文化祭。弱小美術部でも、一応美術部。文化祭では毎年絵の展示とちいさな絵画教室を開いていた。他人に自分の絵を評価されるわ、美術部に入ってないけど趣味で描いてる子の意外な才能を知って凍りつくわのなかなか胸を抉られるイベントである。ただ全く赤の他人からの率直な評価というのは普段なかなか得られないものだし、まあ、気合は入るイベントである。
その時の私が展示に出したのは幾つかあるけれど、自信作はやはりペン画で描いたものだった。空。白いカンバスに黒い線だけで描き表れた、さわやかな夏空。雲の形が、魚やら女の人やら風鈴やら、見方によって色々変わるような微妙な形をしている。一秒目を閉じた後にまた姿を変えるようなそれに、私は『可能性』という想いを込めた。線の可能性。私の、可能性。
色彩溢れる他の作品の中で、私の作品は逆になかなかの異彩を放っていたようだ。立ち止まって眺めては、コメントペーパーを書いていく人をちらほら見ては内心ガッツポーズをしていた。その、立ち止まる人達の中に、ひとり、いや、ふたり。他の人とは明らかに注目の度合いが違う、男の子と女の子がいた。特に、女の子のほうが興奮気味のようだ。男の子の腕を引っ張って、一生懸命私の絵を指差し嬉しそうに語っている。彼女が笑う度、亜麻色の長い髪がふわふわはしゃぐ様子が可愛くて、絵画教室の案内をしながらも横目に何度も彼女を眺めていた。男の子のほうも一緒になって嬉しそうで、でも彼のほうは嬉しそうな彼女を見て嬉しくなっているというところだろうか――恋人なのかは分からないけど、とにかく彼と彼女がいるだけで、美術室はどことなく空気が和らいでいた。
ちょうど来ていたお客さんを捌き終わり、コメントペーパーを回収する位置でありがとうございますを連呼する仕事に戻ったところで、例の二人と鉢合わせた。最初に気付いたのは男の子だった。私の胸元のネームプレートを見て、彼が彼女の耳元に何か囁いたのだ。驚いて、はっと目を丸くし口元を隠す彼女。男の子がほらほら、と背中を押しているけれど、彼女は恥ずかしがってしまったのか彼の背中に隠れて私を覗いている。……言いたいことは、なんとなくわかった。良い印象を持ってもらっていることも知っている。だから、コミュ障の私でもなんとか勇気を振り絞ることが出来た。ぎこちない笑顔で、彼と彼女に話し掛ける。
「……あの、見てくださって、ありがとうございました」
「ほら、ヒナリ! やっぱりそうだよ」
「……! で、でも、かなた……」
隠れようとする彼女と、その彼女を押し出そうとする彼。しばらくその押し合いをしていた二人だけど、最終的にはやっぱり彼に後ろから肩を持たれた彼女が、俯きがちに私の表情を伺っている。頬を赤らめ、潤んだ瞳で上目遣いに見つめられ、なんだか女のはずがどきどきしてしまう。やがて彼女は、ちいさな唇を微かに震わせた。
「……あの、みょうじ……せんぱい、ですか、」
「……は、はい」
「えっと、あの! 私すごくあの、好きで……! すごく、綺麗で、感動して……! その、みょうじ……先輩は、何年生、ですか……」
「あ、えと、今二年、です……」
「じゃあ私、ここの高校入れたら先輩の後輩になれるんですね……! 私、中三なんで、あの、受験がんばりますっ」
最初は真っ赤な顔をして、顔を逸らしながらぼそぼそと呟いていた彼女だが、だんだん己の感情を抑えきれないというように、顔をあげてきらきらした笑顔を私へと向けてくる。そのあまりの眩しさに目眩がする。なんだこの純朴な中学生。私が中三のときってもっと荒んでたはずなのに、どうしたらこんな無垢を失わずにいられるんだろう。どこか俗世から離れた場所で大事に大事に育てられた箱庭娘でもないと、殺伐としたこのご時世、これほど無邪気さは保てないような気がする。
突然邪気のない言葉で褒め称えられ、呼ばれ慣れない先輩呼びをされ、結果、眩暈がする。ぐるぐるする思考の中、ああ、ひとにこんなにも喜んでもらえる絵を描いたんだという実感が少しずつ滲み出てきて、顔がじんわり熱くなってくる。お互いに赤い顔をしてぎこちなく笑いあう光景は、なんだかコミュ障とコミュ障のオフ会って感じ。そんなもどかしい空気をこれまた無邪気に断ち切ってくれたのは、少し緑がかった髪の男の子だった。屈託ない、嘘のない笑顔を浮かべて彼女の背中を押した。
「ね、ヒナリ! 絵画教室、先輩に見てもらいなよ! 先輩先輩、ヒナリも絵描くの好きなんです、よかったら一緒にお絵描きしてくれませんか!」
「か、彼方……!」
「え、あ、……ど、どうぞ」
