「みょうじ」
「はい」
「偏差値。おまえらしくないぞ」
「はい」
「校内試験でこれは、まずいぞ。夏休みの頑張り次第で結果が変わるからな、頑張れよ」
「はい」
ばーか、おまえなんかになにがわかる。私はおまえが期待するような模範生じゃない。法に触れることだって、やりかけてるんだからな。それも学校内でだぜ、気づかないでいやがって。ばかやろうハゲ教師(笑)半分折り、半分折り、半分折り、半分折り、また半分折りくらいにした点表を、スカートのポケットに突っ込んだ。
席に戻ると、相変わらず窓の外をぼんやりと眺める彼。さっきまで降っていた雨も止んだらしい、遠くの空には薄っすらと虹が掛かっていた。彼の赤い瞳にはちょうどその七色が微かに反射している。綺麗だ。心が無くなる。倒れこむように机にうつ伏していると、いつの間にかチャイムが鳴って、立礼をして。そうしてあんまりにもあっけなく、受験勉強の天王山こと夏休みが始まる。
「……うわ」
至る所に水たまりが点在している。水面はギラギラやかましい夏の太陽を反射している。セミもピーピーギャーギャーうるさいし、夏はインドア派に向いてない。だからといって冬が向いてるかというとそうでもないけれど。屋上は諦めようかな、どうせ彼はいないだろうし……。重たい鞄を背負い直し、ハァァと深すぎる溜息をつきながらも元気を出そうと勢いよく踵を返した瞬間だった。飛び込む両の赤。回れ右の勢いが、よほど凄かったらしい。後ろに仰け反って私はいつぞやのようにずっこけてしまった。
「……あの、みょうじさん」
「……」
もはや羞恥とか痛覚とか、そういうのがどこか夏空に勢いよく吹っ飛んでしまった。ただ目をパチクリさせながら、やはり目をパチクリさせる彼の言葉を待つしかない。そういえば、彼はあれだけ長い髪の持ち主だというのに、見ていて全く重苦しさがない。むしろ淡い向日葵色の爽やかに靡く姿は、涼やかで見ていて心地良い。むしろ、私の癖っ毛な黒髪のほうが短いのに暑苦しいという倒錯。まあもう、彼なら仕方ないのだろう。
「そこの屋根の下だったら濡れてませんよ。日陰だし」
他の野郎だったら絶対にむさ苦しいなさっさと床屋行けとか思うのに。まあもう夏休み始まるし、関係ないことだけどさ。
「……みょうじさん、打ち所悪かったですか?」
英語の時席近くなるあいつ、……名前忘れた。あいつはさっさとあの鬱陶しい髪切って欲しい。彼の真似でもしてるのか? 無駄無駄。元がね、資質がね、違うんだよ。
「みょうじさん、……熱中症?」
ほら、視線を戻せばさらに納得。彼とあいつじゃ、住んでる世界が違うんだよ。まさに月とスッポンってやつだよ、
「……なまえさん」
「ギャエッ……!?」
突然屈み込んだかと思えば、目の前で彼に名前を呼ばれてみろ、そりゃあこんな声も出るだろう。どことなく訝しむように眉を顰めた彼の表情。しゃがみこんで頬杖をつくという少し荒っぽい動作を、こんなに高貴な彼がしているのかと思うとすごく心臓が高鳴ってしまう。せっかくの綺麗な髪が床についてしまいそうで怖い。ハワワと気持ちはあたふたするけれど、なぜかいつものように動作に現れない。瞬きしながら、珍しく"怪しむ"という感情の現れる表情に生唾を飲み込んでいた。瞼に半分隠された鈍い赤がじーっと私を覗き込んでいる。普段なら黙ってしまうところだ。けれど今日の私は妙に元気なようだ。吸い込んだ息が容易く大声になって、口を開きかけた彼の言葉を遮る。
「みょうじさ、」
「あの! 大丈夫ですよ! てゆーかまだ学校残るんですか! 私もなんですけどっ、なんか部の会議があるらしくって!」
「……はい」
「もう三年だしそんなに関係ないってのにね! えへへ! それで、それまで勉強してなきゃなって! いやいや、大変ですなあ、あっはっは」
「……はい」
「で、ごめんなさい、あの、ちょっと一時的に耳が飛んじゃってたらしくって! わ、私に、何のご用でしょうか!」
「……そこの。屋根の下なら、濡れてませんよ」
「あああ本当だ! じゃっ、じゃあ! そこでご飯食べよっかなー! あはは! お母さんも一学期最後のお弁当だからってちょっと張り切っちゃって豪華らしくって、えへへ! ごはん、やっぱり今日も食べないんですか、ゆぢゅきく、」
マシンガンみたいに言葉の弾丸を撃ちまくるけれど、最後だけは不発弾だったようだ。噛んだ恥ずかしさもあるけれど、ただ、彼の顔を見てしまったのだった。作り物みたいに整えられ、表情を隠すいつもの尊い微笑み。だけど最近のそれは、妙に豊かだ。いや、私が様々な彼の表情の機微を見分けられるようになったからかもしれないけれど。訝しむようだった表情は私が語り続けるうちに変わっていて、どこか悲しそうだった。感情を一番よく語るという無駄のひとつもない眉は限りなく水平に近いから、むしろ初見では無感情な微笑みに見えるかもしれない。けれど眦が、少し緩んでいる。普段は涼しげで切れ長の彼の眦が。氷がゆるやかな熱で溶かされるようだと感じた。それだけ、冷ややかな彼の目元を熱くさせるものは、一体何なのだろう。
私が鼓動を止めている間に、彼は色のない唇をそっと開いた。そしてその時には、水平だった眉も少し下がって、眦と同じように悲しみを語っているのだった。
「みょうじさん、立てますか」
「……むりかも、です」
「手を貸しましょうか」
「それも、むりです……」
「じゃあ、無理はせずに、立ってください。……待っています、向こうで」
伸ばしかけた手をあっけなく引っ込め、彼は微笑み一つ置いて歩き去っていく。長い脚の、髪の、ひとつひとつの美が粉のように散っている。それがあの開きにくい扉の奥に消えた途端消えてしまって、世界の色がグレーになって。なんとなく、背中ごと後ろに倒れこんでみた。汚れきった天井をなんとなく見たくなくて、そのまま目を瞑る。
彼は、悲しそうだったけれど。今の私は、何なのだろう。すごく楽しい気分な気がする。これ以上なくハイになっている気がする、そうに違いない、だってハイでもなければ彼にあんなドン引きされるようなマシンガントークが出来るわけない。そのはずなのに、どうして、そうじゃないよと訴えかける心の声がするのだろう。私楽しいよ。呆れられるくらいに楽しくて、彼の世界に飲まれれば全てを失って。心の底から楽しいって思える。なのになんで、そんな阿呆な私を見て、彼は悲しそうな顔をしたのだろう。まあでも、彼の思考回路が常人と違っていても何の不思議もないから、私が考えたって無駄なのかもしれない。
ごろんと横向きになってみる。相変わらず階段の角には掃ききれずに残った埃。ひと夏かけて、この埃はさらに分厚くなるのだろう。息で吹き飛ばそうとしたけれど、逆に吸ってしまったらしくってけほけほ噎せた。そんな瑣末な行為を繰り返していたら眠くなりそうだったけれど、無意識の海に沈みかけた途中でふと、さっきの彼の声が浮かんできた。
――……待っています、向こうで。
行かなきゃ。