はしりぬけ、とおりぬけ。彼らが追いかけてきていないことは、わかっている。ただ、私たちは、逃げたかった。きっと、現実から。自分自身という、不気味ななにかから。廊下をとおりぬけ、階段を駆け下りて、職員室の前を通って、渡り廊下を走り、辿り着いたのは別棟の一階、図書室だった。ひとは、めっきりいなくなってしまった。別棟は、文化祭の間は移動した机や椅子をしまっておく物置として利用されていて、一般客には解放されていないのだ。図書室もやはりそうで、長机の天板の上には逆さになった机がぎっしりと敷き詰められている。電気もつけないまま、彼はこんな世界の端っこみたいな場所に私の手を引き、いざなって、それで不意に立ち止まった。すこしだけ走ったからだろうか、肩がわずかに上下している。結わえた髪がふわりと彼の背中に這おうとしたとき、彼は急に振り返った。そして、まるで日暮れに遊びから帰ってきた子供のような朗らかな表情で私に微笑み、低い本棚を背もたれにしてズルズルと座り込んだ。それに倣って、私も分厚い全集一冊分の距離を開けて、彼の隣に体育座りをした。それで、深いため息をついて、笑った。
「……みょうじさん、疲れましたか」
「ゆづきくんも、疲れましたか」
「ちょっとだけ。でも、楽しかった」
「私も、楽しかった」
 そんなことを言ってたら、また可笑しくなってきて、ふたりとも口元を押さえながらクスクスと笑った。変なの、こんなにもほがらかに、破滅を抱えたあなたが笑ってる。皆の前では淑やかな姿しか見せないあなたが、私の前で、心から可笑しそうに笑ってる。この気持ちの名前は、一体何と言うのだろう、気づかないままでいたかった。
 ひとしきり笑い終わったあと、彼は緩んだ口元を引き締めないままに、ちょうど二人の距離をはかっていた全集に手を伸ばした。本は殆ど読まない私でも名前を知っているような、古い有名な作家の全集だった。本の背表紙の上に、骸骨みたいな人差し指を引っ掛けて、傾け、両手で取り出す。本は、随分長い間ここに眠っていたらしい。彼が硬い表紙を開くと、細かな埃がきらきらと舞う。斜め上の窓から射す秋の陽に照らされて、まるで細雪のようだった。
 その、季節外れの、雪の中。少し足を崩して、私との間に開かれた本を、指先でなぞるこのひと。あまった手で、落ちてきた髪を耳にかけるから、頬から顎へ、すこし角度のついた輪郭が露わになって、妖艶だ。斜め上からの光は同時に影を生み出し、彼の顔のつくりが如何に整っているかを強調する。でも秋の実のような赤色の、憂いを帯びた瞳だけはたとえ影の中だろうとまばゆく光が滲んでいて、それで、口許にはほんのりと微笑みを含ませながら、長い指先で文字を辿るのだ。それを、こうして、こんなに、間近で私が見ている。胸が突かれて、血が滲むようだった。血と一緒に溢れてきた多幸感に、頭の中を占拠されていた。その、幸せの中から、溢れてきた言葉。
 ――すき。
 それに、目を覚まさせられる。好き、って。こんなに尊い、神の寵児みたいな彼に思う「すき」なのに、今のはまるで、変に浮わついた、溺れるような「すき」だった。途端に自分の世界が混乱し始めたとき、ちょうど都合良く、彼が不意に私の目を見て、瞳を細めて微笑んだ。顔が熱くなって、ぎゅっと心臓が窒息しそうになった。
「この話、読んだことありますか」
「……。ないです」
「最近、読み直したんですけど、そうしたらなんだか主人公の女のひとが、あなたみたいに思えてきて」
「……え、」
 頬の熱が、かあっと、さらに上昇する。私がいないところで、彼が私のことを考えてる、とか。その様子を見て、彼はまた可笑しそうにからからと笑った。
「な、なんで、」
「なんででしょうね。でも、強いて言うなら、大人しそうに見える中の、爆発力?」
「それは……っ! なんというか……その、」
「あはは。全集じゃ持ち歩けないだろうし、僕の文庫本のほう、今度貸しましょうか。ここにもあるかもしれないけど……ちょっと待ってくださいね」
 私がしどろもどろする間に、彼は迷うことなく立ち上がると、同じ作者、同じ作品の文庫本を手にとってすぐに帰ってきてしまった。さっきと同じ場所に座って、はい、と手渡される。タイトルは、文学史か便覧で見たことがある気がする。裏表紙のあらすじに並ぶ単語を取り出して、こころに浮かべてみて、すこし、ときめいた。滅びの美しさ。古い道徳。恋と革命。すきな言葉だと思った。滅んでいくひとは、美しい。うまく滅びきれない、生に執着してしまう私は、醜い。古い道徳は、いつの間にか私を支配して離さない。
 ただひとつ、恋と革命という言葉は、よくわからなかった。恋は、まだうまく掴みきれないし、革命という言葉もしっくりこない。出来ることなら、革命は起こらない方がいい。彼と隣で笑える今が、と、そこまで考えて止めた。生きたくなってしまいそうだった。
 気を紛らわすように猫背になって、ぱらぱらと頁をめくっていると、彼はくすりと微笑みを漏らして全集を閉じ、本棚に戻す。すこしそちらに気を引かれて、流し読みに集中できなくなってきたときのことであった。膝を抱えた彼が、私の頭のてっぺんから足先まで視界に収めて、寂しそうに笑っていたのは。それが寂しそう、と思った理由はわからないけれど、とにかく、さっきまでの浮かれた気分の高揚はすこし収まったようで、私の気分も一緒に、静かになっていく。