鼻の伸びるピノッキオ。鼻が伸びるとか、そんな非現実的なこと物語の中だからと思っていたが、どうやら現実にも有り得ることのようだ。鼻の下がむず痒くてたまらない。鏡がないから分からないだけで絶対これ鼻伸びてる。そんな私のくすぐったさは置いておいて、彼と彼女はこびり付いた絵の具で汚れた古いテーブルに向かい合って座った。紙や画材を一通り用意すると、何を書きますか、とにやけながら尋ねた。ふたりはしばらく顔を見合わせていたけれど、やがて男の子のほうが口を開いた。
「じゃあ僕、ヒナリを描くね!」
「え、私……? じゃあ私は彼方を描こうかな……」
屈託ない笑顔の男の子と少し恥ずかしそうに顔を赤らめる女の子。なんだ、私は邪魔者なんじゃないか……。そんな二人だけのはにかんだ空気に少し寂しくなって、私も彼女の隣に腰掛けて二人に混ざろうとする。
「ふたりは、どういう関係……なの、かな」
「え!どういう、っていうわけじゃ、ないんですけど、」
「えへへ、僕らおさななじみで、ずっと一緒なんです! ね、ヒナリ!」
「そ、そうだね……! そうなんです!」
「……へええ」
恐らく、小さい頃からこんな関係なんだろう。女の子が何か思っていても、内気さ故に上手く言動に表せないその一歩を、男の子が無邪気に引き出してくれる。男の子は、まだ昔から変わらない様子なんだろう。けれど、女の子のほうが少し「男の子」を意識し始めてるってところだろうか。これ、男の子も彼女が「女の子」であるってことを意識し始めた途端苗字とさん付けで呼び合っちゃうやつだ。ベタベタすぎる青春ドラマを想像しながら絵を覗き込む。
男の子のほうは、真正面からの彼女の笑顔を描こうとしているらしい。バランスは崩れまくっているし、お世辞にも上手とは言えないが、彼女が大好きなんだなあというのがよく伝わってくる。瞼がゆるく細まっていて、彼女の優しげな表情が強く彼にインプットされているのだろうと思った。そこまで思われてますよ〜なんて思いながら、彼女の絵を覗き込んだ瞬間であった。
「……」
「わ、あ、えっと……。せ、せんぱいに見られるのちょっと恥ずかしいです、あの、せんぱい……?」
別に、圧倒的な画力があるというわけではない。形の取り方も構図の発想も、光源の捉え方も、私のデッサンのほうが優れている。線だって私のほうが細かく書けるし、彼女よりずっと生きた線を書ける。私のほうが優れている。私のほうが優れている。なのに、何故だ。この圧倒的な敗北感は。彼女の描いた、耳に髪を引っ掛けて笑う男の子の姿。彼と彼女の、ありふれた日常の一ページなのだろう。けれどその日常は、私の世界とは違う日常だ。彼らが住んでいる世界はきっとこんな薄汚れた箱庭の学園なんかじゃない、もっと広くて自由で、縛られない世界なんだろう。まるで、物語の中を覗いているかのようだ。そっと、その絵に触れてみた。この感覚は画用紙じゃない。私は、尊い彼らの世界を映した鏡に触れている。光を反射して、きらきら瞬くひかりに触れている。
眩暈が、した。光に飲まれて、なんだか、消し飛ばされていくようだった。
「わあっ……! やっぱり僕、ヒナリの絵が好きだよ」
「……う、うん。ありがとう、彼方」
「色はつけないの? せっかくだし、絵の具とか色鉛筆とかいっぱい使わせてもらおうよ!」
「そうだね、彼方には、水彩が合うかなあ…、あ、これずっと使ってみたかったメーカーの……!」
ああ、だめだ。だめだ、だめだ。
私なんかが、ゲイジュツなんか、やったらだめだ。
「先輩、これ使ってもいいですか……?」
私に一体何があると言うのだ。こういう世界は、彼女が飛び立って向かうべき世界だ。どんな苦しみや悲しみが待ち受けていても、彼女はきっとそれを乗り越えるだろう。たとえお金がなくたって、彼女はその天性のひとを惹きつける才能で、皆に愛される才能でその綺麗な世界へ旅立つのだろう。美大なんて、私が行くべき場所じゃない。彼女みたいな才能にも努力にも溢れたような人が、もっとその道を深めるために行くべき場所だ。私なんか、そのどちらも持ってない。今まで努力してきたつもりだった。自分は努力が出来る人間だと思ってきた。けれどそんなのまやかしだった。私に、特別なものなんてひとつもない。日本中の高校三年生の美術部員を集めて、そのなかの、ワン・オブ・ゼムに過ぎない。それで美大に行って、やっていく覚悟があるのか。ない。全然、ない。
私は、彼と彼女を心からの笑顔でもてなした。ようこそいらっしゃいませ、尊いお御方。私はあなたたちに尽くさねばならない。私に人権はない。私は、あなたたちがたまたま近所の文化祭で出会った少し絵の上手い女子高生B。あなたたちに出会ったこの瞬間だけが、私の出番。それももう終わったのだから、私はもう舞台に登る機会もないだろう。
だめだ。私はだめだ。ゲイジュツなんて、だめだ。絵なんて、美術なんて、舞台に乗るだなんて、だめだ。だめだ。
いち、ぬけた。