「……あっづ、い」
「あはは、これ以上設定温度下げると教頭に怒られちゃうので我慢してくださいね、みょうじさん?」
「ヒッ……す、すいません」
誰にも聞こえない声量の独り言をぼやいたつもりが、ちょうど横を通りすがった先生に聞こえていたらしい。今年この学校にやってきたばかりだと言うのに、高3の夏の選択補講を任されている若い男のセンセイ。不敵な様子や整った顔立ちは、どことなく彼に似ている気がするけど、このセンセイに近寄られても見つめられても何の畏怖も感じないから、やっぱり彼はわたしのとくべつだと思う。
受験の天王山こと、夏休み。まあ、そんな呼び名がつくだけあって、勉強しかしてない。朝起きて、学校行って勉強して、お昼を食べて、選択補講を受けて、また勉強して、夕方になったら塾行って、軽くおにぎりを詰め込み、講義を受けて、10時まで勉強。帰ったら着替えてお風呂入ってごろごろスマホを覗いて寝る。ちなみに移動時間と就寝前の10分は単語帳暗記に費やしている。正直、自分が人間である自覚を失いそうになる。スイッチを入れたら勉強するしか脳のない機械のような。しかも夏で基礎を固めるぞ! と塾でも学校でも言われるおかげで、解くのは単純な暗記問題や基礎を問う問題ばかり。脳を使っていても引き出しを漁るばかりで、ぐるぐる回したり知恵を捻り出す必要もなく、ほんとうに機械作業。鬱。ただこの先生の補講は現代文応用、二次対策にもなるようなものなので、ちょっと楽しみだったりする。勉強しすぎて勉強が楽しみって、なんか倒錯のような気がするけど。
だが、暑い。ここほんとにクーラー効いてんのかコラ。ブラウスの下に着たシャツが汗で背中にピットリ張り付いて気持ち悪い。早く家帰ってシャワー浴びたいと思っても、帰るのは夜の10時過ぎ、今から6時間も7時間も待たないといけない。はあ……。
周りの生徒を見回すと、みんなやはり、ベランダに置かれた水槽の中の金魚みたいな顔で机に向かっている、かと思っていた。が、現実は私が思っているほど腐りきってはいなかった。暑いし、汗ダラダラなのは私と同じ条件だと言うのに、目は死んでいない。汗を煌めかせ、意地でも問題に食らいついていくという顔をしている。なんだか、高校生の青春って感じだ。思ってみれば、ここにいるの多くは去年まで体育会系や吹奏楽や合唱やらの部活に励んでいた人が多い。夏休みでも毎日学校に来るのに抵抗がない人ってことだ。彼らは、その高校生特有のキラキラした情熱を、部活から勉強に転換させるのに成功したのだろう。私は、どうなのだろう。なんというかやっぱり、中途半端でよく分からない。
……集中、しなくては。手汗をスカートに擦りつけると、シャーペンを握り直す。ポケモンセンターで買った木製の可愛いシャーペンは、使い過ぎでデンリュウのイラストが剥げてしまった。それでも受験終わるまで使うと決めた相棒だ。ぎゅっと気合を入れ直すけど、一度逸れてしまった気持ちはなかなか帰ってこなくって。
窓際の、彼の席。頬杖をついて眺めているだけで、意識が遠のいていきそうだ。蒸せ返るような教室の空気のなかぼんやりしていたら、ふ、と笑われた気がした。机の上に座って、有り余るほど長い脚を組んで、手元には細長い白筒。気怠げに後ろへと振り払った髪が舞う姿は、重力を無視したかのような美しさ。それで、私を真っ直ぐ見て、血の色の瞳で拐かして。心臓が、ぎゅうと絞り上げられたまま、止まる。だけどその奥で、微かに口を開いた心の声。
――会いたい、なー。
「……そろそろ解けたみたいですね、じゃあ答え合わせと解説。バタフライ・エフェクトの名前、聞いたことはありますか。いわゆる――」
(……、あっづい、)
ほっぺたが。
あの日のことを、私自身どう捉えたらいいのか分からなくて、帰った途端速攻布団に飛び込んで破裂しそうな自分の心臓の音を聞いていた。枕の下に隠したいつもの日記を開くけれど、今までのページがばかみたいに思えてくる。だって、だって、目が合ったとか笑ってもらったとか、そういう淡いレベルを一気に飛び越えてしまったのだ。飛び越えるとか、高低での表現は合わないかもしれない。どちらかというと、深淵にまで潜ってしまったというほうが合っている気がする。浅瀬で水遊びレベルから一気にスキューバダイビングして海底のうつくしさとおそろしさを思い知らされた、というか。そして、私もその深い世界に実はもう長く住んでいた、というか。なんだか、現実味がしなくって、あの日の朝から今も長い夢の途中なのではないかと思いもした。でも、頬っぺた抓っても痛いし、ここまでの夏休みの努力が消えるとか嫌だし、それにやっぱり、未来なんか消えちゃえって、しにたいって思うし。やっぱり、あの日も、あの日の私も、あの日の彼も、現実なのである。幻想や夢なんかじゃない、ほんとうにあったことなのである。
