い感傷に浸りたいのに、なんだかどこか冷めているのだろうか。真っ暗な視界でそんなことを思う。嗚呼彼は、一体どんな顔をしているのだろう。きっと、私よりもずっと冷めた目で私を見ている。恥ずかしくて、でもそれをすごく遠くから冷眼視する自分もいて、まるで自分が分裂したようだった。
 ぼっ、という音がした。最近は聞き慣れてきた音だった。まもなくして、嗅覚を刺激する苦くて臭い、でも甘い煙草の香り。もぞりと顔を上げると、煙はすぐ隣からやってきていることが分かる。けれど彼の手に、それはない。煙のもとを辿ると、それは私と彼のちょうど間から吐き出されているようだった。隣同士、私のスカートと、彼のスラックスの、ちょうど真ん中。
 見上げた先の彼は、笑っていた。それはいつもの人を遠ざけるための笑顔によく似ている。けれど違う。私は今、彼の結界のなかにいる。結界の鍵となったのはきっと、この同調だ。四月の時は、それが何に対する同調なのかが分からなかった。けれど今、ようやく分かった。私と彼の共通点、無意識の一致。それは、たぶん、きっと。
 彼は視線を、だだっ広い屋上全体へと投げた。それから、空へ。私も彼を真似して、空を見上げる。五月の空は青く、雲ひとつない。それを邪魔するのは、私達の間から立ち昇る白い煙。真白い毒。細胞を壊す、美しい毒。ふたりでそれを体内に取り込んで、味わって。噎せそうになりながらも、私は必死にその空気を吸い込んだ。涙目になったのを見られて、彼に少し笑われた。
 ゆるやかな心中だと、思った。
ALICE+