11月。
 もう、一年経ってしまったという事実、同時に受験までのタイムリミットが迫っているという事実。いつもより随分と華やかに飾り付けられた学校は、まだ開祭式もまだなのに、お祭り特有のふわふわした空気感に包まれていて、なんだかくらくらしてしまいそうだった。ベニヤ板やらガムテープやら遮光カーテンやらを持って走り回る一、二年生たち。開会式の演奏を任された吹奏楽部がばらばらと音出しをする遠い音。何回目かの卒業生の寄贈らしい、学校名の印刷されたおんぼろテントたちが立ち並ぶ。三年生の参加は自由だから、基本的には推薦で先に大学が決まった子たちが中心になって模擬店を企画してくれた。私は勿論まだ決まっていないし、正直集団行動が苦手なので不参加。ただ、美術部のほうだけはひとつ作品を出すことになっていたから、こうして浮かれる人混みに紛れて朝から登校しているわけだ。
 もう、一年。
 一年で、私は随分、色褪せてしまった。

 また、去年と同じ仕事をしている。箱を置いた机の後ろに座ってコメントシートを回収したり、絵画教室に案内したりするだけの、簡単なお仕事。去年みたいにとんでもないのは、まだ来ていない。もうあんな思いは嫌だし、正直勉強を理由に断ろうかとも思ったのだけど、ヒナリちゃんに申し訳なさそうに頼み込まれてしまったのだ。弱小美術部、さらに弱小化したの……? もう内部事情は詳しく分からないが、とにかく、私は彼女の頼みを断れるほど偉い人間じゃない。有耶無耶しているうちに、首が頷いてしまっていて、あとからものすごく後悔した。
 私が展示したのは、相変わらず気味の悪いペン画だった。但し、テーマは去年と真逆、らしい。それは顧問や同輩に言われたことで、私自身はまるで意識していなかったのだが、何故か「お前、勉強も休むときには休めよ」と心配されてしまった。描いたのは、珍しく人物画。とは言っても、そのまんまの人間の模写ではなく、もうぐちゃぐちゃのドロドロに溶かした人間である。痩せこけている部分もあれば、やたら肥大化している部分もあり、それがありとあらゆるタッチの線で、奇声を喚き散らすように描き殴られている。そうやって形容していくと、確かに狂気じみた作品なのだけれど、描いているときは何も考えていなかったし、今見ても大したことはない。これが私の狂気とか言われても、よくわかんないや。まあ、精々コメントペーパーを楽しみにしておこうと思う。
 溜息をつく薄暗い私とは対照的に、初々しくも一生懸命に心からの笑顔で応対する隣の彼女。一人一人の目をしっかり見て微笑みかけるものだから、目を合わせられた人は少し気まずそうだったり、にやけたり、とにかくちょっと彼女に押され気味のようだ。たまに違う制服の男から連絡先渡されそうになっているのを見たので、私が追い払った。迂闊にこの子に手出ししてみろ、己の汚さに絶望するぞ、という、ナンパ師への警告の意味も込めてだ。それでも向こうからしたら私が悪者なので、舌打ちを食らい続けていたのだけど。
「……先輩? なんだか……その、大丈夫ですか?」
「大丈夫。ヒナリちゃんは、そのままでいてね」
「わ、私、何かしちゃいましたか……?」
「ううん。あなたは何も悪くない、悪いのはね、あなたに絡んでくる男共、」
「あーっヒナリ! どこ行ったかと思ったらここにいた!」
「……ヒナリ、探した、」
 ……言ってたら、またなんか変なのが来た。大声で飛び込んできた声変わり前の少年の声、その声にぴったりの容姿をした小学生くらいの男の子と、ぼんやりした低めの声にぴったりの、うちの生徒のようだった。こっちは美術室の出口だって書いてあるのに、そんなの無視して出口からずかずかと彼女の前に仁王立ちする男の子。白いマフラーがよく似合っているけど、この時期には暑すぎないのかな。白から水色へ、グラデーションのかかった髪はまるでアニメか何かのコスプレのようだ。文化祭だし、ありえなくはないけど、部外者のコスプレってありだっけ? お客さんの足音と囁き声だけだった美術室の空気が彼という台風を中心に一変する様子は、どちらかというとアニメキャラよりアイドルだ。
「わ……えっと、理央くん、でしたっけ?」
「何言ってんの馬鹿! ヒナリがつけた名前でしょ! ……あ、でも、仕方ないんだっけ。そうだよおねーさん、覚えてくれてありがと!」
 ぱちんとウインクして星を飛ばす少年。変わり身の速さに圧倒される。
「……ヒナリ、俺の、ことは?」
「えっと。ごめんなさい、知らないです……」
「……ちひろ。俺は、千紘。ヒナリ。会いたかった、俺、何か欠けてるって、思ってて、でも全部思い出したら、ヒナリたち、みんな、」
「わ、ええ……!?」
