やって、しまった。やってしまった。いや、やれなかったから、やってしまった。
ここでも結局、私には勇気が足りなかった。
「やだ……っ、う、うう、……!」
彼の手も、顔も、離れていく。私を守る距離から、離れていく。彼の表情は見れなかった。見れないまま、勢いで、目の前の彼に泣きついた。頭を彼のネクタイの結び目に押し付けて、腰のあたりで溜まったシャツの皺を掴んで、涙を無理やり擦りつけた。
「ごめんなざ、い……!ごめんなさい、わたしっ、う、わあぁ、ああああっ」
こんなに、声を上げて泣き叫んだのはいつ以来だろう。もう枯れたと思っていた涙も、声も、とめどなく溢れてくる。それ以上に、こころが泣いていた。ちっぽけで、臆病で、それでいて鈍感なこころが泣いていた。慟哭していた。
あの目を見続けたら、どうなるのか。きっと、彼は私を殺してくれる。その造形と所作、そして彼の纏う破滅の美。その象徴たるあの瞳の奥底の全貌を、彼はあの瞬間私に見せようとしていた。そして、あのとき彼をつき飛ばさなければ。圧倒的美に私は飲まれて、何もかもの思考を止め、意識と無意識を反転させられ。自分を失うことができた。死ぬことができた。あの葛藤の渦の中から救われただろう。それは、本能が教えてくれたことだった。そしてその本能が、拒絶をした。防衛本能が働いたのだ。芸術を諦めたときと同じだった。レールをはみ出してはならないという教訓は、私の本能まで侵食していたのだ。
死にたくなかった。あれだけ彼に心中を迫っておきながら。わたし、しにたいのに。彼はそれを知って殺そうとしてくれたのに。私に、死を、与えようとしてくれたのに。私じゃあなたを殺せないことを分かった上で、彼はその甘い優しさで、私だけでも殺そうとしてくれたのに!結局私は最終局面において恒常性が勝ってしまうというのか、刺激的で甘美な夢を見ておきながら、普通という退屈な安寧を求めてしまうのか。しにたいのに。上辺だけではない、心の底からしにたいのに。
嗚呼どうして、私は逃げてしまったの。絶対の存在といえる彼を裏切ってまで、私は生きたかったの。そんなの認めたくない。私じゃない。これじゃあ、ほんとに、中途半端で生半可で没個性な優等生がほんとの私になっちゃうよ。やだよ。やだよ!私は彼に、彼の美しさに、破滅に染まりたいのに!
自己への失望が、やまない。それを彼は何も手を出さず、ただ黙って、視線だけで私を見下していた。その視線の温度があたたかいのか冷たいのかも、わからなかった。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさい……っ! なんで、なんでよ、わたしのばかっ、しんじゃえっ、ばかあぁ」
「……」
「やだあぁ、わたし、ほんとにしにたいんだもん! 未来なんか、将来なんかぁ、なのに、なんでしねないの! ばか、ばか、ばかぁ…!」
もう一度、殺してもらおうか。今度は自分から、彼の唇に触れてみようか。けれど、その瞬間気づいてしまった。彼がとどめに使おうとした、さいごの凶器は、くちづけ。愛の行為。男と女の、愛の行為。あのとき、彼は私を女の子として見ていたの?女の子を慰めるために、自らの美貌と形だけの愛の行為を利用したっていうの?それで、殺そうだなんて。
びちゃびちゃに霞んだ視界の中に、彼の表情がゆらゆら浮かんでいる。この髪、この肌、この身体、この瞳を持つ人に、私はおんなのことして見られたの。おんなのこ。私は、おんなのこ。彼にとっての、女の子。事実ともとれないような言葉が脳内に反芻する。反芻して、脳味噌に染み込んできて、また壊れそうになる。おんなのこ。彼には、そんな風に見られたくなかった。彼は私の神様。尊いひと。とくべつ。私を見つけてくれたひと。私を殺してくれるひと。そんなひとに、私は女の子として、一括りにされたくなかった。女の子は、きっとさいごにこうすれば喜ぶとでも思ったんだろうか。私にとって彼は性別を超えた特別なのに、彼からしたらただの女の子なのだろうか。私という個の意義よりも、彼の中の私はただの女の子なのだろうか。もしそうだとしたら、なんて、やるせない。悲しみと怒りと、全部が形をなくして溶け合って、ただ鈍痛として心臓にのし掛かる。
そんな、痛みの内側に。まるで腫れていくときの熱みたいだ。同じ位置が、じぃんと胸を熱くしている。心臓を高鳴らせている。それに名前を付けるなら「喜び」だということを、認めたくなかった。彼に、女の子扱いをされた、優しくされた、恋人みたいなことをされた――彼の中の認識に、私が女の子であるという要素が存在していたこと。それが、妙に浮かれた熱をもって、私をときめかせている。まだ、はっきりと見たことはないけれど、汚らわしい女の本性が私の中にも存在するのだ。その片鱗を垣間見てしまったようで、ぞっと寒気が走った。今だって気がつけば、こうして彼にあざとく抱きついて、状況を利用して私は彼に甘えて、おんなのこになろうとしている。抱きついたのは、ほとんど無意識。無意識で、彼の腕を、彼の体を求めてた。こんなに神聖な彼に、私の本性は一体何を感じているのだろう。怖くて、つついちゃいけないような気がして、耳も目も全部塞ぐ。
ああ、おそろしい、おぞましい。私が一番殺したいのは、私なのに、生の本能が邪魔をする。生に、足を引っ張られる。こんなにも強い生への欲求。生きたいという、本能。自我を失いたくないという本能。死にたいという私の意識に対抗するように作られた無意識。そして性までもが目覚めようとしている私の内部を、私ははやく殺したい。消してしまいたい、無くしてしまいたい。しにたい。しにたいのに!