思い出すだけで、彼に触れられたところを中心に熱を持つ。髪に、背中に、腕に、頬に、あのときの彼の指先、温度、力の強さ、全てが印象深く彫り込まれてしまったのだ。廊下を歩きながら、あのとき彼が涙を拭ってくれた手つきを真似て、自分の顎に触れてみる。そっと、掠るように。ちゃんと触らず、肌の表面にだけ触れるように、人差し指で、ひと撫で。一緒に、慈しむような彼の眼差しがすぐ目の前にあるのを想像すれば、頭の中がふんわりした白いもので埋め尽くされるような、そんな感覚がした。唇にだって、触れられかけたのだ。出来事という事実に、欲にまみれた心は暴走しかけているのだけれど、頭では上手く処理できていなかった。
女の子として、見られるということ。見られることで、私も女の子になるということ。それは、やはり今の私にはあまりにも怖すぎて、悲しくて。それでも一緒に、惹かれているんだなんて、いやだった。自分がどんどん、穢らわしくて浅ましい人間になっていく気がした。でももう、知っている。彼は別に私を女の子として見ているわけじゃないんだって。彼の感情はあのときよく知った。彼にとっての私は、きっと憐れむべき同類で、だからこその心中相手だ。言うなれば、同情。私の葛藤なんか、彼にとったらもう何年も前から考えている、馴染み深い感情だったのだろう。だから、彼は、自分を殺せないかわりに、私を殺そうとしてくれたのだ。自分自身と少し似たものを抱えた、私を。抱き締めてくれたのだって、そう。彼は自分自身を抱き締めるかのように、私を抱き締めて、慰めてくれたのだ。そして、ゆっくり、死のうと。穏やかに、ばれないように、あの煙だけで、音もしないような心中をしようと。
ああ、なんて、すばらしいことだろう。涙が出そうなくらいに嬉しくって、同時に彼のしてくれた行為だけを想って興奮する汚れた心に死ねって思った。彼のそれは、私が彼の眼中に入るわけない、一生一方的な感情を向けていたいという、入学式以来ずっと抱えている欲望と、彼と接していたいという、話すようになってから芽生えてしまった烏滸がましい欲望の両方を叶えてくれたのだ。それで、彼も満たされてくれて、私は彼に利用されて、それって、ほんとに夢みたいだ。彼に好かれたり、愛されたりすることは決してないまま、彼を真近で拝んでいられる、そのままいつか死ねる。恋ではない、そんなのよりもっと神聖なこの感情の、成就。それなのに、彼に触れられて嬉しいだの何だのとまるで恋する乙女みたいなことを言う自分は邪魔でしかないし、そんなもの認められない。丸めてゴミ箱に捨てられたらいいのだけど、上手く分別できなくて専用のゴミ箱を見つけられていないから、仕方なく持ち歩いてしまっている。
「……あっ、みょうじせんぱい!」
溜息をつきながらぼんやり歩いていたのがまずかった。気がつけば下り階段まで足を進めていたらしく、あと少しで階段を転げ落ちるところだった。爪先立ちでつんのめった瞬間の彼女の声で、足は一歩後ろへ下がる。目線を階段の下に向けると、両手で画材をたくさん詰め込んだダンボールを抱えた彼女が――ヒナリちゃんが、いた。普段は降ろした髪を高い位置でひとつに結んで、さわやかな夏らしい印象の彼女。大きな窓から差し込むオレンジ色の夕陽を浴びて微笑む姿は、やはり彼女の特殊性というか常人ではないものの持ち主であることを示しているみたいだった。
「こんにちは! お帰りですか?」
「あ。まあ、そうかな……。てか、その荷物大丈夫?」
「大丈夫です! ちょっと重いけど、あとちょっとなので……っわあ!」
がらがらがっしゃーん、ちょっと困ったように眉を下げて彼女が微笑んだ瞬間、ぷるぷる震えていた腕が限界を迎えたらしい。ダンボールは彼女の足元へ真っ直ぐ落下し、絵の具やパレットや筆や、見慣れた様々な画材が階段の踊り場を転がっていく。まあそうなると思ったと納得しつつ、慌てて掻き集める彼女の元へと向かうと、ちまちまと鉛筆やペンなんかを拾って集めていく。その中には、去年私が顧問にデッサンを教えてもらってた時使った、見覚えのある鉛筆もあって、ちくりと胸が針で刺された心地がした。