 テーブルの前の床に膝をつけ彼女の手を掴み、その手を自らの頬に持っていって頬擦りする彼――千紘くん。スリッパの色からして二年生だろうけど、なんだかもっと幼い少年というか、幼稚園児みたいな行動だ。たんぽぽ色をした癖っ毛をふわふわ揺らして愛らしいが、やってることは突然のセクハラである。しかしその幼稚園児は光の速さで小学生くらいの彼に首根っこを掴まれ回収される。
「こら千紘! ヒナリは今僕らの知ってるヒナリじゃないの!」
「……なんで」
「なんでって! 僕らだってそうだったでしょ! 一緒!」
「あの……、やっぱり、人違いだと思うんですけど、」
「……すみません。彼女もこう言ってるんで、お引き取り願えますか。ここ展示会なので、騒ぐ場所じゃないんです」
 彼女の困った顔を見ていられなくて、思わず立ち上がって口出ししてしまった。思い出すだの記憶だのは知らないけど、ここが文化祭で、美術室で、展示会なのはよく知っている。そういう大騒ぎをするのは、こんな陰気臭い場所ではなくもっと華やかな場所でやってくれ。立ち上がってだいぶ身長差もあるのにも関わらず、臆することなく私を睨み上げる理央少年。澄んだ水色の瞳が、突然現れた私というこの場における部外者を初めて認識した瞬間だった。一歩後ろに下がりたくなる気持ちを堪えて無言の戦いを続けていると、先に目を逸らしたのは少年のほうだった。
「……それもそうだね。僕らが、悪かった。ごめんなさい、おねーさん」
「え……あ、はい、分かってもらえれば、それで」
「ほら、千紘も! ごめんなさいって、しよ」
「……ん。ごめん、なさい」
 ぺこりと頭を下げたあと、千紘くんのほうも覚束ない首だけのお辞儀をしている。それだけで、あっという間に片付くことに、瞬きが止まらない。それは隣の彼女も同じようで、私と目を合わせてひたすらぱちぱち、大きな瞳を何度も繰り返し丸くしていた。それで、彼らが引き退ってひと段落、ようやく一息肩を下ろせるかと思った瞬間であった。呑気な、若干トラウマと化している声が今度は入り口側から飛んできた。
「お邪魔しまーす、ヒナリちゃんいますかー! ……って理央に千紘! てか、これで彼方以外全員集合じゃねーか。彼方どこ行った? サッカー部のほうか?」
「漣! でも、まだ祐月が、」
「それがいるんだなあ、な?」
「……。だから、絶対人違いですってば、」
「祐月!」
「……! ゆづ、き!」
 すっかり美術室は彼らの身内感に追いやられ、お客さんがそそくさ居なくなり始めている。とんだ営業妨害であるが、それより、先生に無理矢理腕を引っ張られてやってきた、ゆづきくん。彼を見て、やはり理央少年と千紘くんが大袈裟なリアクションを取り、苛立ちを隠さない彼の威圧をも気にせずに駆け寄っていく。その彼が、ぱっと目線を逸らした、その先に、たまたま私の目線が存在してしまった。わっ、と突然背中を押されたときのように、心臓がばくんと脈を打つ。赤い瞳が、ちょうど良い逃げ場を見つけたとばかりに見開かれた。その様子に、彼らも気付いたらしい。彼の視線の先にいる私……ではなく、少しずれた先の彼女へと視線が集中して、また彼のほうへと戻る。キラキラした、期待を込めた視線で。あれ、私、もしかして勘違い……?
「あ! 祐月、今ヒナリのこと思い出した!?」
「お、来たか!?」
「ゆづき……!」
「残念ながら、ヒナリさんという名前すら知らないですし、あなたたちのことも知りません。やたらと付き纏ってくる面倒な人という認識です」
 はああ〜、と漫画みたいに大袈裟な溜息が三つ。結局、この人たちは何がしたいのだろう。記憶だの何だのと彼やヒナリちゃんに取り付いているようだけど、本人たちすごく迷惑そうだし、止めろよ、って思う。それでも先生なんかわざわざ家まで引っ張り込んで彼らに執着してるみたいだし。前世での繋がりがあるとか、そんなスピリチュアルな何かに三人してハマっちゃったとか? ば、ばかかよ。
 でも、千紘くんだけは他の二人より先に顔を上げた。そして、彼の顔をじーっと見つめ、そして彼の周りをぐるぐると回り始めた。突然の奇行に彼も流石に驚いたようで、気怠げだった表情が眉を困ったように下げて、戸惑いの色を滲ませている。最後には、彼の真正面に立ち塞がると、つま先立ちで背伸びして彼に顔を近寄せる。
「……祐月。祐月は、祐月。祐月の匂い、する、よ。俺と同じ。あのときと、同じ匂い。ひと、違くない」
「……何のことですか、初対面でしょう」
「ううん、俺たち、遠いところで、会ってる。俺たち、仲間、なんだよ、」
「生憎ですけど」