「ゆづきくん、ごめんねっ、ごめんなさい……っ、ごめんなさいぃ、わたしっ、あぁぁっ……!」
彼の返事は、ない。当たり前だろう。こちらから彼を拒絶したのだから。それなのに、また彼に縋ってる。汚い女。どうしようもなくど変態、なのに、潔癖症。水と油みたいに、決して結合することのない二つの感情が、私の中で衝突し合っている。その衝撃で、母体である私が一番傷つく。まただ。さっきと同じだ。二進も三進もいかない苦痛で膠着状態になっちゃって、もう、自分じゃどうにもできない。彼に助けてもらおうとしても、結局は自己嫌悪が募るのみで、私はもう、泣くしかできない。
彼も、もう私に飽き飽きしただろう。私は彼に、自分から死のうと言ったのに、自分から拒絶をしたのだ。もう、幻滅だろう。でもそれで、少し安心する。過度に期待をされるより、何も期待されないほうが落ち着くし、気が楽なのだ。泣きじゃくりながら、彼が私を突き飛ばすのを待った。私の、ほんとうを見抜く彼なのだ。私の汚い欲望にも察しているに違いない。
泣き果てて、疲れ果てて。もう、からだじゅうがだるく、重苦しい。擦りすぎた目元がじんと熱を帯びて、そんなに泣いたのか、と思うことがまた涙を呼び起こす。一緒に鼻水が垂れてきて、下品に啜り上げた。鼻の奥でずずと下卑た音を立てて止まると、久しぶりにまともな空気が鼻の粘膜に触れて、スースーする。そんな汚い音を真近で聞いても、なんで彼は私を振り払わないの。もう、私からは、離れられないんだから、あなたがやってくれないと困るのに。抗議をしようと、歯を食いしばって見上げた瞬間だった。
――そこにあった、あなたの微笑み。私の、とうといひと。全ての思考が消し去られる。幻滅されたこと、生の無意識、女の本能、自我への執着、全部、全部が煙と共に流されて、溶けていく。嗚呼、彼は、やっぱり優しい。自我がなくなっても、もう、なんでもいい。
網膜に溜まった涙が、ひとすじ。頬をゆっくりと伝い、顎で雫のかたちになると、ゆらゆら揺れて、落っこちそうになったところを、正面から伸びてきた彼の指に掬われた。曖昧な意識のまま彼の瞳を見つめていると、赤色はもうぐるりと、催眠をかけては来なかった。その代わりに、誰か懐かしいひとを見たかのように、私の奥に私ではない恋人を見たかのように、ひどく愛おしげで甘く優しい色をしていた。そして、彼は私をそっと引き寄せ、肩に頭をうずめた。肩に直接、彼の声帯からの低い振動が伝わって、からだが麻痺した。
「あなたも、僕と、同じなんですね、」
痺れる感覚の中、そのひと言で、全てを察した。そうです、同じです。私も、あなたも、同じ。しにたくて、しねないひと。それに気付いて、なぜだか胸の痛みがじぃんとやさしく蕩けていく。彼のくれた感情が薬になって、おなかの中で溶けるようだ。さっきまで張り詰めていた目の奥も弛緩して、それまでとは違う、やわらかな感触の涙が溢れてきた。頬に触れていた彼の髪に、それがしとりと染みていく。頭のどこかではそれをとんでもない罪のように思っているらしいけど、今はなんだか、その感情が遠かった。彼の手が私の背中に回っても、腕の力が強まっても、身体の至る所で彼の熱を感じても、それは未だ、遠かった。ただ、音もなく、あのやわらかで熱い涙だけが、私の顔をずっと濡らし続けた。そこにやってきた、近い声。空気よりも近く、はやく、彼の声が伝わる。
「……わかって、くれる?」
――そんなの、私の台詞です。あなたが、私を見つけてくれたから、私もやっと、私のことが分かったの。死にたいって、ちゃんと、分かったの。やけくそになって喚き散らすしかなかった感情の種が、そこにあるよと教えてくれたのは、あなたです。