「すみません……! 私一人で大丈夫ですから、先輩は、」
「いいよそんなの気にしなくて。というか、これ全部一人で使ったの?」
私に気遣ってくれるのが照れ臭くて、あと彼女みたいなお方が私なんかに気遣うという恐ろしい状況から逃げたくて、無理矢理に話題を転換した。下書きやデッサン用の鉛筆から、水彩絵具のチューブ達、それから油絵の鞄も幾つか積まれているようだ。ハケや筆も一人で使うには多すぎる量の画材達だ。咄嗟に思いついた台詞だったけど、それにしては少し気になることだった。
「……ヒナリちゃん?」
「わ、はい!えっと、今日みんなで外に出て写生してたんですけど、他の人の分もあるので……私ひとりじゃ使いこなせないです、こんなに」
「……片付け押し付けられてるの?」
「押し付けられてるなんて、そんな!後輩の仕事ですから、当たり前です」
「……二年の子たちとか、他の一年の子はどこ行ったの?」
「用事があるそうで、帰られました!」
……どうして、気付かないのだろう。彼女の無邪気な笑顔が、一周回って物悲しい。お人好しってことなのか、知らぬが仏ってことなのか。私がぼんやりと手を止める間も、せっせと絵具のチューブを拾う彼女の健気さに、なんだかよく分からない感情が込み上げてくる。とにかく、何か言ったほうがいいと思って、口を開きかけたときだった。彼女が手を止めて、私の顔を見つめてふわりと微笑んだのは。
「……だいじょうぶです、みょうじ先輩。私がわるいから……」
「え……」
「私が、なんというか、その……。上手く、皆さんと話せないから。まだ、先輩だけなんです、女のひとで、私がちゃんと、喋れるのは」
夕陽を逆光に浴びながら、瞳をやわく緩める彼女とは逆に、目を見開く私。……気付いてたんだ。それでも、自分が悪いって言うんだ。
「……女のひと、苦手なの?」
「苦手じゃないんです! むしろ憧れてて、お喋りしてみたくてたまらないんですけど、……慣れてないというか、ともだちが、いないというか」
「えええ、ヒナリちゃん友達多そうなのに、なんで……」
「病院生活が長くて、その、年の近い友達がずっと彼方……あ、覚えてますか、幼馴染なんですけど、彼しかいなくて。それで、女の子同士の会話で、空気が読めないというか、会話がぎこちないらしくて、コミュ力、ってものがないらしくて……。私がいると、空気が悪くなるらしくて」
な、なんだその漠然としたいじめの理由! って思ったけど、いじめの理由なんて大概そんなよくわからんものだとすぐに思い直した。「すみません、急にいっばい話し出しちゃって」と申し訳なさそうな彼女だけど、そこに空気の濁りを感じることは全くない。もしかして私もコミュ力ないからそう思うんだろうか。
「だから、私が、話すの下手だから駄目なんです。空気を読めるようになれたら、」
「ヒナリちゃんは……」
「は、はい!」
唐突な私の言葉に、彼女がぴきんと固くなる。うん、やはり、私もこうやって突然喋り出したり黙ったりするところ、コミュニケーション能力がない証だ。目をぱちぱちさせながら私の次の言葉を待つ彼女を直視できず、短い鉛筆を手の中で転がしながら、独り言のようにぼそぼそ呟いた。
「あっ、いや、えっと……。なんというか、さ。ヒナリちゃん、味方は、いる?ちゃんと喋れるひとっていうか……」
「彼方は……いつも気にかけて喋ってくれます。あと、クラスの男の子は、時々お話に付き合ってもらえます、それから、保健室の先生が、随分私のことを気にしてくれてるらしくて」
「……あー」
なんてことなさそうにするする出てくるのが、全員男。保健室の先生も男。少し、原因が見えた気がする。女子共の僻み。そうに違いない。見た目がおだやかで可愛らしい上、女の子と話すよりも男の子と喋る方が得意だから、きっとそういう僻みを受けやすいのだ。私ももし彼女と同じクラスだったら、なんだあいつぶりっ子か、と彼女を疎む側だったかもしれないと思い、自分の底意地の悪さにぞっとした。
