母の言う「豪華」とは、いつもひとつの唐揚げが二つ入ってるってことなんだろうか。例の、衣も何もない冷凍食品特有のジメッとした食感を持つ鶏肉の唐揚げである。豪華っていうか、これはもう明日からお弁当作らなくていいのに一個余っちゃったから二つにしちゃえ! っていう、いわゆる在庫整理ではないだろうか。なんというか、期待した私が悪かった。
彼の隣に一人分空けて座ると、相変わらず無言のお昼が始まる。これも一ヶ月と一、二週間くらいは無くなってしまうのかと思うと、ちょっと名残惜しい気持ちもある。最初は緊張と忘我の境地に入ってしまうし、嫌だったのだけれど、いつのまにかそういう感覚も心地よさに変わっていたから、慣れとは恐ろしい。というか、この時間は二学期も続くのだろうか。続くという確証はどこにもない、そう考えるともしかして、これが最後……? はっと顔を右に向けた。彼の横顔。骨の髄から、骨の髄まで、惚れている。鼻の付け根で一旦角度がつく骨は、線の細く中性的な彼がれっきとした男であることを主張している。そこに軽く前髪が被さっているときも、真っ直ぐで癖のないそれはその鼻のかたちを表すように沿っている。額から鼻、唇、顎、そして喉へ。作り上げられる一線の美。真夏の日差しはそれを縁取るかのように輝かせ、まるで彼を愛でるかのようだった。これが、この絶景が、最後。そうは思うものの、どうにも現実味を帯びてこない。そもそも、一学期の間彼の隣にいたということも、彼の存在自体も夢幻のようなのだ。一生懸命力を入れようにも、どうにも空回って力が入らないような感覚。諦めて目を閉じて後ろに凭れかかると、遠くに設置されたモーターの振動が微かに伝わってきて、ぬるい。それを合図に、私の感覚は視覚から聴覚へと変化していく。
 ――どこかからかすかに、ピアノの音がする。確か近くに音楽室があったから、合唱部か吹奏楽部の子がお遊びで弾いているのだろう。ピアノは、好きだ。ペン画によく似ている。白と黒の世界なのもそうだけど、オーケストラのように様々な色彩の楽器は使わず、ただピアノの音色ひとつで勝負を仕掛ける。その潔さと、紡ぎ出される色の多彩さ。耳を傾けていると、どこかで聞いたことのあるメロディだった。長調の、三拍子。ぽろろろろん、って、これ何奏法って言うんだっけ。転がっていく粒のような伴奏が、焦らすように揺れて歌う低いメロディを静かに支えている。決して主張するわけではなく、けれど確かにそこにいて包み込んでくれる伴奏のやさしさ。主旋律もそんな伴奏のことをよく知っているから、淑やかに舞うことができるのだろう。心の中で、私もうろおぼえのメロディを口ずさむけれど、あの伴奏は右手のための伴奏、私を支えてくれるわけがない。私の心のうたとはずれずれで、なんだか無情だと思った。
「歌の翼に、」
 彼が、隣で呟いたようだった。歌の翼に、そんな名前だったっけ。おっとりと瞳を開いたはいいけれど、あまりぴんと来ずに頭を捻っていると、彼はあの微笑む時特有の微かな吐息を漏らした。
「歌の翼に。メンデルスゾーンの」
「……ほえぇ」
「真夏盛りに聞くのは、なんだか味わい深いですね」
 何がどう味わい深いのか全く分からないけれど、彼が微笑んでいたからよしとしよう。
 真夏盛りか。確かに、いくら日陰とはいえ暑いものは暑い。目の前に広がるコンクリートを見ると、水たまりを吸い込んだ地面が蒸気をあげている。蝉は煩い、太陽も煩い、校庭から聞こえてくる運動部の声も煩い。そういうのを取り上げていると、なんとなく夏って地べたにべったりなイメージになるものだ。暑さでアイスみたいに溶け切って、汗にまみれて。実際、一年前の私はそうだった。クーラーの故障した美術室で、熱中症になりかけながら文化祭のための絵を描いていた。ちょうど、彼女が気に入ってくれたあの絵だ。今頃はその彼女があの蒸し暑すぎる部屋に篭っているのかと思うと、なんで自分がここにいるのか分からなくなる。というか、あんな暑い部屋で可哀想……と思ったけど、そういえばあれからエアコン修理したんだっけ。私の代は一体何だったんだ。
 そして一年後の、今の私。あの頃の私が今の私を見たら、どう思うだろうか。まず、彼が隣にいるという事実に死ぬだろう。けれど、きっと美術の夢を諦めたという事実に失望されて呆れられるだろう。それに加え、勉強の成績が間に合ってないとあれば。……。