テレパス同士のような会話に、もう、何の違和感も抱かない。抱き締められて硬直していた身体が、熱を放ちながら、やわやわと力を抜いていく。腕も首も足もやわらかくなって、彼の腕や胴や、手の指一本一本の形にちょうど合わさっていく。ポニーテールの、ちくちくした毛先が彼の手に掛かったようだ。それを彼は、親指と人差し指ですこしだけ掴むと、持ち上げて、一本づつ愛おしむように落としていく。その、微かな地肌の感覚がくすぐったくて、苦しくて、嬉しくて。彼の肩に頭を乗せて、重みをかける。これで、私からも完全に、任せてしまった。あなたに、この身を委ねてしまった。私、もう、あなたのものです。自我なんて、どこにもなくていい。私は死んで、あなたと一緒になって、生きてたい。その声が聞こえたのか、彼は笑った時特有のあの僅かな掠れ声を鳴らした。
「みょうじさん」
「……、はい……」
「……さっきの、返事。言いますね」
髪で遊んでいた手が止まり、彼はゆらりと顔を上げた。ぼさぼさになってしまって、分け目もまとまりも無くなってしまった彼の髪。跳ねた一本一本の光と影まで、うつくしく、まぶしい。そしてその髪の隙間から覗く、赤色。さっき、私を殺そうとしてくれたあの赤ではない。何か、もっと優しい赤色。私はそれを、愛情の色だと思った。ハートが往々にして赤色で塗られるような意味での、赤色。でも彼の思いは、そして同じく私の思いは、決して情愛とか、恋とか、そんな俗なものではない。それでも、これは、愛だ。世の中の言葉では定義することのできない種類の愛だ。それを、彼も私も、わかっている。でも、せめて、今ある言葉を尽くすならば。
「一緒に、死にましょう、みょうじさん」
「……いい、の、」
「はい、でも、僕もあなたも、すぐに死ぬのは出来ないようだから……だから、」
今ある言葉を尽くすならば。それは、彼の言葉を借りよう。
「――いっしょに、ゆっくり、死にましょう」
そういうかたちの愛が、この世にはある。
しあわせだった。彼の与える死という幸福の海で溺れていた。なのに、怖かった。幸福の海でほんとうに体を委ねて沈むのではなく、手のひらを光へと伸ばし、ばたばたともがいて、溺れていた。ああ、ほんとうに死にたいと思える人ならば、きっと恐怖を覚えたりせず、もがきもせずに沈んでいけるのだろう。絶望や悲しみや、恐れの淵にあるという、静かでおだやかな幸福。その海で、結局私はひとり、また悲しみを体内に蓄えて、また少し泣いた。
それに気付いた彼は、薄い唇をほのかに横へ引くと、一度腕を緩めポケットから私たちの凶器を取り出した。慣れた手、魔法の手で火をつけると、少しずつ二人の間から夏空に向かって、白い煙が立ち上り始める。至近距離の煙にむせかけたけれど、我慢して涙を落としながら必死に深呼吸を繰り返す。彼はそれを見てまた愛おしそうに微笑むと、私を抱き締めた。肩口でふくらんだ長い髪が、私の頬にも触れてくる。柔らかな質感のそれに触れるという禁忌すら恐れず、彼の服の皺だけ摘んでいた手を背中に回して、服越しに触れて、そしてゆっくりと掴んだ。私の手の力に合わせて、重なっていくシャツの皺。それと一緒に上体も委ねて、彼の胸に頭を埋めて。またすこし抑えた泣き声をあげると、彼は「なかないで」と囁き、とんとんと背中を叩いてくれた。けれど、そんなことをされてしまえば余計に泣きやめるわけもなく。
かなしいほどの快晴の下、私は少し腰を浮かせて彼の肩に頭を埋めると、ひたすらの愛を込めて、ひっそりと、彼のうなじに唇を掠らせた。