 つま先立ちをおさめるように、彼は千紘くんの両肩を押す。大人しくもとの身長に戻った千紘くんからふいと顔を逸らし、代わりに私の……いや、隣のヒナリちゃんのほうへと、顔を向けたのだろう。ここにおいて自分は部外者だということを改めて認識して、居辛さで顔を逸らした瞬間であった。
「僕がこの場で知っている人は、隣の不良教師と、今顔を逸らした彼女だけです。ね、みょうじさん」
「え、みょうじ、お前いたの?」
「はあ? ヒナリじゃなくて? てか、あんた誰?」
「あ……え、ええ?」
 逸らした顔を戻してみれば、ニコリ、と擬音つきの、わざとらしい笑顔の仮面を貼り付けて、彼は隣の彼女ではなく、私の両目をしっかりと見ていた。一同、そして私の戸惑う視線と空気を無視し、彼は確かに、私の前へと歩んできてしまった。困って、しまった。そんなシンデレラの王子様みたいなことされてしまったら、どうしたらいいのだ。ただ顔を逸らして、集中する視線から逃げようとあたふたする私とは真逆に、堂々と私と目を合わせようとする彼。でも、気付いてしまった。彼はきっと、この場から逃げ出す口実に私を使おうとしている。それを隠すことなく、瞳で訴えかけてきたのだ。赤色が、状況の曖昧さとは真逆に、濃く真っ直ぐ、射抜くような強さを持っている。その光線を受けてしまったなら、もう逆らえない。
 私は、シンデレラなんかにはなれない。ただの心中相手というか、どちらかというとお城の使用人ぐらいがちょうどいい。あなたに利用されたいの、だから、私を、使って。静寂の中、恐々と視線を合わせ、少しの間心臓を止めてから、ぎこちなく微笑み返した。
「……ゆづきくん」
「お疲れ様です。……せっかくだから、あなたの絵を、見ていきたい」
「え、……いや、でも、」
「大丈夫ですよ、僕は絵に対しては門外漢なので、批評も何も出来ませんから」
 ね、と小首を傾げると、いちょうの木が風に揺れるようであった。彼には秋がよく似合う。少しずつ、取り残されていく季節。
 私はそっと椅子を引いて立ち上がると、不思議そうな顔のヒナリちゃんに微笑んでから彼の隣へと歩み寄った。
 一同の視線をじっと浴びながら、私の絵のもとへと案内する。小さい、一枚の絵だ。目立たない角の低い位置にひっそりと置かせてもらったそれは、他のさわやかな高校生らしい作品の裏側を描くように、黒く、おどろおどろしい。私がはにかみながら指をさすと、彼は黙ってそれに歩み寄る。座り込んで、鬱陶しげにおくれ毛を後ろにやると、彼が、私の絵を見ている。まるで、一糸纏わぬ姿を覗かれている気分だった。実際に、何ひとつ纏ってはいない。ありのままの心を描いたのだから。そう思ったら途端に羞恥で熱くなってくる。他の何も知らない人にとったらただの気持ち悪い絵で済まされるけれど、彼は私の弱さを知っているわけで、気持ち悪さの奥に秘めた感情に気付かれてしまう可能性があるわけで。そんな彼に、これを見られるのは本当に、丸裸にされてるのと一緒だ。こんなの、恥ずかしくって。彼の一歩後ろにしゃがみ込むと、顔を逸らしたまま彼の服の裾を引っ張った。
「……もう、いい、でしょう……」
「……そんなに恥ずかしがることはないと思うんですが」
「は、恥ずかしい……っ! です!」
「そうですか。素敵な絵だと思いますよ。僕は好きです」
「は……えっ、いやっ、わああっ……」
 膝に肘を当てながら、赤い瞳を細めて彼が屈託無く笑う。ほんと、好きとか、軽率に言わないでください。パニックになって手で熱い顔面を覆ってしまった私を、彼が少し笑っている。というか、これ、いつもの屋上ならまだましなものの、今はヒナリちゃんっていう私の後輩や彼の知り合いを自称する人たちに見られてるんだった。しかもかなり、疑いの目を掛けられて。なんだかお互いの家族にでも見られているような心地だけど、彼は全くそんなの気にしてないし。顔を覆った手が、外せない。彼らの目が怖い。
 そんなどうしようもない状況に私が悶え苦しみ、半分喜ぶ間に、彼はすくりと立ち上がったようだった。制服のスラックスが擦れる音がして、気配がいなくなる。それからようやく少し気持ちが落ち着いたところで私も立ち上がれた。俯きがちながらも、こっそりと彼のほうを覗き見ると、彼はある一点を見つめているようだった。しかも、そこでぴたりと止まってしまって、動かない。
 デジャヴがした。いやな予感がした。私のいやな予感は、よく当たるのだ。彼は、横のその一点を熱っぽい視線で見つめたまま、美しい輪郭を保ったまま、淡い唇をかすかに開いて、私に尋ねた。
「みょうじさん」
「……はい、」
「あの絵を描いたのは、誰ですか」
「……あ、私です、……」
 奪われる。全てを、奪われる。
 彼女――ヒナリちゃんの声が、鈴のように静寂の中を転がった。
ALICE+