 あーだめだめ! だめだ! 食べ終わったお弁当を片付けると、乱暴な動作で単語帳を開いた。ちょうど、アブソルのいるページだ。アブソル、あぶそりゅーと、意味は、絶対! 絶対絶対、絶対なんだ!力強く目を瞑ってばちばち瞬きするとコンタクトがずれそうになって、蹲る。首元に癖っ毛ポニーテールのチリチリした毛先が当たって鬱陶しい。春休みにかけたストレートパーマはもうすっかり取れてしまい、元々のくるくるしてぱさついた天然パーマが戻ってきてしまったのだ。ああもういやだ! って出来事が重なりすぎて、もう逆に笑えてくる。一見物静かでガリ勉なこと以外取り柄がない風に思われる私だけど、こんな意味のわからないこと考えて一人で笑ってるのだ。私ってだいぶ面白い奴だと思う。あはは! あは、あはは、
「みょうじさん」
 止まる。
 嗚呼、止めてくれた。私のヤケになったみたいな、止まらない思考の暴走を。煩かった心のわめき声が止んで、歌の翼が、やさしい音楽が包んでくる。伴奏も旋律も一緒になって、熱くなった私を宥めるかのように抱き締めてくる。その時点でもう堪えきれそうになかったのに、彼はひどい。ゆっくりと顔を上げると、凛と涼しげな赤の瞳が、たおやかに緩んでいる。そして、なんてことなさそうに、いつもの不干渉主義な口調で呟いた。
「今日は、湿度が高いですね」
「……そう、ですね」
「あなたの髪の癖が、今日は随分と強いから」
「……」
 そっと彼の手が、私のポニーテールの尻尾に触れる。ちりちりで、もじゃもじゃで、ぐちゃぐちゃでまとまらない強情な私の髪。ふと持ち上げられたそれはすぐに彼の手のひらの上を滑り、重力に従ってまた私の首元へと落ちてくる。
「あなたらしいですね、この癖っ毛」
 ――おまえらしくないぞ。
 ――あなたらしいですね。
 なに、それ。
「え……え、なん、ですか」
「……」
 ――おまえらしくないぞ。
 ――あなたらしいですね。
「だっ……て、えへへ、そんなぁ、私……こんなの」
――おまえらしくないぞ。
「わたしらしくなんか……」

――あなたらしいですね。

 そうだよ。
 ありがとう。
 ありがとう、私を見つけてくれて。
 ぐちゃぐちゃな、どっちつかずで中途半端な私を、見つけてくれて。

 ずっと溜まっていたものが、さらさら流れ出す。音もなく涙が頬を伝いはじめた。汚い涙だった。心で生成された感情の老廃物が、高濃度で流れてくる。口を半開きにしたまま、私は声も上げず、ただ彼を見つめたまま泣いていた。彼は、一瞬驚いたかのように瞳を丸くしたけれど、すぐ膝を抱えなおし、そっと瞳と口許を緩めた。それは、さっきの悲しみから解き放たれたような、安堵の表情だと思った。
「……ぁ、ごめ、ん、なさい……」
「……いいですよ」
「うぇ、ごめん、わたし、なんでないてるの、……えへへ、へんなのぉ、」
「あなたが、泣きたいからでしょう」
「えええ、泣きたくなるような、ことなんて、……へへ、なんにもないし、わたしなんかぁ……」
 ひどい。なんて、ひどいひとだろう。なんて意地悪なんだ。その優しさで、声で、存在で、私をぼろぼろ崩壊させようとしているんだ。私の情けないところを、かっこわるいところを曝け出させて、取って付けたみたいな甘い台詞を唱えて。ひどいです、ゆづきくん。あなたは、ひどいひとです。
「……うぇ、ええ、ひどい……、わたしなんか、どこにも、わたしなんかぁ……!」
 半ば狂乱状態だった。その目で心を覗き込まれるのが怖くて、乱暴な手つきでこちらを向こうとする彼の肩を押した。抵抗することなくまた前を向いた彼は、また私の心を察したみたいに、わざと私を見ないでいてくれた。その優しさが、また憎くて、ひどくって、涙が出る。
