……。
 やばい、朝に薬飲んできたけどそろそろやばい。今日は大事なテストがあるからって意地で出てきたけど、それもさっきの時間で爆死したし、もういいだろう。頭がぐらぐら、ぎんぎん、お腹も月一で来るアレとは違う痛み方をしている。妙に寒気が止まらないし、その割に頭はぼんやりと熱を持っているし。完全に薬は切れたようだ。もう、いい。私はよく頑張った。だから、もう許してもらえるだろう。
 立ち上がった途端、隣の彼が微かに私を見上げたのが視界の端に映るけど、それには気付かないふりをして、教壇に肘をついて問題を解く生徒たちを眺める先生の元へ向かう。用件を伝えると、一人で大丈夫かと心配してくれたがそれは断らせていただく。だって、こういう体調不良の主な要因って、先生に言い出すまでのプレッシャーでしょ。それはもう乗り越えたし、少しは楽になるはずだ。楽になるはず、だったのだが。
 少し身軽になるはずの肩は相変わらず重いし、関節も痛いまま。視界もぼやけたままだし、足元も覚束ないし、予定と違う。でもまあ、保健室のある一階の廊下まで、あとこの階段降りたらすぐだし、大丈夫大丈夫。私は健康体、ちょう、げんき……。階段へと、足を踏み出したはず、だった。
 ズドーン! おっとみょうじ選手! 階段上から大きくジャンピング、そして、フライアウェーイ……というかこれは、踏み外しましたねえ〜! ゴールまであと少しでしたが、ここであえなく失格でーす……!
「ちょ……え、なんで空から女子生徒が……ってなんだこの熱! おいおい……俺の仕事かよ」
 そこからの記憶は、ない。


 目を覚ましたのは随分と前だけど、起き上がる気力はしなくて、二度寝に二度寝を繰り返していた。だって、確か四限目、体育だし。二限目の終わりに教室出たから、上手くいけば体育までサボれるかもしれない。そのためには、もう少し保健の先生を欺かなければならない。布団の中に潜り込んで、起きてることがばれないように、ばれないように、……。
 ……暑い! ただでさえ体の熱で温まった布団の中は想像以上の熱気と二酸化炭素濃度で、到底潜り込めたものではない。枕を頭にしてすーはー呼吸をしていたら、ばっちり目も覚めてきてしまう。やめろ、まだ私は、サボりたいんだ、
「お、起きたか?」
「ギャエッ……ゲホッ、ゴホッ」
「おいおい、喉もかよ……。びっくりしたんだからな、突然階段の上から高熱の生徒が降ってくるとか、意味わかんねえ」
 ジャバラの薄いカーテンが突然開き、白衣の先生の姿が現れる。蒼髪のイケメンと噂の漣せんせーである。まあ、イケメンという噂と一緒に、贔屓が激しいとか生徒に手を出してるとか実はホモだとか色々噂が出回っている、ちょっと怪しい先生だ。些細な怪我はしょっちゅうするが、風邪は滅多に引かないので、こうして保健室でふたりきりにされるのはちょっと変な感じ。というか、起きてたのばれた、くっそー。でもまあ、喉もイガイガ、熱も多分これからが一番上っていくときだろうし、そんな生徒に運動させるような真似はしないだろう。よっしゃ。
 というか、空から落っこちた? そんな、どこぞのシータみたいなこと……した。階段から落っこちたときの、空気抵抗の感覚が朧げな記憶の中微かに残っている。どうやら、そこから先生がここまで運んでくれたらしい。
「ずびばぜん……あびがどうございばず」
「いいよ、まあ仕事だからな。それよりはい、学年クラス名前」
「三年、えーぐみの、みょうじでず……」
「みょうじさん、みょうじなー……、みょうじって、みょうじ……」
 白衣を翻しパソコンの前の椅子にどっかり座ると、先生は慣れた台詞を唱える。カタカタというタイピング音の軽やかさが沸騰した脳味噌に心地よく響いていたのも束の間、タイピング音が急に遅くなる。そして、そんな風に私の名字を連呼するものだから、否が応でも目が覚めてしまう。さらにかつかつと歩み寄ってきた上にベッド脇の椅子に座るし、変にハラハラする。私と先生、一応初対面だと思うんだけど。私、何か悪いことしたっけ……? そんな予感を確信に変える勢いの、先生の顔。眉間に皺を寄せて、誰がどう見ても怪訝な表情だ。しまった、私、どっかで先生の足踏んだとか? 心せまっ!