どうしたらいいんだろう。彼女が、この学校という閉鎖空間で集団生活を上手く送るために。誰か仲の良い女の子の友達が出来たらイメージも払拭できるかもしれないけれど。うーん、としばらく頭を回してみたけれど、正直彼女がこんな学校に閉じ込められるほうがおかしい、なんて倒錯した結論に辿り着いてしまった。彼女には、気の合う仲間と様々な場所を巡る旅人のほうが似合う。そうなると、バックパッカーにでもなれって言うのか? それは、ない……。
「……先輩。ありがとうございます。私は大丈夫です」
無意識のうちに眉間にしわを寄せて、余程難しい顔をしていたらしい。彼女が微笑むのを見ると、凝り固まった顔の筋肉がふと解れていった。なんで、そんな寂しそうな顔で笑うのだろう。あなたにそんな顔をされてしまったら、私はどうなってしまうのだ。あなたが笑っていてくれないと、私は悲しみに酔えないのに、なんて不意に思って、結局私は利己心に戻ってきてしまうのかと、自分で呆れてしまった。
ダンボールに全部をしまい終わったらしい。彼女は勢いよく立ち上がると、それじゃあ先輩、受験頑張ってください、なんてどこで覚えたのか月並みな言葉と一礼を残して、階段を駆け上がろうと足を踏み出しかけていた。だけど、彼女がそんな悲しい顔をしてるままじゃ、だめだ。そう思うのは、彼女のため? それとも、私の不幸を引き立てるため? 本当のことは、分からない。けれど、待って、と叫んだこと、瞳をぱちくりとさせる彼女に伝えたことは、確かに私の本心から出てきた行動だった。
「ヒナリちゃんは……、幸せになっていいひとだよ……」
「……」
「幸せにっ、ならなきゃ……。あなたみたいなひとが幸せにならなきゃ、逆にみんな不幸になっちゃうっていうか……。だから、周りを、私でもいいなら私でも、とにかく誰かに助けてもらいながら、前に進んで……。それが、誰かを救うことにも、なるんだよ、あなたは、」
「……みょうじ、せん、ぱい」
言葉は途中で、遮られた。彼女が、目の前に立って私の目を見ている。まるで、彼のようだと思った。亜麻色の、やわらかな色なのは違うけれど、その奥にある微かな濁り。純真さの奥にポツリと落ちた悲しみ。瞳の表面がゆらゆら揺れて、ひとしずくだけ彼女は、涙を零した。気付いてないのだろうか、拭うこともせずに透明なそれが頬の上を滑っていくのに見惚れていると、不意にはっと我に帰ったらしい。急に大袈裟に笑って誤魔化して、でも両手が塞がってるから拭うこともできないで、わたわたと慌てる彼女。ポニーテールがぴょこぴょこと揺れて、本当に尻尾みたいだ。少し笑うと、私はこっそりポケットからハンカチを取り出し、ヒナリちゃん、と名前を呼んだ。はい! と空元気で返事をする彼女に、ひとつ、初めての先輩命令を下す。ちょっと悪戯をするような気持ちで。口元が若干にやけてしまう。
「ヒナリちゃん、目ぇ閉じてもらえる?」
「え……? は、はい……」
こんなに素直で大丈夫なのかと思うくらい、疑うことなく目を閉じてくれた。悪い男に引っ掛からないのかと思ったけれど、彼女にはあの幼馴染のボーイフレンドがいるし、まず気に留めもしないんだろう。夕陽のひかりでオレンジ色に染まる彼女の睫毛。緊張しているのか、ぴくぴくと震えている。薄く色づいた唇も微かに開いていて、女なのに妙にどきどきしてしまう。自分で仕掛けておいて耐えられなくなって、隠し持っていたハンカチでごしごしと彼女の目元を拭った。もういいよ! と半ば自棄になって言うと、彼女はぱちぱちと瞬きして私を二度見している。なんだか今更になって恥ずかしさが頬に湧いてきて、じゃあ、と足早に階段を下りていく。階段の金具とスリッパの音がガシャガシャなって煩い。けれどそこにまた足音が上から聞こえてきて、それは案の定彼女の足音で。先輩! と叫ばれて振り返ると、彼女は少し息を吸い込んで、階段の上から私に声を降らした。
「あの……っ! 先輩も、幸せにっ、なるべきひとだと思います! 私、大好きな先輩に、幸せになってほしいです……!」
好きなひとの、幸福を祈れること、かあ。
「……ありがとう」
「はいっ……!先輩、さよーなら!」
「さようなら」
――私の幸福。夢。未来を、なくすこと。死ぬこと。できるなら、彼と共に。
そんな私にさえ、こうして慈悲をくれるのだ。私とは比べものにならない、悲しみというべき悲しみを、本物の悲しみを抱えた彼女が。
かなわないなあ。