 だって、いきなり、そんなの、ひどいじゃないか。あなたらしいって、私らしいって、自分じゃ絶対わからない。だから周りに耳を澄ませてみれば、どうやら勉強が出来る模範生って像が「私らしさ」らしかった。昔はそれでよかったけど、だんだん反抗心も湧いてきて、そんな大人の作る像に反発したくって、いつのまにかこんなに心の中で不貞腐れたことを考えるようになってた。けれど言動には起こせない、結局意気地なしな自分がいやだった。だからきっと彼にも惹かれたの、彼の尊い悪と破滅の美しさに惹かれて、同調したの! それで、やっと夢が叶ったはずなのに。勉強も出来ないし彼と悪にも準じてしまうような、わるい私になったのに。いざレールを踏み外そうとすれば、怖くて怖気づいてしまう私。それが、私だった。それが結局、私らしさなの。美大に行こうとしたときだってそうだ。結局大した努力も出来ないまま中途半端に夢を諦めて、中途半端に夢を諦めきれず、中途半端な優等生のままで。中途半端なのが私の個性だ。白にも黒にもなれず、溢れ出してくるグレイ色が私の色だ。学校から、親から、白い絵の具を注がれても純白にはなれず、彼から肺を染める黒色を注がれても黒にはなれない。
 彼は、その私を見抜いたっていうの。ううん、みんな気付いてたとしても、誰も言ってくれやしないことを、すごく些細なたとえで指摘したっていうの?中途半端で、生半可な私の心を象徴するみたいな私の髪。痛んで少し色素が抜けてる上にくるくると扱いにくい私の髪は、どっちつかずで中途半端な私にぴったりお似合いだ。ずっと笑い飛ばして真面目に考えたことなかったけど、思い返してみると、これは私のコンプレックスの塊。それを彼は、あなたらしいんだ、私らしいんだって。私のぐちゃぐちゃしたところを見て、私らしいって。なによ、それ。ちがうよ。私は、せんせいのいうような、まっしろな良い子だよ。こんな中途半端が私だなんて、いやだよ。
 こころの傷跡、大人の無神経に抉られたばかりの傷跡。いっそ、ぐちゃぐちゃに中身を抉られた方が良かった。膿を掻き出して、かさぶたもべりべり剥がして、全部なくなったところにあなたの毒を注がれたかった。このからだいっぱいに破滅の黒い毒を注いで、真っ黒になって壊死したかった。なのに、あなたは、そのぐちゃぐちゃな傷口を、否定も肯定もせずに、ただその存在を認めた。傷口を見つけて、微笑んでいた。見殺しにしたの。あなたは、私を、見殺しにしたの。何も押し付けることなく見殺しにしてくれたの…!
 熱いものがせり上がってくる。うまく、感情に名前がつけられない。たぶん、ほんとうのわたしらしさが見つかった喜びとか感謝とか、見つかってしまった絶望と羞恥とか、見つけられた正体への失望とか、そんなようなものなのだろう。でも、ひとつには絞れないから困ってしまう。嬉しいのか、悲しいのか、全てがとぐろを巻いている。やまない。全ての感情が殴り合って、互いにその領域を広げようと戦争していて、結局そのマスターであるこのからだは苦しく疲弊するばかり。感情は、ただただ暴走し続ける。終われと祈っても、誰も彼も聞く耳を持たない。
 もう、右も左もわからない。ここはどこですか。私は誰なんですか。私を定義付けるものはどうしてこんなに淀んでいるんですか。消えてしまいたい。未来なんて、将来なんて、なくなってしまえばいい。こんな中途半端な私が生きていたところで、代理になるひとはたくさんいるでしょう。おかあさんだっておとうさんだってともだちだってみんな私の代わりを見つけるでしょう。生きてるひとは、強いんだ。みんな、どんな苦境からでも立ち上がる力を持ったひとたちなんだ。私もね、そこにいると思っていた。だって私は普通だから、凡人だから、普通のひとと同じくらいの強さは持っているはずだから。でも私はどうやらそこだけは非凡らしくって、ひとよりも弱かったのだ。生きてることに耐えられないのだ。この、自己の存在意義に対する、やるせない不安と恐怖。それだけはひとが耐えられる量よりも、私の器は小さい。ひとからしたら、それだけ?と言われるようなことが、私には耐えられない。みんな中途半端なのが当たり前で、それを受け止めてみんな生きてたとしても、私には耐えられないのだ。ああ、しにたい。未来を消したい。私の夢も将来も全部ぶっ壊して、もう何も見たくない、何も考えたくないの!誰か止めて。こんな私を、倍音みたいに増幅して共鳴する感情の息の根を止めてよ。殺してよ。苦しいよ。もうはやくしにたいよ。こんなに考えて考えて苦しくなるくらいなら、しんでしまったほうがずっといい。なのに死ぬ勇気はいつまでも持ち得なくて、ここから動けなくて蹲って泣き喚くだけ。行き場のない感情と衝動がここで身悶えするだけ。助けてよ、でも助けないでよ。放っておいてよ、放っておかないでよ。もう、自分がどうしたいのか、何を求めているのかすら分からないんだ。
