ちょうど、去年の、ちょうど今日。文化祭の日。私が経験したあの圧倒的な光。挫折とも言えない挫折を招いた、あの光。一年経ってもそれは衰えることなく、今度は彼をも飲み込もうとしているようだった。彼という、とうといひと、破滅のひと、私のひとを、彼女の光は包みこもうとしていた。
「……あなたが、ヒナリさん」
「……はい。私が、そう、ですけど……」
聞きたくない。何も聞きたくない、知りたくない、彼を奪わないで。彼女はきょとんとして小首を傾げ、あくまでも無垢であった。周りのひとたちが皆、固唾を飲んで見守っていた。
「……どうして、この光景を知ってるんですか」
「あ……もしかして、えっと……先輩もあの島の出身なんですか?」
「……」
「嬉しいです、同郷のひとに出会えるなんて」
彼女の、初めての文化祭で出展したその絵は、大きなキャンバスに描かれた油絵であった。海辺で、黄色い花が咲き乱れる風景画だ。透明な、見たこともないような美しい海の絵。なんでも、彼女が一時期住んでいたという島の、思い出の光景なんだという。制作途中で覗きに行った時、彼女が嬉々として語ってくれた。今は火山の噴火で失われてしまった光景らしいのだけど、それでも、こうやって鮮明に絵に描けるほど強く印象付けられた、思い出の場所なんだという。
火山の噴火、そこで何か頭に引っかかるものはあったのに、無視してしまった私が馬鹿だった。保健室で聞いた彼の過去、火山の噴火で家族を、ねえさんを喪ったという話。つまりは、彼と彼女の故郷は同じ。ただそれだけと言ってしまえばそうだけど、失われた島とあれば、特別さが増してしまう。
いや、彼があれほどに惹きつけられていたのは、その光景だけではない。きっと、彼女の描く世界のあたたかさと、煌めきと、無垢な美。もし私が彼女と同じ境遇で、同じような絵を描いたところで、こんな優しい清らかな絵を描けるだろうか。絶対に、出来ない。もっと簡単な言葉で言うならば、才能。それ一つの問題であった。絵画について門外漢を名乗る彼の目を、一目で奪う光景と才能。
かなうわけが、ないだろう。
「でも、あなたが無事で、良かったです。私はあの時別の場所に住んでたから、実際には遭っていないんですけど……」
それは何気ない一言だったのだろう。だけど、一瞬で彼の心情を変えた。それは誰が見ても分かることで、睨むようだった瞳がさらにスウと細められ、薄い唇をきつく結んでいるのだ。だめだ、と咄嗟に思った。彼にそれは、禁句だ。彼は前髪でその表情を隠すように俯く。結わえた髪のゆらめきも何かを察したかのように落ち着き、波一つない海原のようだった。
「……僕が、無事で、良かった?」
「……? はい」
「ひとり、生きたことが……? ねえさんと一緒に死ねなかったことが? ねえさんのいない世界に、生き残ったことが?」
「……」
今度黙りこくったのは、彼女のほうだった。何かを思案するように複雑な表情を浮かべ、心臓のあたりをぎゅっと掴んだ。やはり彼女でも、彼の悲しみには敵わないのかと思うと、彼という悲哀の深さに対する憐れみと愛しさと、なぜだろう、彼女に勝ったような、高揚感が湧いてくる。どんな光でも、照らせない深海はある。私如きの薄っぺらい悩みなんか彼女の前では燃やし尽くされるだけだけど、彼は、本物だから。本物だから、私は惹かれた。
けれど、やっぱり、彼女は清らかで、それでいて正しい。服を掴み直し、顔を上げ、真っ直ぐに彼の瞳の奥底を見つめる。瞳の奥底の、美しい濁りを、血の海を。それで、言うのだ。
「それでも、私は、……私が、『思う』ことは、変わらない。あなたが生きていたから、私はこうしてあなたに出会えたんです。あなたのことを知る可能性が、出来たんです」
私は、彼を、殺してあげたい。
「あなたが、生きてくれて、嬉しい」
彼女は同じ彼の過去を知った上で、真逆の答えを出したのだ。それは私が出せっこない答え。乱暴な押し付けのようで、でも彼女だから許され、真っ直ぐひとの心に届く思い。彼女の、これまでの出来事や、これからをもとにした、彼女の答え。
きっと、正しいのは、あなただ。
ヒナリちゃんも、やっぱり、ヒナリちゃんなんだな。ぼそりと呟いた先生の声が、妙に胸に刺さって、彼女がまた恨めしくなって、恨めしくなったことが自分の首を絞めた。
沈黙が、ひとつの芸術のように鎮座する。誰一人として、口出しできるような状況ではなかった。口出しできるとしたら、彼女か、もしくは、彼だけ。その彼は、真っ直ぐに清らかな彼女の瞳に対し、赤黒く濁った瞳を向け返すだけで、何か動く気配はないように思えた。けれど、それは不意なことだった。彼の下唇が、ぐ、と噛み締められる。薄い皮だけのような儚いその唇は、そんなにも強く噛んでしまえばすぐにぷちりと血が溢れるのではないかと思って怖かった。一秒、二秒、三秒、俯いたままそれを続けたあと、彼は唐突に顔を上げた。そのときには、私の好きな、誰人も寄せ付けないような、薄い硝子を貼るような、微笑の名がせかいいち似合うあの微笑の仮面を完成させていたのだった。