「お前がみょうじか」
「……ゲホッ、はい……」
「……お前、あいつの何なの?」
「……ゲホッ?」
「あいつの、祐月の。彼女?」
「ゲホッ……!?」
 な、なんで、そんな浮気された彼女みたいな台詞を突然言うのかと思ったら、なんで彼の名前が、というか、先生のホモ疑惑マジだったの? 三次元はあまり得意じゃないけど、この二人の場合まあ目に害はないからいいか……って、そろそろ熱がやばいようだ。体調を思うと一刻も早く寝たほうがいいのだろうけど、こんな話を聞いてしまったら眠れるわけがない。それに、先生も寝かす気無さそうだ。肘に両手をついて大真面目な蒼い目で私の答えを待っている。風邪っぴきのガラガラ声を絞り出させようとは、こいつ、本当に保健医なのか。
「ぢが……彼女、なんが、ぞんなわげないでずっ」
「ふーん、この前あいつがお前のこと喋ってたからさ、仲良いのかと思って」
「びぇ…!?」
 さっきの怪訝な顔から一転、顎を触りながら少し悪戯っぽい笑顔の先生。どうやら、単に揶揄われただけのようだ。元から熱で赤い私の頬がぼおっと燃え上がるのをにやにやしながら見ている。少し、むかつく。私が、彼の、彼女になんてなれるわけがない、億が一になれたとしても、なってはいけないと思う。だって、私のこの感情は恋愛のそれではないのだから。先生は何にも理解してないんだ。当たり前だけど。
 でもそんな苛立ちを吹き飛ばすような爆撃。彼が私の話を、している? ……私、やっぱり熱、やばいよ。幻聴まで聞こえてる。
「面白かったぜ。あいつが他人の話をすることが珍しい、つーか、俺が話し掛けても大体無視られるのに、自分からぺろっと喋ったんだぜ。お前、どうやってあいつに取り付いたんだ?」
「どり、つくっで、ぞんなっ、」
「あいつとことんガード固いっていうか、心閉ざしてるって感じだろ。俺でさえもう一回開かすのに必死だっつーのに、イレギュラーのお前が突然あいつの中に侵入してるみたいだし。……まあ、さっさと彼女の記憶が戻れば早いんだけどな。それか、あいつ自身の記憶が戻るか。まあそれには彼女の存在が必要条件だろうし、あー」
「な、なにを、言ってるんでずが……」
「あ、ごめん。これ独り言だから」
 なんて長ったらしい独り言だ。記憶だの何だのと、ホモな上に厨二病まで拗らせているのか、この保健医。私の中で先生の二つ名がどんどん増えていく。しかもぼんやりする思考の中では、殆どが言葉にならず輪郭のない塊で頭の中に浮かんでいて、あー、もう何考えてたんだっけ、って感じだ。
「……なあ、お前さ」
「……は、はぃぃ……」
「あいつのこと、どこまで知ってんの」
「ゆづ、き、くんの、こと、……?」
「そ」
 そう言われて、思い返してみるけれど。彼について知っていることと言ったら、暇なときには屋上で煙草を吸っていること、ご飯を食べないこと死にたいらしいこと、それくらいだ。それくらいで、私と彼の関係は成り立ってしまう。だけど、先生の口振りからして、この目の前で私を試すように瞳を細める人は、彼のことを私以上に知っているのだ。気にならない、と言ったら、嘘になる。彼がどうしてこんな学校にいるのか、死にたがっているのか。
 ごくりと、生唾が喉を通るのも痛い。知ってはいけないと、知るのなら、彼の口から直接聞くべきだと、正しい私は叫んでいるのだけれど、好奇心には敵わなかった。
 ごめんなさい、ゆづきくん。私ひとつ罪を犯します。
「せんせ……、教えて、ください、」
「その代わり、俺もひとつお前に頼みたいことがある。対価交換で、いいか?」
 ゆっくりと頷くと、先生はにんまりと口角を上げた。腕を組み、まるで自分の自慢話でもするかのような態度に少しむかついたけど、まあ背に腹は変えられないってやつだ。先生の有難いお話を聞くため、熱のこもった頬っぺたをぺちぺちと軽く叩いて、無理矢理目を覚まさせた。
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