 混沌。渦。カオス。今の私を一言で表すならそれに尽きる。ほとほと疲れ果てても、止まらない思考のループ。だんだん形骸化してきて、しにたい、しにたい、しにたい、しにたい。純度の高い希死願望だけが浮かび上がってくる。ああ、しにたい。こんな世の中に耐えられない、じゃあ、ない。世の中は、相も変わらず、うつくしい。だけど、私はこんな混濁した私自身に耐えられない。生まれ変わったら、もう人間になんてなりたくない。ちっぽけでささやかで、身の丈にあった生物になりたい。本能だけで出来た、文化を持たない生物になろう。そうしたらこんなに考えなくて済むんだ。ああ、はやく、しにたい、しにたいなあ。ああ、そうだ。
「ゆづきくん、……ゆづきくん。いっしょに、しのう」
 漏れ出した言葉は、あまりにも浅い上澄みを掬っただけの思考だった。そこしか、掬えなかった。彼の表情は、見なかった。ただ膝に顔を埋めて、涙でびちゃびちゃなスカート越しに、くぐもった声でそう言った。
 ――いっしょにしのうよ、いっしょに、何もない未来に行こう……
 ――たばこなんて、ゆるやかすぎて待ってられないよ……はやく、しのう。とびおりてもいいよ、夏だし、海に入ってもいいよ。足首に、赤い糸を結びましょ。そしたら、ほんとに心中だぁ、あはは
 ――あ、でも、来世で結ばれたいとか、そういうのじゃないので……。来世は、放っておいてほしい、です。わたし、来世は、ちっちゃい、虫になります。何も考えずに、本能だけで、生きて死ぬの。すごく綺麗な、一生だよねえ……
「だから、おねがいです……後生です。しのう。いっしょにしにましょう、……しにましょう、ゆづきくん……っ」
 明。
 視界が、光で奪われる。真白い真夏の光。
 それから、また、光。これは、彼の光。その光は、額がぶつかる感覚と同じ瞬間、やってきた。
 目を刺す光。肩を掴む力。背中をフェンスに打ち付ける衝撃。顎を掴まれ、上を向かされる。額と額を合わせられ、目と目を合わせられる。そこは、恐ろしいほどの美を秘めた赤の世界。
 睫毛が、長い彼の睫毛が、ぬらりと艶かしく持ち上がった。赤い、血の色をした光がきらきらと零れ落ちていく。勿体無いくらいの輝きを零す、その奥に、私は彼の穢れた沼底を見た。滞り濁った、彼の血を見た。
 呼吸が止まる。死んでる。今、私は、殺されてる。でもこれじゃあ、心中じゃない。
 あなたが、しねない。
 そのことを、彼は、まるで嘲笑うかのようだった。赤く膿の溜まったような瞳の奥の堆積物が、不意にどろんと瓶の中で垂れた。私はそれを、ああ、笑った、と思った。
「みょうじさん」
 私の肩を掴んでいた手が離れ、かわりに、頬にあの手が添わされる。私の頬のかたちに沿って、頬の憎たらしい肉を圧し潰すことなく。だけど、不意にぎゅと、目尻のあたりを親指で撫でられた。網膜の上に溜まっていた涙が雫になって滑り落ち、彼の指の隙間に落ちて蕩けた。唇が、ほんの僅かだけ開く。
「……僕の顔が、好き?」
 影が近すぎて、ぼやける。濃赤の中に入り込むその細やかな睫毛の影が、鼻筋にかかった前髪の影が、顎の影が、全てが、こんなに近くにいるのにぼやけてしまう。代わりに伝わるのは印象。かなしさという印象。哀しさ。愛しさ。
 ――すき。
 心の声、ちゃんと伝わるのね。
「じゃあ、僕を見ていて」
 その瞬間、赤色が水飴みたいに溶けていく。比喩ではなく、本当に、赤が溶けてる。私の目が可笑しくなったんだろうか。ぐるぐる溶けていく、渦に紛れて、私の自我も溶けていく。きっとこれ、魔法や催眠術の類だ。意識が、無意識へ。夢がとろけて、無の世界へ、この瞳は私を引きこもうとしている。……それで、いいの? わたし、いなくなって、いいの?
 額の角度がすこしだけずれて、鼻先と鼻先が触れ合った。くちづけは、もうすぐだった。睫毛が伏せられ、美という凶器が私に迫る。意識はない。夢うつつの境目のようなあの気分で、私は彼に全てを委ねた。委ねようとしていた。
なのに。彼の薄すぎる唇の肉の感覚が、そっと、私の上唇の皺を掠めた瞬間だった。
「だめ……っ!」
 歌の翼が、ぶちりと途切れた。
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