「そうですか。意味が、わかりませんね」
先生が少し苛ついたように眉を顰めるのも気にせず、彼は踵を翻す。麦色をした髪がふわりと視界を包むように靡いて、私がそれに心臓を奪われる間に、彼は私の前に佇んでいた。まごう事なき、私の前だ。私の前に、私の知ってる、彼がいる。その幸福に、私がふと涙を零しそうになった瞬間、彼は奪うように私の片手を取った。滲みかけた涙が凍りついて、代わりに心臓が一度、どくんと大きな脈を打った。
「……ヒナリさん、」
「は、はい……!」
私の手をその細い不気味な両手で包んだまま、彼は首だけで振り向き彼女を呼ぶ。弾かれたように返事をした彼女に、彼はまた微笑んでいるらしかった。その様子を前に、私は何も動けないまま、ただ彼の横顔の美しさに見惚れていた。見惚れて、いた、
「彼女を、借りてもいいですか」
「……みょうじ先輩を? 当番なら、もうあと10分くらいで交代ですけど、」
「なら、もういいでしょう。……それじゃあ、あなたたちの知る『祐月』が、見つかるといいですね」
見惚れて、いる場合ではなかった。なんで、どうして、そうなった。彼以外の全員が困惑した表情を浮かべる中、彼はもう強引に私の手首を引っ張って、出口へと歩き始めている。何が起こっているのかわからない。ただ彼の導くほうに引っ張られることしかできない、その間にも、幾多もの声が私をすり抜け彼の背中に飛んできては、跳ね返される。
「おい祐月! ちゃんとヒナリちゃんに会えって!」
「祐月! 馬鹿、みんな揃わないと、僕たち……!」
「ほんとに、忘れちゃった、の……?」
「……、ゆづきく、ん、」
「大丈夫。行きましょう」
彼は、ずるい。そうやってはらりと振り返り、鼻筋にひかりを乗せ、見下すように微笑まれてしまっては、私が従わずにいられないことを、知っている。あたまが理解をする前に、熱く茹だるようなこころが、指令を出した。廊下に出た時、私から手を握った。彼も少し笑って、頷いた。美術室の扉から顔を覗かせ叫ぶ先生たちを無視して、彼の行くまま、走り出す。
ふたりは、浮かれた人混みのなかを、煙のようにとおりぬけてゆく。安っぽいメイド服を着た女子生徒、血糊で顔を染めた男子生徒、看板を高く上げて宣伝して回るひとたち。混沌とした学園祭、ふたりが通ろうが通らまいが、その光景は変わらない。皆が皆、己が目的のために学校中を練り歩く。けれど、私は、感じている。数多の一瞬の視線が積み重なった集合体、彼への畏敬。私への嫌悪。なぜおまえがそこにいる。なぜ彼の隣におまえがいる。おまえに、なんの価値がある。最初は、それが怖かった。俯いて、彼の足元だけを見て、ひとにぶつからないよう必死に歩いていた。でも、あるとき、不安の糸がぷちんと切れた。前を向いた。肩がぶつかっても、気にならなくなった。なんだか、楽しくなってしまったのだ。だっていずれ彼と死ぬんだもの、今何が起ころうと、何を思われようと、どうだっていいじゃないか。死んだら全部どうでもよくなることで、何をこんなに迷っていたのだろう! 私たちは、これ以上なく明るい未来に向かっている。死の世界。破滅の未来。とても眩しく、美しく、尊い。まるで彼のような世界。それを、ひとは、ひどく恐ろしい場所のように言うって、変だ。生きているこの世界のほうが、ずっと醜くて、恐ろしい。おかしくて、おかしくて、にやけが抑えられなかった。
彼の手を、もう一度強く握った。ずっと歩くうちに彼の低い体温と私の無駄に高い体温が溶けて、ぬるい。それが私と彼の証のような気がして、嬉しくって、笑って、足を止めないままに彼を呼んだ。
「ゆづきくん!」
心の底から笑ったのは、一体いつ以来だろう。振り返った彼は無言だったけれど、それでも嬉しそうに、心の底からほがらかに、生き生きと笑っていた。
「ゆづきくん、どこへ、行きますか!」
「どこへ、行きたいですか」
「あなたの行く場所なら、どこへだって!」
それがたとえ、こんなにも醜く血生臭い生の世界だって、あなたがそこにいるなら私、同じところにいきたいの、あなたのところへ、
いきたい、
生きたい?
私は今、彼と共に、生きたいと、思ったの?
「みょうじさん、ありがとう」
死への渇望でつながった、私と彼。生きたいと思ってしまえば、魔法はいとも簡単に解けてしまう。けれど、その彼と、一緒なら。醜いこころを持ったままの私でも生きられると、生きたいと、彼と共にいたいと、思ってしまう。それはつまり、魔法が解けてしまうということで。それはつまり、それは――。
私の中のなにかが、少しずつ、少しずつ、変わり始めている。そんな勘違いを振り払いながら、私は縋るように繋がった手のひらに力を込めた。