「……みょうじさん」
「は、い……」
「みょうじ、さん」
「……はい」
「……あと少しだけ、隣に、いてくれますか」
「……」
 甘い言葉だと思ったけれど、それ以上に、理解ができなかった。一体、どうしたと言うのだろう。でも、なんとなく理由は分かる気がした。去年の私と、同じような理由だ。
 彼女との出会い。きっと、そうだ。私も彼女に変えられた。良い方向か、悪い方向か分からないけれど、あの優しすぎるひかりは、私にはあまりに眩しすぎた。彼もきっと同じで、彼のなかの何か大事なところが、彼女に触れられ、刺激され、奥のほうから変わろうとしているのだろう。でも、変わるって、おそろしく勇気のいること。元に戻ろうとする力の方が余程強いことは、私も経験上よく知っている。だから私という死の共犯者と一緒にいようとしたのではないだろうか。それで元の自分に戻ろうとしたのではないだろうか。そういうのって、なんて言うんだっけ、確か、生物でやったはずだ。
 ……ホメオスタシス。そう、ホメオスタシス。恒常性。からだの内部を、一定に保とうとする働き。彼の内部でも、きっと同じことが起こっているんだろう。きょとんと瞳を丸くした彼のほうを向かないまま、すこし得意げに笑った。
「ゆづきくん、それは、ホメオスタシスです。ゆづきくん、きっと、変わり始めてるんです」
 言ってから、自分も同じかもしれないと思って、悲しくなった。
「変わっていく、その反作用の向先が、たまたま私なんですよ、」
「……だめ?」
「……私は、」
 じゃれるように蕩けた、少し含みのある囁きが、脳を麻痺させる。けれど、たぶん、だめなんだと思う。だって、そんなことされたら、私が変わってしまう。でも、彼のためにはなりたい。黙りこくって顔を背けた私に、彼は一冊分の距離を詰めた。ひとの腕と腕が、触れ合った。私とは違う、熱い体温。彼の、体温。何か反応したほうがいいのか、それとも何でもないふりをしたほうがいいのか分からなくて、お互い顔をあわせることは出来ないまま、ただぼんやりと立ち並ぶ本棚たちを眺めながら、彼は訥々と話し始めた。彼なりに甘えたいんだな、と思って、おずおずと瞳を閉じた。
「あの人たち――漣さん、先生たちが言っていること、全部変な妄想だと思っていた」
「……」
「でも、たまに、声がするんです。頭の中に直接刻み込まれた声が、それが、あの人たちの声にすごく似ているんです」
「……え」
「でも、僕はあの人たちの言うこと知らないし、そう思ったら、自分が誰なのか分からなくなる……。まるで、本当の自分がどこかにいて、今ここにいる僕は偽物のような、そんな錯覚がする。僕は、この僕しか、知らないのに」
 彼は、膝を抱えて、うなだれる。私だって、私のことが、わからない。私、死ぬんでしょう。彼と一緒に、静かに生へ反逆するんでしょう。なのに、さっきの私は一体どうして、一瞬でも生きたいだなんて。自分という人間の、何か得体の知れない部分。自意識という、精神の輪郭が波打って、解けていく。今ここにいる私が私のはずなのに、どこでもない、自分の奥からそれを揺るがされる恐怖。私も、彼と同じ。彼も私と同じ。だから何も答えられなくて、でも私が答える前に、答えてくれたのは彼だった。
「だから、あなたといたいんだ。あなたは、僕を僕だって、言ってくれるでしょう」
 笑う彼に、そっかあ、と頷く。私は、彼を知っている。私だけは、あなたの証明が出来る。あなたは、あなた。ゆづきくん。あなたは私の、とうといひと。こんなにも醜い私の中で揺らがない、彼への聖なる尊び。その事実さえあれば、私は、ようやくあなたに恩返しできるのだ。
「ゆづきくん」
 まだ、顔は合わせないまま、あやうい口調でそう呟いた。一度呟けば、溢れるかのように、言葉が雫になってぽたぽたと落ちて、ふたりの空気の中に沁みていく。
「ゆづきくん、ゆづきくんは、ゆづきくん……だいじょうぶ、ですよ」
 あなたをあなただと言う私は、もう私ではないかもしれないけれど、それでも、彼がそれを望むのだから。
「……だいじょうぶ、ゆづきくん」
「みょうじさん」
 だから、私は、ほんのすこしだけ、嘘をつく。変わり始めている彼と私に、気づかないふりをする。
 今がずっと続くのだという幻想を、信じて、信じて、信じるの。
 ――ごめんなさい。
 それは、私の心の呟きだったのか、彼の心の呟きだったのか。一体、誰に向けた言葉なのかも分からない。ただ、少なくとも私の胸は、誤って針を刺してしまったような、球になった血がぷっくりと浮かんでくるような痛みを感じていた。
 木々の色が、いつの間にか変わっている。若々しかった青葉から、赤く色づいた紅葉へ、そして最後は、枯葉になって、ばらばらに落ちていく。図書館の窓から、その落ちていく枯葉を眺めながら、こっそりと彼の肩に身を預けた。
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